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3歳娘の「歩きたくない」を分析してみた

娘は外出すると、だいたい歩かない。

正確に言うと、最初は少し歩く。

家を出た直後は歩く。

テンションが高い時も歩く。

目的地に向かっている序盤は、それなりに人間の二足歩行をしている。

小さな足でトコトコ進みながら、

「あ、葉っぱあった」

「ワンワンいた」

「あの車、赤!」

などと言っている。

こちらとしては思う。

よしよし。

今日はいいぞ。

この調子なら、けっこう歩けるんじゃないか。

休日の父親は、すぐ期待する。

だが、ある瞬間にスイッチが切れる。

「抱っこ」

来た。

非常に自然な顔で来る。

まるで、最初からこの予定だったかのように来る。

もしくは、

「ベビーカー乗る」

来た。

こちらが少し粘って、

「もう少し歩ける?」

と聞くと、娘は言う。

「疲れちゃう」

この言い方がまた絶妙である。

本当に疲れているようにも見える。

でも同時に、便利な言葉を覚えたようにも見える。

3歳児、なかなかやる。

「疲れちゃう」と言えば、大人が少し優しくなることを知っている。

たぶん知っている。

いや、こちらが勝手にそう疑っているだけかもしれない。

でも、あのタイミングの良さを見ると、完全に無策とは思えない。

休日のお出かけで、こちらとしては、

「よし、今日はたくさん歩いて体力つけよう」

などと思っている。

公園を歩く。

動物を見る。

少し遠くの遊具まで行く。

ついでに親の運動不足も解消する。

そんな健康的な計画を、父親の頭の中では勝手に立てている。

しかし娘の中では、どうも違うらしい。

外出とは、

歩く。

抱っこ。

ベビーカー。

少し歩く。

抱っこ。

何か食べる。

ベビーカー。

くらいの構成なのだと思う。

歩行がメインではない。

歩行はサブイベントである。

むしろ、抱っことベビーカーの合間に、たまに歩行ミニゲームが挟まるくらいの感覚なのかもしれない。

そして、私がいると抱っこ要求がわりと増える気がする。

「パパ抱っこ」

と言われる。

正直、嬉しい。

嬉しいのだ。

そこは否定しない。

小さな娘が、自分に向かって両手を伸ばしてくる。

「パパ抱っこ」と言う。

父親として、これを嫌いになれるわけがない。

だが、重い。

ものすごく現実的な話として、重い。

3歳半。

愛情と重量が比例してきている。

昔は軽かった。

片腕でひょいと抱っこできた。

なんなら、抱っこしながら片手で荷物も持てた。

しかし今は違う。

抱っこした瞬間、腰がこちらに話しかけてくる。

「本当にやるんですか?」

やるしかない。

なぜなら、娘がこちらを見ているからである。

父親の腰には、拒否権がない。

私は昔から、人の行動理由を考えてしまうタイプだ。

「なんで今それを言った?」

「何を見てそう思った?」

「その表情はどういう意味だ?」

そんなことを、勝手に考えてしまう。

だから娘の「歩きたくない」も、つい分析してしまう。

本当に疲れているのか。

甘えたいのか。

景色に飽きたのか。

目的地までの意味が分からないのか。

抱っこされると視界が変わって楽しいのか。

単に父親を移動手段だと思っているのか。

最後の可能性については、あまり深掘りしたくない。

父親はタクシーではない。

いや、実際かなりタクシーに近い運用をされている。

呼ばれたら来る。

乗せる。

目的地まで運ぶ。

途中で気が変われば降りる。

料金は発生しない。

たまにお菓子を要求される。

冷静に考えると、タクシーより条件が厳しい。

ある休日もそうだった。

目的地まで、あと少し。

大人なら何も考えずに歩く距離である。

しかし3歳児にとっては、そこが急に遠い国になるらしい。

私は片手に荷物を持ち、もう片方の手で娘と手をつないでいた。

娘の歩幅は、だんだん小さくなる。

さっきまで見つけた葉っぱに反応していたのに、急に無言になる。

そして、立ち止まる。

「抱っこ」

私は空を見た。

空は青かった。

腰の未来は、少し暗かった。

「もうちょっと歩こうよ」

「疲れちゃう」

「じゃあ、あそこまで歩いたら抱っこね」

「抱っこ」

交渉、終了。

大人のロジックは、3歳児の「疲れちゃう」の前ではかなり弱い。

結局、私は抱っこする。

娘の体を持ち上げる。

肩に小さな腕が回る。

顔が近くなる。

さっきまで歩道でぐずっていた娘が、急に静かになる。

それでも、抱っこすると娘は少し落ち着く。

私の肩に顔を乗せて、周りを見ている。

その瞬間を見ると、単純に歩きたくないだけではないのかもしれないと思う。

抱っこは、ただの移動手段ではないのかもしれない。

疲れた時に乗るもの。

甘えたい時に戻る場所。

知らない場所で安心する方法。

自分の足で歩く世界から、少しだけパパの高さに避難する時間。

そう考えると、「歩きたくない」の中には、いろんな感情が混ざっている気がする。

もちろん、毎回そんな美しい気持ちで受け止められるわけではない。

暑い日。

荷物が多い日。

目的地までまだ遠い日。

駐車場から入口まで、もう少し歩いてほしい日。

そういう時に、

「抱っこ」

と言われると、

「今かぁ……」

と思う。

普通に思う。

私は聖人ではない。

少し分析癖が強いだけの父親である。

「もうちょっと歩こうよ」

と言いたくなる。

実際に言う。

「ここまで歩いたら抱っこね」

と交渉する。

でも交渉相手は3歳児である。

こちらが条件提示をしているつもりでも、向こうは普通に別ルールを採用してくる。

「ここまで歩いたらね」

「抱っこ」

「いや、だから、あそこまで」

「疲れちゃう」

交渉、終了。

結局、私は抱っこする。

娘の体を持ち上げる。

腰に少し現実が来る。

肩に娘の腕が回る。

さっきまでぐずっていた娘が、急に静かになる。

その顔を見ると、腰の痛みと引き換えに、少しだけ納得してしまう。

たぶん、歩けないわけではない。

歩きたくないだけでもない。

“パパにくっついて移動したい”

それも少し入っている気がする。

そして私は、

「まあ、今だけか」

と思いながら歩く。

腰に少しダメージを受けながら。

父親の愛情は、たまに腰にくる。

もしかすると子どもの「歩きたくない」は、体力の問題だけではなく、“少し甘えながら世界を見たい”という、小さなお願いなのかもしれない。

子どもの行動を見ていると、ただのわがままに見えるものの奥にも、「疲れた」「甘えたい」「自分で決めたい」みたいな気持ちが混ざっているのだと思う。

そういう日々の中で、私が娘に「パパは私のことが大好き」と思ってもらうために続けている声かけ、手紙、叱った後の戻し方などを、別の記事にまとめました。

よければこちらも読んでみてください。

『3歳娘に「パパは私のことが大好き」と思ってもらうために、私が続けていること全部』

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