斉藤ななこ 2026 04 26 物語

砂漠のサイバーパンクウサギ Episode 2
― それでやっと消える ―

——消えたはずのものを、運んだ。
そしてそれは、ちゃんと“残っていた”。

朝は、いつも少しだけ嘘をつく。

レイヤーシティの空は、本当の意味では明けない。
夜が終わるわけではなく、ただ薄く削られて、建物の隙間や配管の裏に残ったノイズが、朝のふりをして漂っているだけだ。


それでもウサギは、朝になると窓を開ける。
それが彼女にとっての始まりだった。


乾いた風が部屋に入り込む。

少しだけ砂の匂いがする。

少しだけ機械油の匂いもする。

遠くの広告音声が、壊れた祈りみたいに何度も同じ単語を繰り返している。


窓の外、細い手すりに、一羽の伝書バトが止まっていた。

灰色の羽。
目だけが妙に賢そうで、足には小さなカプセル。

「いい子だねー」
ウサギは笑って、ハトの頭を撫でた。

羽は思ったより温かい。
この街では、生きているものの温度はそれだけで少し特別だ。

片手で頭を撫でながら、もう片方の手で器用にカプセルを外す。
慣れた動作だった。何度もやっている。ウサギにとって、伝書バトは朝のメールであり、仕事の通知であり、ときどき妙にかわいい同僚みたいなものだった。

そこで、ふと目が止まった。

ハトのもう片方の足に、小さな鍵が付いている。

細い金属の輪。
古いタイプの物理鍵。

少しだけ削れて、角が丸くなっている。


「……鍵?」
ウサギは首を傾げた。

背後で、くまが端末を置く音がした。

「鍵付きは珍しい」
短い声。

ウサギはカプセルを開け、中の依頼ログを読む。
座標。
荷物種別。
速達フラグ。
受取エリア。

「この座標さー、シティの繁華街じゃんwww」
鍵をひらひらさせる。
「てことはこれ、そのロッカーの鍵がwww」

くまは黙って画面を覗き込む。

ウサギは続ける。
「今回、運ぶものは封筒だって!ちょ〜簡単www」

くまは画面をスクロールする。

「しかも速達。金額アップだよねこれwww」

そこで、指が止まった。

「……あれ」
もう一度、表示を見る。
「お届け先……げっ、これ高級避暑地じゃんwww」

高級避暑地。

砂漠を抜けた先にある、オアシス地帯のさらに奥

富裕層の別荘が並び、気温も音も匂いも、金で整えられた場所。

ウサギは軽く笑う。

「これってヤバい系?」

くまは、すぐには答えない。

窓の外で、ハトが一度だけ羽を震わせた。

「楽な仕事ほど、裏がある」
「またそういうこと言うwww」

ウサギは鍵を外した。
チリ、と小さな音がする。

「じゃ、行こっか」

ハトに向かって手を振る。

「またね」

ハトは飛び立った。

羽音はすぐ、街のノイズに混ざって消えた。



シティの繁華街は、朝でも人が多い。
広告は夜から続いている。

巨大なスクリーンは、誰も見ていないのに笑顔の女を映し続け、路面には昨日の雨でもない水たまりがところどころ光っている。
ビルの壁面には、古い企業ロゴの上から新しい企業ロゴが貼られ、そのさらに上から個人広告が浮かんでいた。


くまの運転するトラックは、雑踏をすり抜けるように進む。

車体は大きい。

サイバーパンクな改造車。
トラックの側面には、くまとうさぎが丸く並んだ引っ越し屋のロゴマーク。電
話番号は、ウサギが気分で決めたものだ。

砂漠を越えるための脚と、街中を走るための顔を持った車だ。

表向きは引っ越し屋。

だが荷台には、今日も世界のどこかの知らない重みが乗る予定だった。


「ここっぽい」

ウサギは座標を見ながら言った。

通りの脇。
古い雑居ビルの一階。
壁際に並んだコインロッカー。
昔の街の残骸みたいな場所だった。

すぐ横には最新式の無人決済端末があり、その隣にだけ、やけに古いロッカーが残っている。

ウサギは鍵を取り出し、番号を確認する。

「えーっと、ここだね」

鍵を差し込もうとして、表示に気づいた。

動きが止まる。

「なにこれ」

ロッカーの小さな画面に、赤い文字が出ている。
延長料金:現金硬貨のみ

「延長料金……しかも今どきコインタイプ?」
一拍。
「は???」

ウサギはポケットを探る。
ない。
バッグを探る。
ない。

「コインとか持ってないんだけどwww」
くまが後ろから言う。
「時間、過ぎてる」
「いやいやいや、聞いてないってwww」
「速達」
「速達だからってロッカーまでレトロなの意味わかんないwww」

