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[エッセイ]イルカの尻尾をはなさずに

先行して、動くものがある。

それは毎日を過ごす中で、ふと浮かんだイメージ、ちょっとした思いつきや衝動。それらは元々、ここにいるわたしからは、切り離されてどこかを漂っている。

それは地響きのようでもある。ビジョンといえばいいのだろうか。些細な運動ともいえよう。それらは、突然起きる。
シャワーのとき、旅先の移動中、シチューを食べた時、友達とことばをかわしているとき、映画のワンシーンを目撃したとき、とあるカフェで文豪のセンテンスを味わいながら読んでいる時。

それらは突然起こる。
はるか過去の記憶がぶり返したり、誰かと何かをしたことや、思い出したくなかったこと、ある日の夕陽や、匂いや肌触り、また、ことばや音たち。

雷のような鮮烈な印象のときもあれば、穏やかで生ぬるい風のようなときもある。
それらは、ただの過去の想起なのか、新しく生成された何か、なのかは定かではない。

わたしは日々、その地響きを、必ず逃さないように意識している。

鮮烈に発生したそれらやきっかけを、逃さないようにメモする。書きつける。
下手をすると、イメージたちは、1,2秒後には、ここから消え去るかもしれない。

特に、駅の乗り換えで、人混みを歩きながら、何かを想起したときは、壁が近ければ隅っこによけてiphoneに入力するが、人混みの中で身動きも取れないような時は、出会ったビジョンが消えないように、広場に出るまでの間、頭の中で反芻し続ける。

映画を観にいったときも、いつからか、メモをとるようになった。
ただ、ペンも紙もないとき、思い浮かんだものをその映画が終わるまで反芻するしかない。
しかし映画を眺めながら、並行してその作業を行うのは、とても骨が折れるから困ったものだった。

いつの頃からか、わたしはメモをつけていた。

このnoteをはじめるはるか前から、B5版のメモを常日頃持ち歩き、あらゆることを書きつけるくせが毎日あった。

その日やること、今、気がかりなこと、その時思い出したこと、最近やりたいこと、今の気持ち、後悔、行きたい場所、伝えたいこと、あの日の会話、印象的な会話、読みたい本、最近観たい映画、買いたい服や椅子、食べたいもの、いつか住みたい家の形、飼いたい動物、歩きたい場所、挑戦したいこと。

わたしは毎日、紙のメモか、iphoneに入力していた。
些細なことも、何かの案も、浮かんだことも、いつからか書き付けないことが、だんだん苦痛になっていった。

そんな日々の習慣をはじめた時から、もうすでに、わたしのアウトプット行為は、はじまっていたのかもしれない。

例えば、
[洗濯をする][今日、代々木公園にいく]

程度のメモは、ただの義務やしたいことで、それらそのものには、文章化するほどの価値もないし、展開もできそうにない。基本的には、何も奥に含まれていない。

しかし、
[〜さんを思い出す][今日は一日、鉛を抱えたような気持ちが続いてた]

もしこうしたことを、とある日の夕方に書き付けていたら、これは、ことばを重ねていける、わたしの中のヒビかもしれない。

わたしは今まで、オンタイムで、何かが動いたら、記号としてその都度、書きつける、ということをずっと続けてきた。部屋の隅に積み重なった紙のメモの山は、何もされずに、放置されている。

わたしに唯一足りていなかったのは、メモを振り返り、展開する、という行為だけだった。

メモは鮮度がある、という。おっしゃる通りだ。

おろしたての刺身も、その皿に半日以上放置されれば鮮度が失われるのと同じように、そのときに降りてきたイメージは鮮烈でも、時間の経過とともに、当初抱いていたポエジーも着想も色褪せていき、ただの文字の羅列へと変わる。

なぜなら、単語や極小のセンテンスは、ただの記号でしかないからだ。

それらを、適切に、長いセンテンスに変えて作り変えていくことや、ある程度のコラムやエッセイとして仕立て上げることで、それらはモノや作品となる。

興味深いのは、それらを後から読み直すと、思い出せるようになる、ということだ。

もちろん、とあるイメージについて、プルーストのように、ほとんど完全に言語で微細に描写できる、とまではいわなくても、ひとつの言葉や、センテンスで表された印象を、それをみたのがいつで、その時、誰といて、どんな状況で、どのような気持ちだったか、という詳しい状況を書いていくだけでも、十分にそのエピソードを思い出せる起動装置となる。

人の小説でも、詩人でも、そのセンテンスや配置された言葉に反応することもある。
読んできたものが、わたしの中の何かに反応する。何かとは、わたしの感覚に符合することばの配置があったのかもしれないし、ある描写が、忘れていたその人との思い出を浮かび上がらせたのかもしれない。

もしそんな体験をしたら、その時も、その感触だったり手触りなりを、メモしておけばいい。
そうしたらこのnoteに書いて、わたしの言葉として語りなおし、定着させよう。

あらゆる日々の行いで、何かが通り過ぎようとしてキャッチしたら、そのときにある程度、形にすべきなのかもしれない。

少なくとも、いくつかのことばの断片で、散りばめておくのがいいだろう。
記号は、よわく、もろい。

そのときは、そのことばが妥当と思えても、次の日には、白紙に残されたそのひとつのことばをみても、なんでこのことばをあてがったのだろう、と、理解できないかもしれない。

とある日のその想起やイメージは、もう二度と起きないかもしれない。

この心は気まぐれで、いつも何を考えているか分からない。また、どんなことをどの程度知っているのかさえ、わたしでさえ、知らない。
彼を、手なづけることもできないし、すっかり管理なんかできるはずもない。困難な生き物のようだ。
しかし、決定的なものを保有しているかもしれない。自分でも忘れていた何か大切なものを。

もし、ある日浮かんだ記憶が、今は取り壊された家の中での、幼児期の亡き祖母との会話だったら、それは、どんなものとも比較できない、大きな宝だろう。

もしそんなことを思い出したときは、死に物狂いでもそのとき、書きつけるべきである。

[一度、逃したそのイルカは、もうこの海では二度と会えないかもしれない。]


そのとき、極端な話、どんな状況下に置かれていても、書くべきだろう。
同じ毎日などない。日々、人々にはさまざまな出会いがある。人と出会い、話し、体験をしている。さまざまな風景をみる。食べる。思い出す。
本当は、休みなくいろんな反応が心で起きているはずである。

何かがそのとき揺れ動いても、すべて受け流している人もいるかもしれない。または、全く気づいていないのかもしれない。

ある種の思いつきや、ちょっとしたその想起や連想は、どんなものよりも価値がある。
タワマンよりも、エルメス、ファーストクラスよりも、かけがえのなさがある。

ただ何もなく、流れていく日常ほど虚しいものはない。同じルーティンをこなすだけで過ごす毎日の何が楽しいのか。

荒野の中でたたずむ、無数のビジョンを日々、捕まえに行こう。

ことばにされない、数えきれない想念たちは、行き場を失いながも、心という広大な荒野の上をさまよっている。
いつの日か、老婆となり、肉体が骨と化し墓のしたに収容されたあとも、泣き、さまよい続けるのだろう。

そう考えると、作家は、豊かな時間を生きている。
書くことをしている人はすべて、めぐまれている。

ことばにされない、それらを、日々掬い取る、何かに反応をして、顔をだした魚を敏感にキャッチする、はなさないで形にしていくこと。

この短い人生の中で、いかに多種多様なイルカたちを言語化していくかの戦いである。言語化は、わたしにとって、人生の本当の意味での仕事である。





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