異獣新撰組 ―血と鉄の京洛―第五話「密命」―過去編・文久三年、九月―
一
九月に入ると、京の空気が変わった。
夏の熱気が引き、夜風に秋の匂いが混じり始める。政変の興奮も落ち着き、壬生の屯所にも静かな日常が戻っていた。
しかし土方には、その静けさが怖かった。
嵐の前の、あの静けさに似ていた。
「歳さん」
近藤が部屋に入ってきた。顔を見た瞬間に、土方は悟った。
「会津から、正式に来たか」
「……ああ」
近藤は静かに座った。継ぎ目だらけの大きな手が、膝の上で握られている。
「芹沢殿を処分せよ。名目は隊規違反。会津藩御預りとしての沽券に関わると——そう言われた」
「いつまでに」
「今月中に、と」
土方は黙って窓の外を見た。
夜空に月が出ていた。まだ細い、欠けた月。
満月まで、あと十日ほどだった。
二
翌朝、山南敬助——山南が土方を呼んだ。
離れの部屋。杏慈が茶を置いてすぐに気配を消した。二人きりになると、山南は静かに口を開いた。
「満月の夜にやれ」
土方は眉を上げた。
「あんたが段取りに口を出すのは珍しいな」
「珍しいこともある」
山南は茶碗を手に取りながら、穏やかに言った。
「芹沢は天狗だ。中途半端な夜に仕掛ければ、神気で全員薙ぎ払われる。確実に仕留めるなら、あちらが全力を出せる夜——こちらも全力を出せる夜でなければならない」
「満月なら俺の力が上がる」
「そうだ。沖田の力も上がる。全力と全力でぶつかる。それが——」
山南は少し間を置いた。
「あの男への、礼儀だろう」
土方は黙って、その言葉を受け取った。
数百年生きた男が言う「礼儀」は、重かった。
「もう一つ」
山南が続けた。
「近藤の身体を診た。限界が近い。満月までに一度、パーツの交換が必要だ」
土方の目が細くなった。
「間に合うか」
「やってみる。ただ——」
山南は珍しく、言葉を濁した。
「当日、万が一のことも考えておけ」
三
同じ日の夕暮れ、沖田総司が縁側で空を見ていた。
近藤が隣に座った。しばらく二人、黙って夕焼けを眺めた。
「総司」
「はい」
「お前に頼みたいことがある」
「芹沢さんのことですね」
近藤は少し目を細めた。「わかってたか」
「みんな、わかってますよ」
沖田は空を見たまま言った。夕焼けが青白い顔を赤く染める。
「俺でいいんですか。近藤さんが行くなら、俺は——」
「お前に頼む」
近藤は静かに、しかしはっきりと言った。
「お前の剣が一番速い。芹沢さんに、苦しませたくない」
沖田は黙った。
胸の奥で、何かが疼いた。ドラキュラの渇望ではなく——もっと人間くさい、沖田総司自身の痛みだった。
「……わかりました」
「すまない、総司」
「謝らないでください」
沖田は笑った。いつもの無邪気な笑みではなく、少しだけ翳のある笑みだった。
「俺が引き受けます。近藤さんは——最後に、ちゃんとあの人と話してあげてください」
近藤は何も言えなかった。
大きな手が、そっと沖田の肩に置かれた。
四
満月三日前の夜、芹沢が珍しく静かだった。
縁側に一人で座って、月を見ていた。欠けた月が、少しずつ満ちていく。
土方が通りかかると、芹沢が声をかけた。
「土方」
「……なんだ」
「座れ」
珍しい誘いだった。土方は少し迷って、隣に座った。
二人、しばらく黙って月を見た。
「お前は俺が嫌いか」
芹沢が唐突に言った。
土方は少し考えた。
「嫌いじゃない」
「ほう」
「ウザいとは思ってる」
芹沢が笑った。豪快な笑いではなく、静かな笑いだった。
「正直な奴だ、お前は。だから嫌いじゃない」
月が雲に隠れ、縁側が暗くなった。
「土方」
「なんだ」
芹沢の声が、低くなった。
「俺は……最近、夢を見る」
「夢?」
「水戸の夢だ。天狗党の仲間たちと、山を歩いていた頃の。あの頃はまだ——俺は俺だった」
土方は黙って聞いた。