ウサギはしばらくロッカーを睨んでいたが、すぐに振り返った。

「ちょっと待ってて!」

そして近くのコンビニへ走った。

自動ドアが開く。
冷房の風。
白すぎる照明。

棚の間をウサギが駆け抜ける。

ガム。
歯ブラシ。
ティッシュ。 

適当に手に取り、一個ずつレジに置く。

コト。
コト。
コト。 

店員は顔を上げない。

ピッ。
ピッ。
ピッ。

ウサギはウォレットをかざしながら、ほとんど悲鳴みたいな声で言う。

「これで払うけど、お釣り、コインでお願い!」

店員の手が、ほんの少しだけ止まる。

だが何も言わず、操作する。


チャリン。
硬貨が落ちる音が、やけに大きく聞こえた。


ウサギはそれをかき集める。
「よしっ」
そしてまた走る。


その間、くまはロッカーの前に残っていた。

表示は点滅したままだ。

延長料金。
赤い数字。


人混みは流れている。

誰もくまを見ていない。

誰もロッカーを見ていない。

くまは静かに立っている。

その口元が、ふと緩んだ。
ほんの少し。
自分でも気づかないほどの変化。
クスクス、と喉の奥で小さく笑う。


思い出したのは、ラーメンだった。

濃い色のスープ。
甘辛い匂い。
薄切りの肉。
真ん中に落とされた生卵。


カウンターだけのバー。
トイレもない。
看板もない。
長居するための場所ではない。
だけど、知っている者だけがたどり着く。


NULL。


くまは口の中で小さく転がす。

「……やっほー」

その言葉は、誰にも聞こえない。
すぐに表情が戻る。


ロッカーの表示がまた点滅した。

時間だけが、進んでいる。

ウサギが戻ってきた。

息を切らして、手のひらいっぱいの硬貨を持っている。

「もうさ、コイン逆にレアすぎて意味わかんないwww」

ロッカーに硬貨を入れる。

チャリン。
チャリン。

「いくらなのこれさー」

表示が減らない。

ウサギの顔が曇る。

「え、まだ?」

また一枚。
また一枚。
チャリン。
チャリン。

小さな硬貨が、ロッカーに飲み込まれていく。
一瞬、手が止まる。

「……また足りなくなる?」

くまは何も言わない。

ウサギは最後の数枚を見つめる。

そして、まとめて入れた。

ガチャガチャ。
表示が切り替わる。
支払い完了。 

一拍。

ウサギの顔が一気に明るくなる。
「クリアー!」

ガチャ。
ロックが外れる。

中には、白い封筒が入っていた。

ウサギはそれをつまみ上げる。
軽い。

軽いが、何かが入っている。
雑に振る。

カサ。
カサカサ。

紙だけではない音。

「何入ってんだろうねーwww」

くまが短く言う。
「開けるな」
「開けないってwww」
ウサギは笑った。

「まっ、中身は知らないままがいつも通りだけどさwww」
封筒をバッグに入れる。

仕事の荷物。
知らないまま運ぶもの。

それは、いつものことだった。


シティ内のパーキングに戻る。
トラックのドアを開ける。
ウサギは助手席に座り、バッグを足元に置く。
エンジンが低く唸る。


「ほんとさー、封筒手に入れるためにいらないもん買っちゃった」

コンビニ袋をガサガサ漁る。

「これさ、くまにあげる」

歯ブラシとガムを、ぽい、と投げる。

くまは片手で受け取る。

「……新品か」
「当たり前でしょwww」

くまはガムをポケットに入れ、歯ブラシをダッシュボードに置いた。

ウサギはシートベルトに手をかけたところで、急に顔を上げる。

「あ、待って」
「……なに」
「その前に一回、家寄って!」
「なんで」
「通販来てるはず!持ってきたいの!」

くまが横目で見る。

「いつの間に、何を買った」
ウサギはにやっと笑った。
「えへへ、内緒www」

