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愛してくれて、ありがとう

定年を迎えた父には、毎日欠かさず続けていることがある。朝と夕方、決まった時間に犬を散歩させることだ。ただの犬の散歩、しかも一日二回。

そう聞けば、たいしたことのない日課に思えるかもしれない。

けれど、現実はまるで違う。うちの犬は大きく、体つきもごつごつしていて、力がとにかく強い。一度引っ張られたら、体ごと持っていかれそうになるほどだ。しかも実家の散歩道は、家を出た瞬間から長い下り坂が続く。勢いがついた犬を制するのは、想像以上に体力を削られる。

ちなみに、母は1日か2日ほどで、音を上げた。無理もない、力のある僕でさえ、正直かなりきついと感じるのだから。

それでも父は、誰に頼ることもなく、弱音を吐くこともなく、毎日、朝と夕方、そのリードを手に取る。淡々と、当たり前のように。この散歩は、運動でも、気晴らしでもない。父にとっては「やると決めた責任」を、今日も静かに果たしているだけなのだ。愛犬への情ももちろんあるかもしれないが。

その背中は多くを語らない。けれど、その無言の積み重ねこそが、父がこれまで歩んできた人生の重みなのだと、今になって、僕はようやく気づき始めている。

父は今日も、朝早くから愛犬を連れて歩く。朝五時半頃になると、犬は父の気配を察したように、待ちきれず激しく鳴き始めるという。

大きな体で、全身の力を使って引っ張られても、父はその手綱を決して離さない。乱暴に扱うこともなく、ただ黙って、今日も大事に引いている。

少々の雨では休まない。風がどれだけ強くても、雪が降ろうとも関係ない。天気も、気分も、時に痛む足の古傷さえも言い訳にはならない。

父にとってそれは「特別なこと」ではなく、ただ、やるべきことなのだ。誰に見せるわけでもなく、誰に褒められるわけでもない。それでも父は、今日も変わらず外へ出る。その背中が、父の生き方そのもののように、静かに、そして確かに胸に残る。その背中は誰よりも強く思え、誰よりもかっこよく思えた。僕はたまに、その背中をじっくり目に焼き付けるようにして見つめる。僕が生きている限り、その静かなる強き背中を忘れないために。

朝夕の父の日課を、歩数計で例えると、他の用事も含めて毎日だいたい一万歩くらいいくらしい。

それだけでも十分すごいのに、散歩の節目には、欠かさず腕立て伏せを六十回ほどこなす。誰に見せるでもなく、誇るでもなく、ただ黙々と。

七十代を迎えた父の肉体年齢は、五十歳ほどだと言われているらしい。正に鉄人だ。だけど、その言葉に驚きはなかった。むしろ「そうだろうな」と、自然に思えた。毎日を丁寧に生き、身体とも真剣に向き合ってきた結果が、そこにあるのだと思うから。派手さはない。けれど、その背中は雄弁だ。

本当に、本当に、こんなにも偉大で、すごい父親を持てたことを、心の底から誇りに思わずにはいられない。

今日も父は、静かに散歩へ出掛けていく。そこに愛犬がいる限り、その足が止まることはない。注がれる愛情も、決して途切れることはない。

その背中を、僕はあと何回見ることができるのだろう。あなたに、あと何回、会えるのだろう。

まだ道半ばだが、振り返れば、僕の人生は決して平坦ではなかった。過酷で、数奇で、苦労の絶えない道だったと思う。

それでも、これだけは迷いなく言える。あなたが、僕の父親で本当に良かった。あなたの背中を、こんなにも近くで見てこられて良かった。

あなたは、僕がまだ幼かった頃から、ずっと一生懸命に僕を愛してくれていた。海で遊んでいたある日、僕の耳に水が入ってしまったことがあった。するとあなたは、周りの人の目など気にも留めず、その場にしゃがみ込み、僕の耳にそっと口を当てて、水を吸い取ってくれた。幼い僕を心配する、その必死な姿を今でも覚えている。

そして、僕が引きこもっていたあの頃。あなたは本業の仕事だけでも、十分大変だったはずなのに、さらに新聞配達まで始めてくれた。配る新聞は、およそ250件。

まだ夜が明けきらない暗い道を、約2時間かけて回る。もし配り忘れがあれば、そこからまた戻らなければならない。大変な作業だ。それでもあなたは、毎日黙々と続けていた。弱音など吐かない。多分、弱音を吐けば、僕に伝わる、そう考えていたのだろう。

それはきっと、外に出られなくなっていた僕に、少しでも勇気を見せたかったからなのだと思う。

本業の仕事に加えて、早朝の新聞配達。あなたは、自分の体を削るように働きながら、それでも僕のために動き続けていた。

そう、あなたはいつも、自分の命を削りながら、僕に無償の愛情を注いでくれていたのだ。当時の僕は、その意味をきっと全部は分かっていなかった。けれど今になって、ようやく分かる。あなたは、ずっと僕を守ろうとしてくれていたのだ。

黙って示す強さ。言葉より深い、責任と愛情。そのすべてが、今も僕の中で生き続けている。本当に、本当に、ありがとう。心の底から、そう思える。

もし、また生まれ変わることが許されるのなら――
また、あなたの息子として生まれたい。
そう、切に願います。


愛してくれて、ありがとう



ハル

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