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“パパ大好き!”で回復し、“お風呂はママ!”で削られる父親

朝、私が仕事に行こうとすると、娘が泣く。

「パパぁぁぁ!!!」

玄関で靴を履こうとする私の脚に、娘がしがみついてくる。

小さな腕で、私の膝あたりをぎゅっと抱えながら、こちらを見上げてくる。

その姿を見るたびに、胸がぎゅっとなる。

つらい。

仕事に行きづらい。

いっそ今日の会議が全部消滅しないかと思う。

でも同時に、正直ちょっと嬉しい。

いや、かなり嬉しい。

「そんなにパパが好きなのか」
「そんなにパパと離れたくないのか」
「ほう、なるほど。そうかそうか」

父親としての自己肯定感が、朝から温泉みたいに湧き出してくる。

もちろん娘は泣いている。

だから本来、喜んでいる場合ではない。

それは分かっている。

でも、父親という生き物は面倒くさい。

泣かれるとつらい。

求められると嬉しい。

その二つが、なぜか同時に発生する。

私はしゃがんで、娘に声をかける。

「パパ、仕事行ってくるね」

「いやぁぁぁ」

「帰ってきたら遊ぼうね」

「パパぁぁぁ」

私の脚にしがみつく小さな腕。

それはもう、映画ならスローモーションになる場面である。

戦地に向かう兵士と、それを必死に引き止める家族。

いや、実際には私は会社に行くだけだ。

しかも行き先は戦地ではなく、空調の効いた職場である。

でも娘の泣き方だけ見れば、だいぶ生き別れ感がある。

ああ、愛されているなぁ。

父親として、ちゃんと必要とされているなぁ。

朝の私は、かなり満たされている。

ところが、である。

その数時間後、家では別の現実が待っている。

夜。

仕事から帰る。

私は朝の余韻をまだ少し持っている。

今朝あれだけ泣いていた娘だ。

きっと夜も私を求めてくれるに違いない。

そう思いながら、リビングに入る。

「ただいま」

娘がこちらを見る。

「パパ!」

よし。

ここまではいい。

かなりいい。

でも生活は、ここからが本番である。

夕飯の時間。

「ご飯、どこ座る?」

「ママの横!」

歯磨きの時間。

私が歯ブラシを持つ。

「歯磨きしようか?」

「ママにやってもらう!」

お風呂の時間。

私がさりげなく聞く。

「お風呂、パパと入る?」

「ママと入る!!!」

フルコンボである。

朝の「パパぁぁぁ!!!」はどこへ行ったのか。

あの脚にしがみついていた小さな腕は何だったのか。

あの涙は、父親の自己肯定感を回復させるための朝限定イベントだったのか。

こちらは朝、玄関で生き別れみたいな別れ方をしている。

それなのに夜になると、生活導線からきれいに外される。

ご飯。

歯磨き。

お風呂。

寝る。

主要インフラから、パパが除外されている。

電気。

ガス。

水道。

ママ。

そこにパパはいない。

以前なんて、朝は「パパともっと遊びたかった……」と泣いていたのに、夜にはこう言われた。

「ママと寝る!パパあっち!」

あっち。

父親、方向で処理される。

人間としてではなく、位置情報として扱われている。

私は「そっかぁ〜」と笑う。

笑うのだが、内心では少し削られている。

父親の自己肯定感は、3歳児の一言でかなり上下する。

朝はストップ高。

夜は急落。

感情の切り替えが、株価チャートくらい激しい。

しかも私の株価ではなく、娘が勝手に売買している。

私は昔から、人の反応理由をかなり考えてしまう。

「なんで今それ言った?」
「なんでそっち選ぶ?」
「何が違う?」
「今の間は何?」

こういうことを勝手に分析してしまう。

職場でも、家庭でも、たぶんずっとやっている。

なので当然、娘に対しても考える。

こんなにパパ好きなのに、なんで生活の重要場面は全部ママ指名なんだ。

この疑問が、しばらく頭の中にあった。

最初は普通に少し傷ついていた。

父親としては、やはり言われたい。

「パパがいい!」

できれば、ご飯も。

歯磨きも。

お風呂も。

寝かしつけも。

全部選ばれたい。

かなり欲張りである。

厄介なことに、私は昔から“特別枠になりたい欲”が結構強い。

仲の良い相手に対して、

「あれ、自分が一番仲良いと思ってたの、もしかして俺だけ?」

みたいなことで、勝手に軽傷を負っていた。

表には出していないつもりだったが、たぶん少し出ていた。

今思うと、なかなか面倒くさい。

そんな人間なので、娘の、

「パパ大好き!」

と、

「歯磨きはママ!」

を同時にくらうと、感情の処理が少し忙しい。

パパは好き。

でも歯磨きはママ。

パパは大好き。

でもお風呂はママ。

パパと遊びたい。

でも寝るのはママ。

大人の私は、この矛盾をつい一生懸命つなげようとしてしまう。

好かれているのか。

選ばれていないのか。

必要なのか。

不要なのか。

朝の自分と夜の自分を、同じ評価制度で測ろうとしてしまう。

だからややこしくなる。

最近、少し思う。

娘の中では、「好き」と「任せる」が、どうも別フォルダに入っている。

パパは、遊びたい人。

ふざけたい人。

一緒に踊る人。

高い高いする人。

突然ぬいぐるみの声色を変えて、娘に冷静にダメ出しされる人。

ママは、生活そのものに近い人。

ご飯を食べる。

歯を磨く。

お風呂に入る。

眠る。

その安心の中心にいる人。

パパは遊園地。

ママは自宅。

そんな感じなのかもしれない。

遊園地は楽しい。

テンションも上がる。

また行きたい。

でも、毎日眠る場所は、やっぱり自宅がいい。

この例えを自分で出して、私は少し傷ついている。

自分で自分を遊園地枠に分類して、勝手にダメージを受けている。

本当に面倒くさい。

ただ、娘の中では矛盾していないのだと思う。

朝の玄関ではパパが必要。

遊ぶ時もパパが必要。

ご飯ではママが必要。

寝る時もママが必要。

その瞬間ごとに、一番しっくりくる相手を全力で選んでいるだけなのだ。

かなり合理的である。

ロジックで考えれば、たぶん何も矛盾していない。

納得するしかない。

でも、夜の「ママ!」は普通に刺さる。

私は子どもの心理を正確に語れる高尚な人間ではない。

ただ、朝の「パパぁぁぁ!!!」で回復し、夜の「ママ!」で削られる。

その単純な上下運動を、毎日かなり真剣に食らっている父親である。

今日も朝は、娘に泣かれる。

「パパぁぁぁ!!!」

私は心を削られながら、同時に少し回復する。

そして夜。

「お風呂、パパと入る?」

「ママ!」

私は笑顔で言う。

「そっかぁ〜!」

声は明るい。

内心では、ほんの少しだけ膝をついている。

それでも翌日になると、また聞いてしまう。

勝てないと分かっているのに、なぜか参戦してしまう。

「お風呂、パパと入る?」

そしてたぶん、また削られる。

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