くまはため息をひとつつく。
「五分だ」
「え、早すぎwww」
「速達」
「了解でーす」

トラックは再び動き出す。

家の玄関ロッカーには、小さな箱が届いていた。
ウサギはそれを取り出し、その場で雑に開ける。

ビリッ。

中から出てきたのは、白い夏用のワンピースだった。
レース。
フリル。

どこかアンティーク風のデザイン。
薄くて軽い。
それから、細い骨の白い日傘。

ウサギは満足そうに笑う。
「このアイテムがなきゃさwww」

トートバッグを広げ、ワンピースと日傘をぐいっと押し込む。
「これでおっけ!」

車に戻る。

くまがバッグを見る。
「……間に合うか」
「余裕余裕www」
ウサギは笑う。


車は、シティの端へ向かって走り出した。

シティを抜けると、景色が変わる。

ビルの影が途切れる。
広告音が遠くなる。
空気が乾く。
砂漠の道へ入る。

くまの運転は、相変わらず滑らかだった。
大きなトラックなのに、揺れない。

砂を読むように走る。
どこで減速し、どこで踏むかを、身体で知っている

ウサギは窓の外を見る。

「今回さー、コイン以外はかなり当たりの案件じゃんwww」

くまは答えない。

「封筒だし、速達ついてるしさ」
「静かすぎる」
「楽でいいじゃんwww」

車は進む。
やがて、砂の向こうに緑が見えた。

オアシス地帯。
水の気配。
整えられた道。

砂漠には不自然なくらい、管理された植物。

そのさらに奥が、高級避暑地だった。

高級別荘地帯。


空気が違う。
音が少ない。
砂の匂いが薄い。
風も、角が取れている。


「うわ、ガチ金持ちエリアじゃんwww」
ウサギが笑う。

くまは前を見たまま、ぽつりと言った。

「……昔、こっちに別荘あった」
一瞬だけ、車内の空気が止まる。

「え、マジで?なんで言わないのwww」
「言うほどでもない」
それだけだった。

ウサギは少しだけくまを見る。
でも、すぐに前を向いた。

「まあ、くまって謎に上流感あるときあるよねwww」
くまは答えない。

高級別荘地帯に入るにはゲートがある。

その手前で、ウサギが突然声を上げた。
「ダメでしょ、止まって!」
くまはブレーキを踏む。
「……なんだ」
「このまま行ったら浮くじゃん!」

ウサギはトートバッグを抱え、トラックのコンテナへ移動する。

ガタン、と扉が閉まる。
少しの間。
風が、車体の下を抜ける音だけがする。


やがて、コンテナの扉が開いた。

出てきたウサギは、別人みたいだった。

白い夏用のワンピース。
フリルとレースで縁取られた、アンティークなデザイン。

薄い生地が光を少しだけ透かしている。
手には、白いレースの日傘。
カチ、と開く。
骨がほんの少しだけ歪んでいる。
足元はヒールサンダルだった。
ウサギらしくない。

「どう?それっぽくない?www」

くまは一瞬だけ見て、視線を戻す。
「……やりすぎだ」

「えーwww」
ウサギはくるっと回る。

スカートの裾がふわりと広がる。

一歩踏み出して、少しよろける。
「あ、これ走れないやつwww」

「走るなって場所だ」
くまは車内でポロシャツに着替えた。

それだけだった。

ウサギが吹き出す。
「なにそれwww いつも通りじゃんwww」

くまは袖を整える。
「お前はやりすぎだ。これくらいが馴染む」
「なんで知ってるの?」
くまは答えない。

ウサギは足元を見る。
くまが言う。
「そんな靴、持ってたのか」
「あーこれ?」
ウサギはヒールを軽く動かす。

「昔彼氏からもらったやつ。なんかこの間、部屋掃除したら出てきた」
「なんかあるかなってトラックに積んどいたやつなんだよwww」
「似合ってない」
「ひどくない?www」

