モノノケどもが夢のあと〜異獣新撰組〜
―血と鉄の京洛―
第三話「片目の剣豪」
―過去編・文久三年、夏―
一
新見錦が切腹させられたのは、蝉の声がうるさい昼下がりのことだった。
理由は「長州の過激派と内通していた疑い」。会津藩からの圧力もあった。近藤が決断し、土方が段取りをつけた。粛清は静かに、素早く行われた。
芹沢には、事後報告だった。
「……そうか」
芹沢は縁側に座ったまま、庭を見ていた。背中だけで感情を殺しているのがわかった。新見錦——江戸を出てから共に中山道を歩いてきた男。芹沢派のナンバー2。長い付き合いの朋友だった。
「芹沢さん」
近藤が声をかけた。
「隊の規律のためです。ご理解いただけますか」
しばらく沈黙があった。
「……わかった」
芹沢は振り返らなかった。その声は静かで、だからこそ恐ろしかった。
廊下の陰で、土方は腕を組んでいた。
あの背中を見ていると、胸の奥が妙にざわつく。天狗の気とは別の何か——怒りとも悲しみとも取れる、人間くさい何かが芹沢の背中から滲み出ていた。
「歳さん」
近藤が小声で言った。
「……俺は間違えたか」
「間違ってない」
土方は即答した。しかし目は芹沢の背中から離せなかった。
二
それから芹沢は変わった。
少しずつ、しかし確実に。
酒の量が増えた。宴の席での笑い声は変わらず豪快だったが、どこか空洞になった。怒りの沸点が下がった。些細なことで神気が漏れ出す頻度が増えた。
そして——平山五郎だけが、変わらず芹沢の隣にいた。
片目の剣豪。播磨育ちの荒くれ者。しかし誰よりも芹沢鴨という男を知っていた。
ある夜、土方は偶然、中庭で二人が話しているのを見た。
「新見のことは、まだ引きずってるんですか」
平山が言った。声は低く、しかし穏やかだった。
「引きずってなどいない」
「嘘つかないでください。俺にはわかる」
芹沢が黙った。
「あなたが怒りを外に向けてる時は、本当は内側で何かを抱えてる時だ。ずっとそうだった。出会った頃からな」
「……平山」
「俺はどこにも行きませんよ」
平山は笑った。片目で、しかし温かく。
「あなたが天狗に食われちまうその日まで、隣にいます」
芹沢はしばらく黙っていた。それから小さく、ほんとうに小さく笑った。
土方はそれを見て、踵を返した。
見てはいけないものを見た気がした。
三
大坂への出張から帰った夜、芹沢が暴れた。
きっかけは力士との諍いだった。小野川部屋の力士・熊川熊次郎が、芹沢に対して無礼な物言いをした——それだけのことだった。
しかし芹沢は止まらなかった。
神気が溢れた。体が大きくなる。目が爛々と輝く。天狗の怒りは、人間の怒りとは違う。理性の箍が外れた先に、ただ嵐のような力だけが残る。
熊川は翌日、出血多量で死んだ。
屯所に静寂が落ちた。
近藤が土方の部屋に来たのは、その夜だった。
「歳さん」
「わかってる」
土方は障子を閉めた。行灯の灯りの下、二人は向き合った。
「会津が動く」
「動くだろうな。朝廷からも圧力がかかってる。あの人を庇い続けるのは、もう限界だ」
「……それでも」
近藤の顔が、苦しそうに歪んだ。
フランケンの躯は傷つかない。しかし近藤勇の心は、ちゃんと痛む。松陰の心臓が疼く以上に——この男自身の義侠心が、今夜は激しく揺れていた。
「芹沢さんがいなければ、俺たちはここまで来られなかった」
「ああ」
「俺はあの人が好きだ」
「俺もだ」
土方は静かに言った。
近藤が顔を上げた。土方が「好きだ」などと言うのは、滅多にないことだった。
「だから余計に、早くしなきゃならない」
土方の目は揺れていなかった。金色ではなく、ただ黒く、静かに。
「あの人が本当に取り返しのつかないことをする前に」
四
数日後、芹沢が吉田屋に乗り込んだ。
思いのままにならなかった芸妓・小寅に腹を立てて、遊郭に押しかけた。永倉、斎藤、土方、平山が同行する羽目になった。
主人を脅しつけ、小寅と付添の芸妓お鹿を断髪する辱めを与えた。
芹沢の命令で、土方が小寅の髪を切った。
刃を持つ手が、わずかに震えた。
これは自分のやることじゃない——そう思いながら、土方は切った。断れなかった。断れる空気じゃなかった。天狗の神気に当てられると、人間は抗えない。モンスターである土方でさえ、芹沢が完全に解放された時の圧は、本能に触れるものがあった。
帰り道、永倉が隣に並んだ。
「土方さん」
人間の剣士。モンスターに囲まれた新撰組の中で、純粋な人間として渡り合う男。その目は静かで、しかし鋭かった。
「あれは……まずいですよ」
「わかってる」
「俺には教えてくれないんですか。何か動くつもりなら」
土方は少し黙った。
「お前には関係ない話だ」
「関係ある」
永倉は低く言った。「俺も新撰組ですから」
土方は答えなかった。
永倉には、知らせない。この男の真っ直ぐさが、今回だけは邪魔になる。
五
その夜、平山五郎が離れに来た。
杏慈が戸を開けると、片目の剣豪が立っていた。いつもの粗削りな雰囲気はなく、どこか疲れた顔をしていた。
「山南先生はいるか」
「おります」
杏慈は無言で中に通した。
山南は薬の整理をしていた。静かに平山を見た。
「どうした」
「先生は……芹沢さんの今後について、何か知っていますか」
しばらく沈黙があった。
「私は何も知らない」
「そうですか」
平山は俯いた。片目が、行灯の灯りを反射してぼんやりと光る。
「俺は……あの人が、自分で自分を止められなくなってるのがわかるんです。水戸の頃はまだ、戻れる場所があった。でも今は」
「平山」
山南は静かに言った。
「お前はあの男の何だ」
「……朋友です。それだけです」
「ならば朋友として、最後まで隣にいてやれ」
平山は顔を上げた。山南の目は穏やかで、しかしその奥に何か深いものが宿っていた。
「それが、お前にできる唯一のことだ」
平山は長い間黙っていた。
それから静かに立ち上がり、深く頭を下げて、夜の中に消えていった。
杏慈は戸を閉めながら、何も言わなかった。
言うべき言葉が、見つからなかった。
つづく
