武士と戦(いくさ) 鎌倉システム
蒙古襲来絵詞を見たことがある方は多いかと思うが、その絵がどういう経緯で描かれたかを知っている人は少ないかとおもう。
馬に乗った鎧武者が灰色の顔の蒙古兵と戦っている姿を描いた絵で、教科書にも載っている。
この絵は(むろん諸説あるのだが)、この馬に乗った武者が鎌倉の幕府に対して、自分はこれだけの武功をあげたのだから相応の恩賞をいただきたいと訴えでるため絵師によって描かせたものといわれている。
武士にとっての立身出世は戦で武功をあげるより他に手だてがない。
だから武士は戦となれば死に物狂いで戦う。それは自分自身だけのものではなく末代にまでかかわる重大事なのである。
いまでも――、戦国あるいはそれ以前の戦の武功の恩恵を受けている人がいるほどだ。ここまでくるとご先祖様は大事にせねばならぬという気持ちは痛いほどわかる。また、この逆もしかりで、いまなお敗戦の憂き目を被る人々だっている。
だから武士は死に物狂いで戦う。
しかしあくまで恩賞ねらいであるから、死に物狂いであっても命を無駄にはしない。
戦がないかぎり彼らの地位や収入というものはずっと変わらない。
暮らしをよくするためには戦で武功をあげるしかない。
戦がなければずっとそのままで浮かばれることはない。身分が固着してしまう。だから――、徳川300年の治世というものは武士にとってはチャンスなき時代ともいえ、そのエネルギーが爆発するのが幕末の動乱期にあたる。
忠臣蔵が持て囃されるのは、戦のなかった時代の唯一の戦だったからという話もある。
幕末の動乱期というのは、それまで浮かばれなかった下級武士や農民が駆け上がるチャンスであったのだ。
なかでも有名なのが新選組である。
新選組は幕末のヒーローとして描かれることも多いが、この新選組局長の近藤勇は百姓の出であった自分が武士のみならず大名にまでなれると信じていたと言われているが、もしも幕府軍が勝利していた場合、本当にそうなっていたかもしれない。
これは幕府軍だけに限らない。倒幕に成功した官軍だって同じだ。
薩摩の大名島津久光は倒幕後、大久保利通に「わしはいつ将軍になれるのか?」と問うたと言われているし、維新後の西南戦争をはじめとする数々の不平士族の反乱や大久保利通の暗殺は、600年まえの蒙古襲来のときと同じく、戦で武功をあげたにもかかわらず恩賞を貰えないばかりか、武士という身分まで取り上げられることへの不満から端を発している。
みな武功をあげて立身出世に繋げようよ命がけで奮闘したのである。
この600年以上つづいたシステムをつくったのが鎌倉幕府である。
もちろん、それ以前の奈良・京都の時代から武功をあげれば恩賞に預かるという制度はあったのだが、平清盛が登場する平安末期まで、少なくとも政治の中枢にいるのは公家や貴族であり、武士はあくまでその配下でしかなく、それ以上の地位を獲得することはなかった。
清盛が朝廷内で力を持つことではじめて武士の地位が向上した。
しかし清盛は自分の一族の者ばかりを重用し、朝廷内を一族で固めた。
これに対し、(これは頼朝の一存であったかどうかは不明だが、)源氏勢は武功のあったものにそれなりの恩賞、すなわち地位と領地を与えるという形をとった。
それまで都から虐げられてきた坂東武者たちはこの制度に勇躍邁進するのである。
結果は歴然である。
兵のモチベーションがぜんぜん違う。
平家は破れ、源氏は勝って鎌倉幕府ができた。
ただ、この暴力でもって支配するという欲望むき出しの制度がゆえに、鎌倉幕府ではだまし討ちや身内同士の殺し合い、あるいは毒殺などの陰惨な事件が相次ぎ、ついには源家も北条に事実上滅ぼされる始末で、鎌倉幕府や源頼朝というのはあまり評判がよろしくない。
しかしこの欲望むき出しの制度こそが蒙古の襲来を跳ね返す原動力となった。
蒙古は神風(台風)によって殲滅されたというのが定説ではあるが、神風が吹くまで蒙古軍を上陸させなかったのは、何はともあれ鎌倉武者の奮闘のおかげなのである。そしてその奮闘の裏には武功を遂げたあとの恩賞、すなわち鼻先にぶらさげられたニンジン効果があるのだ。
――ばかりではない。このときは仏教界も蒙古に対して怨敵調伏の呪詛をさかんに行い、神風はまさにこのおかげとして、幕府に恩賞を求めている。これは太平洋戦争のときも行われた。
こうして考えると武士の台頭というものは歴史の必然だったかもしれないが、清盛から始まって、ついには源氏へと武士が台頭していく過程というものは蒙古を跳ね返すための準備だったようにも思える。
公家化し、武芸よりも芸事に夢中になっていた平家に蒙古を防げたであろうか?ましてや公家や貴族に。
多少野蛮だったとはいえ、鎌倉武者とそのシステムがあったからこそ蒙古を防げたのではあるまいか?
その後あらわれた足利尊氏は気前のいい人物で、武功のあった武将に気前よく領地を分け与え、これが後の戦国時代へと繋がってゆく。
織田信長は当時流行で貴重であったかしれないが茶器を恩賞に与えるようなケチであったから天下は獲れなかった。
それに比べ豊臣秀吉は気前のいい人物で存分に恩賞を与えたので出自が卑しくても天下が獲れた。しかし与える領地がなくなってしまって朝鮮にまで攻め込んで失敗する。
徳川家康は気前がよかったという話は聞かないが、石田三成はもともと秀吉のイエスマンとして出世した人物で、すぐれた官僚すなわち堅物で、戦で武功を上げて出世したものではなかったため、諸侯の人望はなかった。家康はすでに秀吉が天下を平定したあとの関ケ原の一戦で勝負が決したために与える恩賞もしれていた。もしも信長、秀吉が天下を整地していなかったなら家康が天下と獲ることもなかったろう。
大阪の陣で豊臣方についたのは関ケ原の戦いで敗れた敗軍の将たちで、彼らは自分たちが一生浮かばれることがないことを知っていた。だから彼らにとっては起死回生をねらういわばチャンスの場でもあったのである。
剣豪宮本武蔵も老いてなお島原の乱の鎮圧軍に加わったという記録もある。このように武士の行動規範というものは立身出世のために武功を遂げることにつきる。
この鎌倉幕府がつくったシステムがときに国を守り、ときに戦乱の渦に巻き込みながら前述のとおり明治にいたるまで700年にわたってこの国で機能してきたのである。