笑いながらも、ウサギは日傘を持つ角度を少し整えた。


“お届けに来た夏のお嬢さん”。

そのつもりだった。
ゲートに近づく。
センサー。
カメラ。
無言のセキュリティ。

ウサギは勝手に防犯カメラを見つけ、にこっと笑って手を振った。

「はーい」

くまが不思議そうに見る。

「……何やってる」
「いや〜、可愛いウサギが来てますよのご挨拶www

カメラのレンズが、わずかに角度を変える。
見られている。

だが警告はない。
ゲート前で、セキュリティスタッフが立っていた。

ウサギは背筋を伸ばす。
声が変わる。
柔らかく、丁寧で、少しだけ高い声。

「こんにちは。本日はとても暑いですね」
日傘を少し傾ける。

「お届け物がありまして、アポイントを取っております」
スタッフは無言で端末を確認する。

一瞬の間。
——カチ。
ゲートが開く。
ウサギは軽く会釈する。

「ありがとうございます」

車が内側へ入る。
背後でゲートが閉まる。

音がひとつ、減った。

「入れたじゃんwww」

ウサギが小声で笑う。
「今回ちょろすぎwww ラッキーだよねwww」

くまは答えない。
ただ、前を見ている。


別荘地のパーキングに停める。

エンジンを切ると、あまりにも静かだった。

ウサギはトートバッグから封筒を取り出し、細いクラッチバッグへ入れ替える。

その動きだけは、妙に丁寧だった。

「はい、切り替え〜」

クラッチを脇に抱える。
日傘を差す。

「私これ、完全に夏のお嬢さんじゃんwww」

一歩歩く。
ヒールが少し鳴る。

「……あ、やっぱ歩きにくいwww」
「走るなって言っただろ」
「走らないってwww」

高級別荘地帯の道は、歩きやすい。

砂がない。
段差がない。
足音すら吸い込まれるように小さい。

いつものウサギなら踊って歩くだろう。
足取りでリズムを作り、体の軽さで世界を抜けていく

だが今回は違った。

お届けに来た、夏のお嬢さん。

ゆっくり歩く。
履き慣れないヒールサンダルで。
日傘の影を顔に落として。

ウサギは小さく笑う。
「なんかさー、こういうとこ歩くの逆に疲れるwww


くまは隣を歩く。
何も言わない。
周囲には、個人の別荘が並んでいる。

それぞれに厳重なゲート。
静かなカメラ。
無言のセキュリティスタッフ。

庭は整いすぎていて、葉の向きまで計算されているようだった。

「あっ、ここみたい」
ウサギが座標で足を止める。

個人別荘のゲート。
低い塀。
奥に見える和風の建物。

セキュリティスタッフに向かって、ウサギはまた声を整える。
「こんにちは。今日、とても暑いですね」
にこっと笑う。
「お届け物があって、アポイントを取っているのですが」

