生きる意味なんて考える必要ある?
鬱のときに「生きる意味」について、
考える必要があるのだろうか。
結論、必要ないのではないかと思っている。
生きている意味。
何のために生まれて、何をして生きるのか。
まるで国民的アニメ番組の歌のような問いが、
布団に転がるわたしの脳内で執拗にリフレインする。
これは元気なときにこそ、
考えるべきことであると思う。
少なくとも、カーテンも開けずに部屋の隅でうずくまりながら爪の伸びをぼーっと見つめている、
なにもしなくても爪は伸びるなーと思っていた。
上記の問いは、こんな状態わたしが取り組む課題ではない。
生きる意味を問うには、
まずは最低限の生活力が必要である。
きちんと日光あびて、洗濯物を干すとか、スーパーやドラックストアで食用品や日用品を買うとか、
ちゃんと湯船につかる。
毎日身体をうごすなど、文化的な生活の基盤の上にこうした哲学は成り立っているのだと思う。
今の私にはまだ早すぎる。
生きる使命や意義は、上記の生活がまともにできるようになってから考えるべきだ。
今のわたしに必要なのは、壮大な哲学ではない。
まずは、睡眠。
次に、食事。
そして、ほんのすこしの運動である。
これらの当たり前が出来ないので、
わたしはやはり病なのだと激しく痛感する。
しかし、考えることをやめられないのが
鬱人間の悲しい性なのだ。
「今は考えるタイミングじゃない」と
何度思っても、脳は勝手に、終わりのない問答を
始めてしまう。
そもそも、
今の状態は脳のスペックが格段に落ちている。
動作が重く、フリーズしがちで、
謎のエラーを吐き出す低性能マシンのようだ。
そんな状態で導き出した思考が、
まともな答えであるはずがない。
それでも、わたしは考えてしまう。
「こんな自分に、未来なんてあるのか」と。
「この先、生きていけるのか」と。
そのたびに、呼吸が浅くなり、動悸がする。
考えた結果、より深く落ち込む。
何のためにやっているのかわからない。
だからもう、
考えることをやめてみるのも手だと思うのだ。
一度、問いをすべて投げ出してみる。
自分に哲学者のような知性が備わるのを、
しばらく待ってみる。
わたしはまだ、うまく手放せていない。
今日という一日を、なんとか耐え忍んでいる。
明日のことは知らない。知りたくもない。
未来のビジョンも、目的も、今は持てない。
だが、それでも今日を生きる。
今だけを見て、ただ生きる。
生きながらえているの方が正しいかもしれない。
この「意味のない日々」の積み重ねが、
いつか「日常」と呼べるものに育っていくのだと信じたい。
いや、そう信じるしか
今のわたしには残されていないのである。

生きる気力も死ぬ気力もない
無だ
