世代のはざまで
エドゥアルド・アーキンバウのワークショップが開かれたその日は、暑くもなく寒くもなく晴れた穏やかな日で、自転車に乗って会場に向かうのにぴったりでした。歴史的な建物を改装した美術館の一部、時折コンサートなども催される庭に開けた多目的ホールに、ワクワクしながら足を踏み入れると、予想に反して、そこには椅子がびっしり並べられていました。あれ、部屋を間違えたかな? 受付の人にたずねると、彼女はにっこり笑っていいました。そうですよ、ここですよ、アーキンバウ先生の講義は。
てっきりダンスワークショップと思い込んでいたその催しは、実は現代舞踏史の公開講義だったのです。研究者らしき人もまじる聴衆の前で、黒縁の眼鏡をかけて用意した紙の資料をめくりつつ、ゆっくり言葉を選んでアルゼンチンタンゴの歴史について話す「プロフェッソール」の声を聞きながら、私は(自分のそそっかしさを棚に上げて)、なぁんだ、ちょっとガッカリ。伝説のタンゲーロにダンスを教えてもらえると思ったのに……。
エドゥアルド・アーキンバウ(Eduardo Arquimbau)がアルゼンチンタンゴのレジェンドの一人であることを疑う人はまずいないと思います。パートナーのグロリアとともに、タンゴのリバイバルのきっかけとなったショー『Tango Argentino』のオリジナルキャストの一員であり、その後も世界中の舞台でスケールの大きな、粋が香り立つタンゴを見せてくれました。また、アルゼンチンタンゴ界の発展という事にも心を砕いてこられて、(妬み嫉みひがみ誹謗中傷も少なくない)タンゴ界において、悪く言う人がほとんどいない、という稀有な方でもあります。
世代的に考えると、エドゥアルドは定かな記録の少ないミロンゲーロ世代とアルゼンチン民主化以降のダンサーを繋ぐ世代で、今のタンゴの世界的展開に大きく貢献したことから、グランマエストロと呼ばれる人たちの一人です。他にも、アントニオ・トダロ、ぺピート・アヴェジャネーダ、フアン・カルロス・コぺス、ミンゴとエスター・プグリエーセなど、たくさんの名前がグランマエストロとして上がるかと思います。
グランマエストロたちは、それぞれ情熱を持って、たくさんの弟子をアルゼンチン内外で育ててきました。Fさんはそんなグランマエストロの直弟子のひとり、ご本人も世界中で教えるすごい方なので、F先生、とお呼びするべきなのかもしれませんが「Fさん」なのは、直接教えていただいたことがないこともありますが、いつもニコニコしていて、気さくに面白い話を聞かせてくださるからです。例えば、
「Esquinero(すみっこ野郎)って知ってるかい? Esquinera(ホールの四隅、他より少し広いので踊りやすい)で、ずーっと踊ってる奴のことさ」
アハハ、確かにちょっと迷惑ですよね、後が詰まっちゃうし。また、Fさんによると、「上手いリーダー」とは、
「1タンダを4サイドで踊れる奴さ。(1タンダはタンゴ4曲一組なので、フォロワーが座っていた)席の前から踊り初めて、1曲ごとにホールのサイドを回って席の前まで戻ってきたら(踊った後、彼女の席まで)エスコートするのに具合がいいだろ?」
なるほどー! と感心すると、照れたように、
「いや、昔は皆そう言ったんだよ。今はそんなことないけどね……」
今はそんなことないけどね、というのは彼の口癖で、
「昔のミロンガで(他のペアに)ぶつかったりしたら、恥ずかしくって、最低でも2週間は(そのミロンガに)行けない。いや、今はそんなことないけどね……」
という感じで、今昔の違いを、飲み物の値段からタンゲーラの靴のデザインまで幅広く話してくれます。……あの、Fさん、藪から棒ですけど、どうしてタンゴを(プロとして)踊るようになったんですか?
「僕は別のダンスから入ったの。そこそこ体は動いたんだけど、やっぱり、(タンゴのステップは踏めても)動きがバレエかフォルクローレか、って感じでね。はじめのうちは歩く練習ばっかりで(タンゴの師匠に)ミロンガに行かせてもらえなかった。半年くらいたって、やっと師匠が『よし、このミロンガには行ってもいい。が、踊っちゃいかん。皆より早く行って最後までいて、来る人みんなに挨拶するだけだ』って」
えー、見てるだけなんて辛ーい!
「(師匠の)命令だからしょうがないさ。だから(早い時間の)夜の10時から(ダンスフロアから離れた)2列目のテーブルで一番安い飲物を飲みながら朝の6時まで、来る人来る人皆に握手しては『こんばんは、Fです』ってやったの。まあ若かったからできたんだろね(笑)。そんなで何ヶ月かしたら、師匠が『よし。じゃあ、1タンダだけ踊っていい』って」
1タンダだけ! で、それで?
「初めて踊るとき(有名なフォロワーの)Aさんがパートナーで来てくれたんだけど、(彼女の定席はフロア正面)1列目の席で。みんなAさんにダンスを申し込みにやってくるから圧倒されて、隣で座ってるだけで精いっぱい。ついにAさんが『Fちゃん、1タンダだけ踊りたいんでしょ?』って(笑)。もう膝がガクガクしたけど、踊れてほんとに幸せだった」
うわー、「お披露目」だったんですね~~。
「(照れくさそうに笑う)……そんなこんなで、そこのミロンガで踊るようになってから、やっぱり半年かそこら後かな、常連のBさんが(有名なタンゲーロの)Cさんを連れてやってきた。いつものようにBさんに握手して挨拶したら、BさんがCさんに言うんだ。『おいC、Fを知ってるかい? 知らない? じゃ紹介するよ。……俺はこいつを大好きなんだよ。こいつは若いけど俺たちのことを本当に尊敬してくれてるんだよ』って。あの時の気持ちは口で説明できないなあ......」
とても幸せそうな顔で一瞬思い出にひたってから彼は続けました。
「……今はもう、そんなことないけどね」
そうなんですか、今はもうそんなコトないんですね……。Fさん、なんだか羨ましいなあ。
©Rico Unno, 2025‐2026, CC BY-ND