スタッフは確認する。
無言。
そしてゲートが開いた。

ウサギは丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます」

ゲートが閉まり、二匹は内側へ入る。
「今回ちょろすぎwww」
ウサギは小さな声で笑う。

くまは黙っている。

玄関のドアには鍵がかかっていなかった。

ウサギは、やけに丁寧に開ける。

中は静かだ。
靴を脱ぐ場所。
木の床。
奥に、光。
「和風……ってやつ?」

ウサギは小さく笑う。

「なんか絵本でしか見たことないやつじゃんwww」

少し先に、縁側が見えた。
外と内の間みたいな場所。

ウサギは眉をひそめる。
「何あれ?」
「涼しい空気逃げてくじゃんwww」

勝手に納得する。
「あ、部屋で日焼けできますよ的なの?」

完全に見当違いだった。

くまは短く言う。
「声、落とせ」

ウサギはふと足元を見る。
「あ、これさ」

玄関で立ち止まる。
「和風って、ここで靴抜くはず」

ヒールサンダルを脱ぐ。
少しだけ丁寧に揃える。
くまが静かに頷いた。

「……そうだな」
二匹は靴を脱ぐ。

板の床は、ひんやりしていた。
ウサギは日傘を閉じる。
カチ、と軽い音がする。

「こんにちは、お届け物がありますよ」
ウサギが声を出す。

奥の部屋から、人の声が聞こえた。

低い声。
老人の声。

「あの部屋?」
ウサギは歩き出す。

廊下は、清潔だった。

磨かれた床。
埃ひとつない。

その上に、砂。

細い筋みたいに、点々と続いている。

ウサギは気づかない。

ヒールを脱いだ足で、軽く歩く。

くまだけが視線を落とした。

砂。

ここには、ないはずのもの。

くまは無言で半歩、位置を変える。
いつでも動ける距離。
手は下ろしたまま。
だが、体は構えている。

「こっちっぽいよ〜」
ウサギの明るい声が、静かな廊下に少しだけ浮く。

人の声のする部屋の前。

そこには襖があった。

ウサギは手をかける。
「これさ、押すやつじゃないんだ」

紙の感触。
「てか、紙なんだろねwww」

少し力を入れる。
開かない。
「……あれ?」

くまが一歩前に出る。

ウサギの手の横に指を添えて、すっと横に引いた。
襖は、静かに開いた。

「横だ」
「あ、そっちかwww」

ウサギは小さく笑う。
その隙間から、冷たい空気が流れてくる。


畳の部屋。
柔らかい光。
低い卓。

そこに、老人が座っていた。
上品そうな、いかにも金の匂いがする老人だった。

背筋が伸びている。
手元にはグラス。
中には茶色い液体と氷。

ウサギが小さく首を傾げる。

「……なにあれ」


声をひそめる。
「ウイスキー?」


くまは答えない。


「昼間から?やばくないwww」


老人が顔を上げる。
何も言わない。
ただ、まっすぐこちらを見る。

くまが短く訂正した。
「麦茶だ」
「麦茶?」
ウサギは不思議そうにする。

「麦なのに飲めるの?普通パンにしない?」

くまは何も言わなかった。
部屋の奥に、もう一人いた。


若者だった。
作業着。

場違いなほど安い布地。
ボトムには乾いた砂。

この部屋には似合わない。

この別荘地にも似合わない。

ウサギはまだ気づかない。
くまだけが見る。

砂漠の工事スタッフか。
なぜここにいる。
廊下の砂も、あいつか。
無言の思考が、くまの中で繋がる。


ウサギは一歩前に出た。

クラッチバッグを開ける。

白い封筒を取り出す。

声は、また丁寧になっている。

「こちら、速達で指定されたものです」

老人は封筒を受け取った。

その瞬間、顔に喜びが広がった。
それは上品さとは少し違う。
長く待ったものに、ようやく触れた顔。


老人は小さく呟く。
「……これでやっと、消せる」
「全部だ。記録も、金も、あの時の音も」


次の瞬間。

老人は封筒を乱暴に破いた。

ビリッ。

この部屋に似合わない音だった。


ウサギの目がわずかに開く。
こんな人が。
こんな行動を。

封筒の中から、小さなものが出てくる。

古いマイクロSD。

規格も、一世代前のものに見える。
傷がついている。

老人はそれを指先でつまみ、じっと見つめた。

奥の若者が、初めて声を出す。
「……間に合った」
それだけだった。

くまは若者を見ている。

若者も、マイクロSDを見ている。


ウサギは空気の変化だけを感じていた。
意味はわからない。


だが、仕事は終わった。

ウサギは一歩下がる。

「これでお届け完了です」
丁寧にお辞儀をする。
「ありがとうございました」


くまの視線は、まだ若者に向いていた。
もう少し見れば、何かがわかる気がした。


その瞬間。

ウサギが襖に手をかける。
「失礼しまーす」
