モノノケどもが夢のあと〜異獣新撰組〜
―血と鉄の京洛―
第二話「壬生の天狗」
―文久三年、春―
一
京は、臭かった。
血と野心と、腐りかけた時代の匂い。数百年生きてきたが、こういう匂いのする時代は決まって面白いことになる——サン・ジェルマンはそう思いながら、木屋町の橋の上から鴨川を眺めていた。
山南敬助の顔で、山南敬助の声で。
「浪士組の連中が動いています」
背後から声がした。杏慈だ。
「芹沢鴨が清河八郎と揉めているようです。江戸に帰る者、京に残る者で割れるかと」
「そうか」とサン・ジェルマンは言った。「近藤たちは?」
「残ります」
「ならば私たちも残ろう」
それだけ言って、サン・ジェルマンは橋を渡り始めた。杏慈は無言でその後についた。
二
壬生の郷士、八木家の屋敷に浪士たちが屯していた。
夜、宴が開かれていた。
上座に芹沢鴨がいた。
大柄な男だった。いや、大柄という言葉では足りない。座っているだけで部屋の重心がそこに移る。笑えば周囲が釣られて笑い、黙れば場が静まる。天狗の気というのはそういうものだ——本人が意識せずとも、場を支配する。
今夜の芹沢は機嫌が良かった。
「飲め飲め! 京まで来て縮こまってどうする!」
豪快に笑い、徳利を傾ける。隣の新見錦が苦笑しながら盃を受ける。末席の若い隊士たちも、芹沢の笑いに引っ張られるように顔をほころばせていた。
「あの人は本当に……」
土方は部屋の隅で腕を組んだ。
「ウザいか」と近藤が小声で言った。
「ウザい」
即答。しかし土方の目は、芹沢から離れなかった。
芹沢が立ち上がり、剣の話を始めた。水戸での戦、天狗党の仲間たちの話。語り口は荒削りで、時に乱暴で、しかし隅々まで本物だった。命のやり取りをくぐり抜けてきた男の言葉は、どんな美辞麗句より重い。若い隊士たちが前のめりになっている。
「……強えな、やっぱり」
土方は小さく呟いた。
「ああ」と近藤も頷いた。「あの人がいなければ、俺たちはここまで来られなかった」
浪士組が京に残れたのは、芹沢鴨の剛腕があったからだ。清河八郎に真っ向から啖呵を切り、会津藩に直談判し、道筋をこじ開けた。近藤たちだけでは、あの壁は突破できなかった。
「だから余計にウザい」
土方が言うと、近藤が苦笑した。
三
翌朝、屯所に怒声が響いた。
近隣の商家が、差し入れを断った。それだけのことだった。
しかし芹沢にとって、それは些細ではなかった。
「壬生浪士組を舐めるな!」
拳が柱を打った。柱がひび割れる。人間の力ではない——天狗の神気が漏れ出た瞬間だった。商家の主人が腰を抜かす。周囲の隊士たちが青ざめて後ずさる。
「芹沢さん」
近藤が前に出た。
「落ち着いてください。民を脅しては——」
「うるさい」
芹沢が振り向いた。目が爛々と輝いている。
「近藤、お前はわかっていない。京の商人どもは舐めた相手には徹底的に舐めてかかる。ここで引いたら終わりだ。俺たちはまだ、この京で何者でもない」
「だとしても——」
「俺たちが恐れられなくてどうする」
芹沢の声が、低く落ちた。怒鳴り声ではなく、静かな確信だった。
「剣で食う者が、舐められたまま生きていけるか。お前もわかっているだろう、近藤」
近藤は黙った。
反論できなかった。間違ってはいないからだ。正しいかどうかは別として——この男の言葉には、筋が通っている。いつもそうだ。乱暴で、傲慢で、手がつけられない。しかし芹沢鴨は、決して馬鹿ではない。
土方が奥歯を噛んだ。
ウザい。本当にウザい。しかし——
「芹沢さん」
廊下の端から、杏慈の声が割り込んだ。
「山南先生がお呼びです」
たったそれだけだった。芹沢の目が僅かに揺れ、神気が引いた。
「……行く」
短く言い、杏慈の後についていく。その背中を見送りながら、土方は静かに息をついた。
「……正しいのが一番タチが悪い」
「ああ」と近藤も頷いた。「だから俺は、あの人が好きだよ」
土方は何も言わなかった。
胸の奥で、松陰の心臓が静かに疼いた。
四
夜、離れで山南が言った。
「芹沢は長くない」
杏慈は薬を調合しながら答えた。「近藤さんたちが動かしますか」
「そうなるだろう」
「……もったいないですね」
杏慈にしては珍しい言葉だった。山南が少し目を細める。
「そう思うか」
「強い人だと思います。ただそれだけです」
杏慈は手を動かし続けた。感情ではなく、事実として言った。天狗に憑かれながら、それでも己の筋を曲げない。
「強いからこそ、御せない」と山南は言った。「時代は強さだけでは渡れない。近藤たちにはそれがわかっている」
窓の外、壬生の夜空に月が白く輝いていた。
どこかで芹沢の笑い声が聞こえた。まだ宴が続いているらしい。
豪快で、乱暴で、誰より本物の——あの男の声が、夜に溶けていった。
つづく
