なぜ、他人のnote記事を読んでも面白くないのか
最近、他の人が書いたnoteの記事を読んでも、あまり面白いと思えません。なぜか途中で読むのをやめてしまいます。「これは、なぜだろう」と思って、チャビーに聞いてみました。
すると、「他人の文章が下手だからではなく、あなたが文章に求めているものと、noteでよく見かける文章の型がズレてきたのではないか」と言われました。たとえば、「結論が早く見えすぎる」。失敗しても大丈夫、自分らしく生きよう、継続することが大切。もちろん、どれも間違ってはいません。ただ、タイトルや冒頭を読んだだけで着地点が見えてしまうと、その先を読む理由がなくなります。私は最近、「本当にそうなのか」「例外はないのか」「逆から見るとどうなのか」と、途中で少し考えを揺さぶられる文章のほうに惹かれるようになっています。
次に言われたのが、正しいことを説明する文章は、分かりやすくても、どこか物足りない。むしろ、「自分でも答えが分からない」「自分の考えと矛盾している」といった部分が残っている文章のほうが、私は読みたくなるようです。
また、チャビーは「予定調和への耐性が落ちたのではないか」といいました。「どうせ、こういう結論になるのだろう」と分かってしまった瞬間に興味が薄れてしまう。逆に、「この人は、どこへ話を持っていくのだろう」「途中で自分の考えが変わるかもしれない」「最後まで答えが分からない」。そんな文章を読みたいのだと思います。しかし、それも長いと読む気になれない。
そこで私は、このチャビーとのやり取り自体を記事にしてみようと思いました。「今の回答をnoteの記事にできる?」と頼んだところ、すぐに原稿を作ってくれました。ところが、その原稿を読んでいて、別のことに気づきました。チャビーが書いた文章の改行が、私が普段noteでよく見かける文章とそっくりだったのです。一文書く。空ける。また一文書く。空ける。短い言葉を並べる。そして大事な一文だけを独立させる。
よく考えてみれば、不思議なことではありません。スマートフォンで読む文章では、長い段落は読みにくい。そのためWeb文章では短い段落や多めの空行が好まれます。生成AIも、そのような文章を大量に学習している。そして今では、生成AIを利用して文章を書く人も増えています。人間が「読みやすい文章」の型をつくり、AIがそれを学び、AIがその型を再生産し、それをまた人間が使う。そう考えると、読みやすくするための工夫そのものが、文章を少しずつ均質化しているのかもしれません。
私は、一文ごとに改行する文章が嫌いなのではなく、すべての文章が同じリズムで読まされることに飽きていたのかもしれません。読みやすさは大切です。しかし、読みやすさだけを追いかければ、文章は次第に似てきます。タイトルで問いを立て、短文で引き込み、適度に太字を使い、一文だけ独立させ、最後には少し気の利いた言葉で締める。確かに読みやすい。でも、それを何本も読んでいると、「また、この呼吸か」と感じることがあります。
では、自分はどうすればよいのでしょう。
相田みつをさんの言葉や、ピカソやゴッホの絵のように、ひと目で「この人の作品だ」と分かる表現には憧れます。ただ、彼らには作品そのものの独自性だけでなく、作者として積み重ねてきた人生や、作品が生まれた時代や背景という文脈があります。作品だけが突然そこに置かれて評価されているわけではありません。私には、そこまでの文脈も、そこまで強烈な独自性もありません。
さらに厄介なのは、私自身は自分の文章を面白いと思っているということです。しかし、他の人が面白いと感じているとは限りません。逆に、私が「面白くない」と思っている文章も、書いた本人にとってはきっと面白いのでしょう。文章を書くという行為には、どうしても自己満足の部分があります。自分では気持ちがよい。しかし、それを他人も同じように楽しんでくれるとは限らない。
そう考えると、これは作家だけでなく、作詞家や作曲家、画家など、表現する人が必ずぶつかる問題なのでしょう。売れる曲をつくるために流行の音を使うのか。それとも、自分にしかつくれない音楽を貫くのか。大衆性と独自性のトレードオフです。noteでも同じです。たくさん読まれるタイトル、短い段落、分かりやすい結論、共感しやすいテーマ。そうした「読まれる文章」の定石に寄せれば、入口は広くけど、みんなが同じ定石を使えば、みんな似た文章になります。
理想を言えば、「自分の書きたいこと」が、そのまま「他人の読みたいこと」になればよい。しかし、現実には、そんなに都合よく一致しません。
これは文章だけの話でもないように思います。普段の会話でも、私は自分が話したいことを話せると楽しい。しかし、私が話したいことと、相手が聞きたいことは同じではありません。自分が話すのは楽しいけど、相手の話を聞くことは得意ではない。そう考えると、文章でも会話でも、私はかなり「自分が話したい側」なんでしょう。
では、自分が話したいことを捨てて、相手が聞きたいことだけを話せばよいのでしょうか。それでは、たぶん私は面白くありません。逆に、自分が話したいことだけを話していれば、相手が退屈する。そこで必要になるのは、自分の話したいことを捨てることではなく、自分の話したいことを、相手が受け取れる形に変えることなのだと思います。
「つまらないなら、面白くしてみせようホトトギス」とでも言えばよいでしょうか。
ただし、「面白くする」だけでも足りません。聞き手や読者に、「これはこの人の話だけれど、自分にも何か利益がある」と感じてもらう必要があります。ここでいう利益は、お金や実用的なノウハウだけではありません。知らなかったことを知る。考え方が一つ増える。自分の中にあったモヤモヤを言葉にしてもらえる。少し笑える。誰かに話したくなる。自分の考えを見直すきっかけになる。それらも全部、読者にとっての利益です。
つまり、書くときにも話すときにも、「私は何を言いたいのか」だけではなく、**「相手はこれを受け取ることで何を得るのか」**を考える必要があるのでしょう。
これは迎合とは違います。自分の言いたいことを捨てるのではなく、読者や聴者に合わせる。自分が話したいことと、相手にとっての利益が重なる場所を探す。内容まで大衆に合わせる必要はない。タイトル、冒頭、具体例、言葉の選び方、文章の長さ、順序、リズム。そこを工夫する。言ってみれば、内容は自分、伝え方は相手です。
そう考えると、処理流暢性を高めることも悪いことではありません。読みやすくする。分かりやすくする。頭に入りやすくする。ただし、それ自体を目的にしてしまうと、どこかで見た文章になってしまう。処理流暢性は、独自性を消すためではなく、独自性を相手まで届けるために使えばよいのでしょう。
他人のnote記事を読んでも面白くない。そんな少し傲慢な違和感から始まった話でした。しかし、考えているうちに、問題は他人の記事ではなく、自分の書き方や話し方に戻ってきました。
他人の記事がつまらないと言う前に、自分の記事は誰にとって面白いのか。自分が話したいことを話して満足する前に、相手には何が残ったのか。
そして最悪の場合、
「他人の記事が面白くないと言っている本人の記事が、いちばん面白くなかった」
ということも十分あり得ます。
それでも、私は書くことも、話すことも好きです。だからやめるのではなく、もう少し工夫してみようと思います。自分の書きたいことを捨てずに、それを他人が読める形にする。自分の話したいことを捨てずに、それを相手にも意味のある話にする。
入口は相手の利益に合わせる。核心では、自分が本当に言いたかったことを書く。
そのくらいが、私にはちょうどよいのかもしれません。