スッ、と閉める。
紙の音。

視界が切れる。
くまはもう、中を見ることができない。

廊下の静けさだけが戻る。

ウサギは振り向く。
「じゃ、帰ろっか」

くまは何も言わない。

玄関で靴を履く。
ウサギは小さく笑う。
「なんかさー、私、お届け物の中身初めて見たよwww」
ヒールに足を入れる。
「この仕事してて、初!」

くまは黙っている。

ウサギは続ける。
「和風ってさ、ここで靴脱ぐから綺麗なんだね」

日傘を持ち直す。

「てか、あの人なんで昼間からウイスキー飲んでるの?」
「麦茶だ」
「麦なのに飲めるの?普通パンにしない?」
ウサギは笑う。

「和風って変なのwww」
一拍。
「てかなんで知ってんの?くま、謎に馴染んでるしwww」
くまは答えない。


ゲートへ向かう。

ウサギはセキュリティスタッフに最後まで丁寧に挨拶した。
「本日はありがとうございました」
軽く会釈。

ゲートが開く。

二匹は外へ出る。

背後でゲートが閉まる。

その瞬間。
ウサギの顔が崩れた。
「あーもう無理!」

かかとを浮かせる。
「早くヒール脱ぎたい!」
日傘をぶん、と振る。
「なにあれ、拷問じゃんwww」

くまが小さく言う。
「似合ってなかったな」
「ひどwww」

でも、ウサギは笑っている。

パーキングに戻る。

ウサギはトラックのコンテナへ回り込む。
「ちょい待ってて!」
ガタン、と扉が閉まる。

短い間。
風だけが通る。
やがて扉が開く。

ウサギが戻ってくる。
もう、いつものウサギだった。

白いレースも、日傘もない。
足元はスニーカー。


軽く地面を蹴る。

「はぁ〜、これこれ!」

助手席に飛び乗る。 

「生き返ったwww」

くまはエンジンをかける。

「早いな」
「慣れてるからね〜」


ウサギはシートに沈み込む。

「やっぱ走れるの大事だわ」

車が静かに動き出す。
オアシスを抜ける。

整えられた緑が終わり、砂の色が戻ってくる。

ウサギは完全にリラックスしていた。

「今回ちょ〜楽じゃんwww」

くまは答えない。

「ねえ、音ちょうだい」
「なんかおすすめ」

少し間。

くまは古い端末を叩いた。

ノイズ。
そのあと、音が立ち上がる。

いつもの硬いテクノではない。

古いハウス。

柔らかくて、少し掠れたビート。 

その上に、人の声。

ウサギが顔を上げる。

「なにこれ、古いハウス?」
少し驚く。
「いいじゃんwww」

くまが短く言う。

「残響ってやつらしい」
「残響?」
「OFFSETからもらった」

曲が進む。
声が流れる。


一部だけ、歌詞が聞こえる。

消えたはずの声が——
プツ、と音が飛ぶ。

くまの視線が、わずかに動く。
ウサギは気づかない。

「あ、もう一回もう一回!」

くまは無言で戻す。
同じフレーズ。

ウサギは鼻歌を始める。

音程は少しズレている。
でも楽しそうだった。


「やっぱさー、人の声っていいよねwww」

くまが言う。
「それ、海外だとカラオケって言うらしいぞ」

一瞬。
ウサギが吹き出す。
「なにそれwww 変な呼び名www」

また鼻歌。
少しずつ、メロディを覚えていく。

「このトラックって誰からもらったの?」
「NULLでOFFSETに会った」
「NULL?」
「バーだ」
「バー?」
「トイレもない」
「え、ヤバくないwww」

くまは前を見たまま言う。

「バーだから、お前は連れていけない」
「なんで?」
「酒の場所だ」

一拍。
ウサギが笑う。

「それって、あたしがラーメン目当てってこと?www」

くまの口元が、ほんの少しだけ緩む。

「……うまいからな」
「ずるいwww」

ウサギはリズムに合わせて言う。
「やっほーwww」

くまは何も言わない。


ただ、少しだけ記憶に沈む。


NULLは、普通の立ち飲みバーに見えた。


看板はない。
入口もわかりにくい。

中に入ると、カウンターだけ。

トイレもない。

壁は暗く、照明は低い。

客は数人。

誰も長く話さない。

くまは最初、ただのバーだと思って入った。

端の席に立つ。
グラスが置かれる。
透明な酒。
氷の音。
しばらくして、隣に男が立った。


OFFSETだった。


最初からそこにいたような顔をして、グラスを持っている。

「お前、あのトラック知ってるか」
唐突だった。
くまは視線を動かさない。


「……どれだ」
「タイトルないやつ。声だけ残ってる」

一瞬の間。

「……ホソノか」

OFFSETが笑った。
「まだ覚えてるやついたか」


ホソノ。
死んだ音楽家。
昔はレジェンドだった。

今でも音楽好きには刺さる名前。

だが、くまとOFFSETの時代には、もう音源はほとんど残っていない。

