魔法のシールは、まだ貼っていない
「パパ、さびしくなったら貼ってね」
その朝、娘は白いアヒルのシールを一枚、私の手のひらにのせた。
つやつやしたくちばしが、こちらを向いている。
さっきまで娘の指に挟まっていたせいか、たった一枚なのに、少しだけぬくもりが残っていた。
「パパの好きなアヒルさん」
娘はそう言って、少し胸を張った。
私は、うまく笑えなかった。
少し前まで、私が仕事に行こうとすると、娘は玄関で私の足にしがみついて泣いていた。
靴を履こうとしゃがむと、まだ小さい両腕が足首に回る。
「いやー」
「パパともっと遊びたかったー」
急がないといけない朝なのに、面ファスナーを留める音だけが、妙にはっきり聞こえた。
会社に行かなければならない。
それは分かっている。
でも、出勤時刻より、その腕をほどくほうがずっと難しかった。
私は靴を履いたまま、玄関でしばらく固まっていた。
泣かないで、と言うのは違う気がした。
無理に引きはがして行くのも違った。
かといって、ずっと抱っこしていたら会社には行けない。
それで私は、毎朝、短い手紙を書くようになった。
立派な育児方針があったわけではない。
せめて、ちゃんと帰ってくることだけは、どこかに置いていきたかった。
「大好きだよ」
「帰ったらまた遊ぼうね」
「パパより」
そう書いて、娘の好きなシールを一枚添えた。
私はそれを勝手に、「魔法のシール」と呼んでいた。
娘の寂しさが、少しでも小さくなればいいと思った。
けれど、あの手紙は、娘のためだけではなかった。
泣いている娘を置いて仕事へ行くたび、私は自分が何か悪いことをしているような気持ちになった。
手紙を一枚置いていくことで、私も少しだけ自分を許していた。
娘がまだ寝ている朝は、小さな机の上に置いた。
机にはいつも、折りかけの折り紙や、塗りかけの絵や、台紙から少し浮いたシールが並んでいた。
娘が途中まで作り、また続きを始めるものたちだった。
私はその間に、毎朝、手紙とシールを一枚だけ置いた。
最初のころは、手紙を渡しても泣いた。
シールを添えても、私の足から離れない朝もあった。
魔法と呼んでみたところで、すぐに効くわけではなかった。
それでも、少しずつ変わっていった。
泣きながらでも、手紙を受け取るようになった。
紙を握ったまま、指で文字をなぞって、
「これ、パパよりって書いてある?」
と、得意そうに聞いた。
本当に読めていたわけではないと思う。
でも、毎朝もらううちに、娘は文字の意味より先に、手紙の形を覚えたのだろう。
ある日、妻が教えてくれた。
「パパが出たあとね、寂しいから魔法のシール貼るって言って、自分で貼ってたよ。シクシクしながら」
泣き止んだから貼ったのではない。
泣きながら、貼っていた。
私が渡していたのは、ただのシールだった。
けれど娘は、それを、寂しくなったときに使うものとして受け取っていた。
誰かに貼ってもらうのではなく、自分の手で貼っていた。
ある朝、私がうっかり手紙を置き忘れた。
玄関まで来た娘が、私の顔を見上げた。
「パパ、今日のお手紙は?」
その一言で分かった。
あの紙はもう、私が勝手に置いていくものではなくなっていた。
娘の朝の中に、ちゃんと置き場所ができていた。
やがて娘は、泣き声の中に言葉を混ぜるようになった。
「パパ、いつ帰ってくる?」
「早く帰ってきてね?」
「帰ったら、遊ぼうね?」
口をへの字にしている日もあった。
目にいっぱい涙をためている日もあった。
それでも最後には、小さな手を振った。
「パパばいばい」
「パパばいばい」
何度も繰り返す。
その「ばいばい」は、泣き声に飲み込まれていたころより、私にはずっと大きく聞こえた。
私は、ほっとした。
寂しいままでも、自分の言葉で私を見送れる。
ずっと、そうなってほしいと思っていた。
私も、後ろ髪を引かれすぎずに仕事へ行ける。
これでよかった。
なのに、ほんの少しだけ寂しくもあった。
親は勝手だ。
泣かれると困るのに、自分で見送れるようになると、今度は私のほうが置いていかれたような気がする。
数日後、娘は、いつも私が手紙を置いていた机に座っていた。
折り紙を一枚広げ、丸い顔のような絵を描いた。
その横に、小さなハートをいくつも並べていく。
描き終えると、折り紙を何度か折った。
少し曲がっていたけれど、何度も指で折り目を押さえた。
そして、私に差し出した。
「パパのお手紙」
文字は、一文字も書いていなかった。
でも、私にはちゃんと読めた。
私が毎朝置いていたものを、娘は自分の手で返そうとしていた。
そして、その朝だった。
私が鞄を持つと、娘がぱたぱた走ってきた。
小さな手のひらの上に、白いアヒルのシールが一枚のっていた。
「パパの好きなアヒルさん」
そう言って、私に差し出す。
「これ、パパにあげる」
それから少し考えるようにして、つけ足した。
「パパ、さびしくなったら貼ってね」
玄関には、いつもの朝の光が入っていた。
靴も鞄も支度を終えて、あとは家を出るだけだった。
なのに私は、また、あの朝と同じように玄関で固まっていた。
あのときは、娘の腕がほどけなくて動けなかった。
今度は、娘から手渡されたものの重さで、動けなかった。
私は娘からシールを受け取った。
手のひらの中で、白いアヒルは少しだけ曲がっていた。
二か月のあいだ、何枚渡したのかは数えていない。
でも、もらったのは、これが一枚目だった。
「ありがとう」
それくらいしか言えなかった。
娘は満足そうに笑った。
「パパ、いってらっしゃい」
その声は、少し前まで玄関で泣いていた子の声と、同じ声だった。
でも、同じではなかった。
できることが、ひとつ増えた朝ではなかった。
娘は、寂しさをなくしたのではない。
自分の寂しさに貼っていた魔法のシールを、今度は私の寂しさに差し出した。
私は白いアヒルを、スマホケースの裏にしまった。
いつか、私のほうが寂しくなった朝に貼るために。
でも、たぶん、しばらくは貼れない。
娘が私の寂しさを見つけてくれたことを、まだ手放したくない。
魔法のシールは、まだ貼っていない。
