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コンビニ人間

 私は子どもの学習支援のボランティアをしているのだが、先日、一緒に勉強している高校生と、同じ本を読んで感想を言い合うという、とても嬉しい経験をさせてもらった。

 勉強が一段落ついて、予定の終了時間までにはまだちょっと時間があるな、という日、
「私は趣味でときどき、本の好きな人と読書会をしているんだけど、今度〇〇ちゃんの読んだ本の感想聞かせてよ。同じ本を読むから」
と言ってみた。
 以前からその子が読書が好きなことは知っていた。すぐに返事がなく、何か考えている様子だったので、本の感想を話したりするのは億劫なのかなと思ったのだが、「スマホとってきます」と部屋を出ていき、戻ったら何やらパチパチ検索して、「この本読んでみたいと思ってた」と見せてくれた検索画面が、村田沙耶香『コンビニ人間』だった。

 「え、これ???芥川賞獲って有名な作品だけど、結構前だよね。受賞で話題になったときに読んで、面白かった記憶はあるけど、内容は忘れちゃったな。どうして?」
 読みたいと思ったきっかけは聞き出せなかったが、本人もあまりよく覚えていないみたいだった。普段読んでいる本は、中高生が主人公の作品が多い印象だったので、意外ではある。
 近々もう一度読み返すことを約束し、帰りの車内で検索した。2016年、第155回芥川賞受賞作。およそ十年前か。

 その子と話したことの細部はここには記さないが、一番印象に残ったその子の言葉は「なんかよく分からなかった」である。そっかぁ、よく分からなかったか。
 どういうところが分からなかった?ここはどう思った?などと聞くことは出来て、聞けば何か答えてくれたと思うが、この時は「なんかよく分からなかった」って、とてもいい感想だな、と思ったので、私は冒頭から引き込まれた、ココのところが面白かったよ、などと自分の感想を伝えて終わった。
 小説の中のある描写について、「こういう感覚は、今はあんまり感じないけど、中高生の時は似たようなことがあったの思い出した」という話をしたのだけど、それは、『コンビニ人間』の感想以外では決して話さないことだった。またやろうね、と誘って、この日の学習は終了した。

 いま思い返しても、小説を読んで「なんかよく分からなかった」って思うの、とってもいいことだなって思う。それは、「分からないものは分からないままに置いておく」とか「いつか分かるかも」とか、そういったことじゃなくて、分からなくても別にいいじゃないか、というあっけらかんとした明るさをこの子の言葉から感じて、それは紛れもなく小説の良さだろうと思っている次第です。

村田沙耶香『コンビニ人間』

 ここからは、私の感想です!

 コンビニエンスストアは、音で満ちている。

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 音に関する情報が多く、古倉さんに静寂が訪れるのは、コンビニを辞めてからだ。コンビニは音で溢れていながら、コンビニの音は、制御・統制されたとても単純なものである。同じ客でありながら他の客に注意して、店長に店から排除された中年男性のように、ふさわしくない音は排除されて正常に修復されていく。中年男性の注意は、床を汚さないで、商品の陳列を乱さないで、列に並んで、立ち読みしないで、と、コンビニがその正常のために要求する事項だったが、ただの中年男性が声に出して注意すれば、それは異常として排除される。

 正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。

 古倉さんに限らず、登場する人間たちに、これは分かる、これは分かるけど違う、これは怖い、と3つに色分けるように読んでいて、それは考えてのことではなく反応的にそういったジャッジをしていたのだけど、そういったジャッジは、削除されるべき異物を探す私の視線ではなかったかと思う。

「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいた方が都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」

 最後には古倉さんも、自身の正常のために白羽さんを排除して生まれ直す。

 赤ん坊を携えていない妹を久しぶりに見たので、何だか忘れ物をしているように見えた。

 上記は、古倉さんの心情として描かれるが、村田沙耶香が易々とこの一文を書いているように思えて、この小説家の怖さを感じた。この怖さは、朝礼を宗教みたいだと言う白羽さんにそうですね、縄文の男女がどうのこうの言う白羽さんに「今は現代ですよ!」と返す、古倉さんの速さに似ている。身中から刺してくるような怖さなのだが、そう感じるのは、書いた村田さんも私も女であるからのような気がしている。
(これは証明が難しいことなのだが、作者の性別が不明あるいは男性だった場合、上記の一文の印象は私の中で違うものになりそうなのだ。女性の私が読んで、女性の作者が、古倉さんが妹を評して言わせた言葉としての切れ味にたじろいでいる)