「筑波山で神気に憑かれてから、少しずつ変わった。自分でもわかる。怒りが止まらなくなる。力が溢れる。それが……気持ちいいんだ。それが一番、怖い」
月が雲から出た。
芹沢の横顔が、月明かりに照らされた。天狗の怪物ではなく——ただの、疲れた男の顔だった。
「新見が死んで、俺は変わったか」
「……変わった」
「そうか」
芹沢は静かに頷いた。責めるでもなく、嘆くでもなく。
「そうか」
それだけ言って、また月を見た。
土方は奥歯を噛んだ。
今夜のこの男に、どんな言葉をかけても嘘になる気がした。
五
満月二日前、土方は全員を集めた。
近藤、沖田、山南、原田左之助。それだけだった。
永倉には知らせない。斎藤にも知らせない。
山南が静かに場を仕切った。
「満月の夜、島原の角屋で宴を開く。会津のお手当という名目で、芹沢さんも平山も平間も参加する。宴の後、屯所に戻ったところを——」
「平山はどうする」と原田が口を挟んだ。
原田左之助。玄武の力を持つ男。亀甲の加護が全身を覆い、どんな刃も容易には通らない。攻めより守りが本職——今夜の役割は、逃げ道を塞ぐことだった。
「芹沢さんと同室で寝る。それは変わらないだろう」と山南が続けた。
「平山は俺が引き受ける」
土方が静かに言った。
「あいつは一本ダタラだ。半端な剣じゃ止まらない。それに——あいつは覚悟を決めてる。最後まで芹沢さんの隣にいるつもりだ。だから俺が行く」
沈黙があった。
「芹沢殿は」と山南が続けた。
「私と沖田で」
山南が静かに言った。山南の目が、静かに光る。
「私も行く。これは私の責任でもある」
沖田は黙って頷いた。
「原田は外の逃げ道を全て塞げ」と土方が言った。
「わかった」と原田は短く答えた。
「平間は」と近藤が口を開いた。
「見逃す。あの男はこの件に関係ない」
全員が頷いた。
それから近藤が、少し間を置いて言った。
「俺も行く」
静寂が落ちた。
土方が近藤を見た。山南が静かに目を伏せた。
「近藤さん」
土方の声は平静だったが、目が語っていた。
「……身体の具合はどうだ」
「問題ない」
「嘘つくな」
近藤は黙った。
左腕の継ぎ目が、ここ数日で黒ずんでいた。パーツの劣化——山南が「限界が近い」と言ったあの言葉が、現実になりつつあった。
「近藤さん」
土方は静かに、しかしはっきりと言った。
「当日、もし動けなくなったら——屯所で待っていてください」
「歳——」
「俺たちで必ずやります。だから」
近藤は長い間、黙っていた。
フランケンの躯は傷つかない。しかし今この瞬間、近藤勇は誰よりも深く、傷ついていた。
「……わかった」
行灯の灯りが、静かに揺れた。
六
会議が終わった深夜、杏慈は平間重助の部屋の前に立った。
障子越しに、寝息が聞こえる。穏やかな男の、穏やかな寝息。
杏慈はしばらくそこに立っていた。
感情はない。命令されたわけでもない。山南は何も言わなかった——ただ、今夜の会議の後、杏慈を一瞥して、それだけだった。
それだけで、わかった。
杏慈は静かに障子を開けた。
「平間さん」
低く、静かに呼んだ。
平間がゆっくりと目を開けた。暗がりの中、杏慈の顔を見て——全てを察したように、静かに体を起こした。
「……そうか」
「今夜ではありません。満月の夜です」
「芹沢さんは」
杏慈は答えなかった。答える必要はなかった。
平間は長い間、黙っていた。穏やかな男の顔が、静かに歪んだ。泣くでも怒るでもなく——ただ、深く、悲しんでいた。
「……芹沢さんに、伝えてくれますか」
「なんと」
「世話になった、と」
杏慈は少し間を置いた。
「伝えます」
それだけ言って、障子を閉めた。
廊下を歩きながら、杏慈は思った。
伝えない。
平間の言葉を芹沢に伝えれば、芹沢は何かを察する。それは誰のためにもならない。
だから伝えない。
それでも——平間が言いたかったという事実は、杏慈の中にだけ、静かに残った。
それだけでよかった。
つづく