消されたわけではない。

権利関係で、合法的に消えた。

配信から消え、保存が制限され、再生権が分裂し、最終的には“公式には存在しない音楽”になった。

「もうどこにも残ってないはずだ」
くまが言う。

OFFSETはグラスを揺らす。
「だから、残ってるやつが値打ちなんだよ」

「本物か?」

OFFSETは笑う。
「本物だったら、残ってないだろ」

氷が鳴る。
それ以上、二人はしばらく話さなかった。


やがてOFFSETが、カウンターに向かって小さく言った。

「やっほー」

くまは横を見る。
「……今のなんだ」
「合図だよ」

何も起きない。

だが数分後、カウンターの奥から湯気が立った。
出てきたのは、徳島風のラーメンだった。

濃い色のスープ。
肉。
真ん中に、生卵。


バーなのに。
トイレもないのに。


なぜかラーメンだけはちゃんとしている。

OFFSETが箸を取る。

「ここ、これだけはちゃんとしてる」

くまも、少しだけ間を置いて言った。
「……やっほー」

OFFSETが笑う。
「それでいい」

くまは卵を崩した。
黄身がスープに広がる。

一口。

「……うまいな」
「だろ」

それ以上の会話はなかった。
ただ、音と味だけが残った。



現在。

車内。

ウサギがまた真似する。
「やっほーwww」

残響が流れる。

声が流れる。

くまは小さく呟いた。
「ノイズが乗っても、残るものは残る」

ウサギが横を見る。
「なにそれwww また難しいこと言ってるwww」

くまは答えない。


音が少しだけ歪む。
それでも曲は続く。



数日後。

ウサギの会計は、かなり雑だった。
テーブルの上に端末とメモ。
計算はざっくり。
「えーっと、今回のブロックは」
指でなぞる。
「速達込みでこの金額!」


くまは黙っている。
「で、引くのが〜」
指折り数える。

「コンビニと」
「通販と」
「ロッカー代」

一拍。

「……まあいっかwww」

満足そうに端末を閉じる。

「かなり当たりの仕事だったじゃんwww」

くまはグラスを持ち上げる。
中の氷が、かすかに鳴った。


昼前。

ウサギが伸びをする。

「そろそろお昼だから、ランチ行く?」

くまは頷く。

「なんかさ、和風のランチ。定食屋ができたらしいんだよね」

ウサギは少し嬉しそうに言う。

「行ってみたい」

一拍。

「麦茶あるといいな」

定食屋は、シティの端にあった。

安い店だった。
壁のテレビ。
サラリーマンの話し声。
食器の当たる音。
油と味噌汁と焼き魚の匂い。
どこにでもある昼。

ウサギとくまは向かい合って座る。

定食が運ばれてくる。

シャケ。
シュウマイ。
味噌汁。
小鉢。
白いご飯。

ウサギは箸を持つ。

ぎこちない。

「むずかしwww」

ご飯をつまみ損ねる。

くまは器用に食べている。

ウサギは気にせず、もりもり食べる。

「うまwww」

そして、コップに手を伸ばす。
茶色い液体。
氷。
麦茶。

ウサギの目が輝く。

「あ、これ」
一口飲む。

少し間。

「……麦なのに飲めるじゃんwww」
満足そうに笑う。

「しかも無料だし最高www」

くまは何も言わない。
少しだけ口元が緩む。

テレビの音が、少し大きくなる。


「——巨大企業による資金洗浄の疑いが発覚し……」

ウサギはシャケをつついている。

「このシャケさー、ちょうどいい塩味じゃない?」

くまは視線だけをテレビに向ける。


「関係者は現在、所在不明——」


画面に、ぼかされた映像が出る。


老人にも、若者にも見える輪郭。


ウサギがふと顔を上げる。
口元に、ご飯粒。

「ねえ」
くまを見る。


「あのおじいちゃん、ちょっと似てない?」


くまは一瞬だけテレビを見る。
すぐに戻す。

「……違うだろ」
短く。

ウサギはもう気にしていない。
「そっかwww」

また食べる。

テレビは流れ続ける。

消えたお金。

消えたデータ。

所在不明の関係者。


その横で、ウサギは麦茶を飲む。


「これ、家にも欲しいな」

くまは箸を置く。

店の奥で、誰かが笑う。
テレビの音が、食器の音に混ざる。


そして、どこか遠くで流れていた古いハウスの声が、まだ車内に残っているような気がした。


ノイズが乗っても、残るものは残る。

消えるものは、綺麗に消える。

残るものは、汚れても残る。

くまはそれを口には出さなかった。


ウサギはご飯を食べている。
口元に、まだ米粒がついている。


音は、消えない。
くまは何も言わない。


——ノイズが乗っても、正しいものは残る。

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