見出し画像

確証バイアス

人は自分が聞きたい話だけを聞きたい。
それが作り話でも、たとえ嘘であっても。

真実であろうとなかろうと、ともかく同じことを何度も繰り返せば人々はそれを信じてしまうということに政治家たちが気づいてしまった。と警鐘を鳴らすべく出版されたジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』トランプの出現により、その日本語版出版にあたってわざわざ書下ろしの序文を付け足さねばならなくなった。『啓蒙思想2.0』の英語版出版時にはまだトランプが大統領になるまえだったのだ。
ヒースいわくトランプに比べれば、本書に書かれている例などはかわいいものだと注意書きしておかねばならなかったのだ。

アメリカ大統領選につづき、日本の兵庫県知事選においても県民は嘘か本当かわからない情報に翻弄された。
これはSNSによるところが大きいとマスコミ各社は分析している。
SNSを通して流れてくる情報というものはAIによる解析を通して、
「おまえはこんな話が好きなんだろう」
と言わんばかりの情報が流れてくる。
情報の発信者は見てもらってナンボなので、とにかく視聴者の好みに合わせてくる。あとはAIが勝手に好きそうなところへ届けてくれる。

ユーチューブは何百万もの人を対象に試行錯誤の実験を繰り返し、フェイスブックのアルゴリズムが学習したのと同じパターンを発見した。すなわち、憤慨や憎悪を煽って攻撃的な言動に走らせるようなコンテンツはユーザーエンゲージメントを押し上げる一方、節度あるコンテンツにはそのような傾向はないというパターンだ。ユーチューブのアルゴリズムはそれに即して、常軌を逸した陰謀論を膨大な数の視聴者に推薦し始める一方、節度あるコンテンツは無視した。(中略)
人々の注意を惹くことに夢中のユーチューバーは、嘘まみれの常軌を逸した動画を投稿すると、アルゴリズムがその動画を大勢のユーザーに推薦し、そのユーチューバーの人気と所得を高めて報いてくれることに気づいた。それに引き換え、非道を慎み、真実に徹すると、アルゴリズムに無視されがちになった。

ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS』下 第8章

YouTubeのホーム画面に「お金が流れ込んでくる」とか、「視た次の瞬間から億万長者になれる」とか、「すぐに夢が叶う」とか、そんな動画だらけになってしまっている私もさすがにその真贋を疑わないわけにはいかない。SNSには怪しい情報がたくさん混じっている。兵庫県知事選のとき、テレビメディアは我々はファクトチェックしてからじゃないと流せないみたいなことをさかんに吹聴していたが、マスコミはげんに嘘をついてきた。イラク戦争の当時、イラクに大量破壊兵器だの、地下に巨大な宮殿だのといっていたのはアメリカのプロパガンダをファクトチェックをまったくせずにそのまま流した。フセインは地下宮殿どころか1メートルあまりの穴で発見された。それらはすべて何の根拠もない出鱈目だったのだ。なのでファクチェックなんていうのはただの詭弁に過ぎない。マスコミだって自分たちの都合の悪い情報は隠し続けるというのは今では周知の事実だ。しかしだからといって、一事が万事とばかりにマスコミは嘘だらけか、といえばそんなわけもない。
そういえば、書籍にだっていい加減で怪しいものはたくさんある。つまりいまSNSでやられていることは、これまでマスコミや出版がやってきたこととあまり変わりはないのである。
ただここで、何を信用すればいいかを問うつもりはない。
何を信用するか、というか何を選ぶかだ。
ユヴァル・ノア・ハラリは、

どれを選ぶかは真実の問題ではなく願望の問題なのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS』上 第5章

と言っている。

私は一応、読書が趣味で本を買うのだが、ビンボーなものなので中古本ばかりを買っている。中古本でもアマゾンの最安値のものばかりなので、状態の悪いものも多い。なので線が引かれている本を買うこともしばしばだ。
私はこの線が引かれた本が好きで、このあたりでやめようかとおもったとき、ページを二三枚めくってみて、線が引いてあったら、そこは大事なことが書かれているみたいだから、そこまで読んでみようという気になる。
ところが、これがよくあることなのだが、
なんでこんなところに線が引かれているんだろう?
と思うことがよくある。
かくいう私も線を引きながら本を読む(もともと中古本だから躊躇なく引ける)。
これまで、前の持ち主と私と線を引くところがかぶったことがほとんどない。
そこでようやく確証バイアスに行き着いた。
私は(あたりまえだが)自分の好きな本を選び、そのなかでも自分の好きな、あるいは自分に都合のいい部分だけを切り取っていたにすぎないのではないか?と。
大学生のころ、レポートだの論文だのというものを書くとき、文献の自分の仮説に都合のいい部分だけを切り取って引用して書いていたが、それと同じことをいまもなお続けているのではあるまいかと。
そうしてこのnoteに書いていることはその産物なのではあるまいか。

ユングもアドラーもフランクルも元はフロイトのもとで心理学を学んでいたが、学ぶうちに独自の路線を見出していった。フロイトは自説以外のものを認めようとせず、後継者と可愛がっていたユングと決別した。結局ユングもアドラーもフランクル(フランクルの場合は特別だが)も独自の道を進むようになる。大山倍達が創始した極真空手からいろんな流派をできたように心理学もフロイトからいろんな学派に分かれてゆく。

おそらくは、世に出回っている論文やレポートというもののほとんどは大なり小なりこういった手法をとっているに違いなく、科学者だって自分の仮説に都合にいいデータばかりを使うこともあるはずだ。ゆえに地球温暖化にも賛否両論があるわけで、政治家は自分の有権者の喜びそうな説を採用すればいい、ということになっているわけである。








いいなと思ったら応援しよう!