モノノケどもが夢のあと〜異獣新撰組〜
―血と鉄の京洛―
第四話「綻び」
―過去編・文久三年、夏の終わり―
一
八月十八日の政変は、壬生浪士組にとって晴れ舞台だった。
長州勢力が京から一掃され、会津・薩摩を中心とした公武合体派が主導権を握る。その警備に壬生浪士組が動員された——それは幕府から正式に認められた、初めての大仕事だった。
政変が終わり、島原の角屋で慰労の宴が開かれた夜。
芹沢鴨は誰よりも酒を飲み、誰よりも大きく笑っていた。
「どうだ! 俺たちがいなければこの政変はなかったぞ!」
豪快な声が座敷に響く。芸妓たちが笑い、隊士たちが盃を重ねる。その中心に、いつも芹沢がいた。
土方は末席で酒を舐めながら、その光景を見ていた。
隣に沖田が座った。
「楽しそうですね、芹沢さん」
「ああ」
「土方さんは楽しくないんですか」
「楽しいよ」
「嘘だ」
沖田はくすりと笑った。青白い顔に、いつもの無邪気な笑み。しかしその目は、座敷の中心を静かに見ていた。
「芹沢さん、今夜は特別に荒れてる気がします。政変で神気を使いすぎたのかな」
土方は何も言わなかった。
沖田の言う通りだった。政変の夜、芹沢は完全に天狗として動いた。神気を解放し、長州の刺客を幾人も薙ぎ払った。あの力があったから政変は成功した——しかし代償として、人間に戻る箍がまた一つ、緩んだ。
二
宴の翌日、芹沢が池田屋の近くで力士と揉めた。
小野川部屋の熊川熊次郎。図体のでかい男が、酔った芹沢に向かって「浪士ごときが」と吐き捨てた。
それだけだった。
芹沢の目が変わった。
平山が止めに入った。「芹沢さん」と低く言って、腕を掴んだ。しかし天狗の力が膨れ上がった瞬間、平山の力でも抑えきれなかった。
熊川は吹き飛んだ。
壁に叩きつけられた男の体が、ずるりと崩れ落ちる。
「……芹沢さん」
平山が静かに言った。芹沢は荒い息をついて、それから我に返ったように手を見た。天狗の気が引いていく。残るのは、いつもの芹沢の目——しかしその奥に、何か暗いものが増えていた。
「行くぞ」
芹沢は短く言って、歩き始めた。
熊川は翌朝、死んだ。
屯所に知らせが届いた時、近藤は長い間黙っていた。土方も何も言わなかった。
沖田が静かに呟いた。
「……取り返しがつかなくなってきた」
三
数日後、近藤に会津藩から呼び出しがかかった。
松平容保の側近が、静かな部屋で静かに言った。
「芹沢殿の件、もはや看過できぬ」
近藤は黙って聞いた。フランケンの躯は微動だにしない。しかし松陰の心臓が、胸の中で激しく波打っていた。
「朝廷からも召し捕りの声が上がっている。このままでは壬生浪士組ごと取り潰しになりかねない」
「……はい」
「近藤殿、わかっておられますな」
近藤はゆっくりと頭を下げた。
「わかっております」
帰り道、一人で壬生の夜道を歩いた。
胸の疼きが止まらなかった。心臓が騒いでいるのか、自分の心が痛んでいるのか、もうわからなかった。
屯所の門をくぐると、土方が待っていた。
「どうだった」
「……決めろ、と」
土方は何も言わなかった。ただ、近藤の隣に並んで歩き始めた。二人、しばらく無言で廊下を歩いた。
「歳さん」
「なんだ」
「お前はどう思う」
土方は少し間を置いた。
「俺たちがここに残れたのは、芹沢さんのおかげだ。それは本当のことだ」
「ああ」
「だから——」
土方の声が、わずかに低くなった。
「だから俺がやる。近藤さんは手を汚さなくていい」
近藤は立ち止まった。
「駄目だ」
「近藤さん——」
「俺も行く」
近藤は真っ直ぐ前を向いたまま言った。継ぎ目だらけの顔が、行灯の灯りに静かに照らされている。
「俺が決めたことだ。俺も行く。それだけだ」
土方はしばらく近藤の横顔を見た。
それから、深く息をついた。
「……わかった」
四
翌朝、永倉新八が土方の部屋に来た。
「土方さん、俺に話してください」
開口一番だった。土方は茶を飲みながら永倉を見た。
「何の話だ」
「とぼけないでください」
永倉は静かだったが、目が鋭かった。純粋な人間の目——モンスターの濁りがない、真っ直ぐな目だった。
「芹沢さんのことです。何か動くつもりでしょう」
「お前には関係ない」
「関係あります」
永倉は一歩前に出た。
「俺は人間です。モンスターじゃない。でもこの新撰組で戦ってきた。それは変わらない」
土方は黙って永倉を見た。
「芹沢さんが何をしたか、俺は全部見てきました。熊川のことも、吉田屋のことも。あれは……もう止まらない」
「わかってる」
「だったら——」
「お前は外れろ」
土方は静かに、しかしはっきりと言った。
「これは俺たちでやる。お前の手を汚させるつもりはない」
永倉は黙った。
長い沈黙の後、永倉は静かに頭を下げた。
「……わかりました」
踵を返しかけて、止まった。
「土方さん」
「なんだ」
「芹沢さんは……本当は、いい人だったと思います」
土方は答えなかった。
永倉が部屋を出ていった後、土方は一人で残った。冷めた茶を見つめながら、長い間、黙っていた。
五
その夜、平山五郎が中庭で一人、刀の手入れをしていた。
月明かりの下、丁寧に、丁寧に刃を拭く。一本ダタラの血が、刀の声を聞く。この刃が何を斬ってきたか、これから何を斬るのか——全部わかる。だからこそ、丁寧に扱う。
「平山」
声がして、振り返った。
土方が立っていた。
二人は無言で向き合った。月が雲に隠れ、中庭が暗くなる。
「……知ってるか」
土方が言った。
「知ってます」
平山は静かに答えた。驚きはなかった。一本ダタラの霊眼は、屯所の空気の変化を、とうの昔に感じ取っていた。
「止めるつもりか」
「止めません」
平山は刀を鞘に収めた。
「あの人は……もう自分では止まれない。俺にはわかる。ずっと隣で見てきたから」
土方は何も言わなかった。
「ただ」
平山の声が、低くなった。
「俺も一緒にいさせてください。最後まで」
土方の目が細くなった。
「お前も粛清の対象だ」
「知ってます」
「怖くないのか」
平山は少し考えて、それから笑った。片目が、月明かりを受けてぼんやりと光る。
「怖いですよ。でも——あの人一人で逝かせるのは、もっと嫌だ」
土方は長い間、平山の顔を見ていた。
それから静かに、視線を空に向けた。
雲が流れ、月が顔を出した。
「……そうか」
それだけ言って、土方は歩き去った。
平山は一人、中庭に残った。
月を見上げながら、もう一度刀を抜いた。刃が白く光る。
この刀が最後に何を斬るのか——もう、聞かなくてもわかっていた。
つづく
