【短編小説】階段
あっ、と気づいたら階段から落ちていた。
空気が澄んで、照りつける太陽が肌を焼く。
身体は空を飛んだ。
……なんてね。
投げ出された身体が、ゴールテープをきる
ように飛び出し、遅れた足がついてくる。
衝撃。
身体が段差にぶつかり、転がり落ちる。
あぁ、おかしいな。
今日の乙女座は、ラッキーなハズなのに。
ゴムボールみたいに、
弾むように落ちる。
◆
どうして落ちたんだっけ?
そう、誰かに突き飛ばされた気がする。
背中に残る押された感触。
会社を出たエントランス前の階段。
週末に結婚式のドレス、
観に行く予定だったのに、な。
◆
恋人の掛井フミヤは、2歳歳下の28歳。
彼が新入社員の頃、
職場先輩をしたのがきっかけで付き合い始めた。
あたしの気がつかない部分を
フォローしてくれる。とても、気が利く。
「アヤコさん、好きなんです。
先輩後輩なのは分かってますけど、
付き合ってください」
そう言って、後ろから抱きしめられた。
残業中、人気のないオフィス。
フミヤの香水と、身体の匂いがあたしを包む。
やがてそれは、あたしのベッドの匂いになった。
◆
課長になって半年間は、
慣れないマネジメントと、プレーヤーの両立で
ヘトヘトだった。
毎日遅く帰宅すると、
フミヤの手料理が迎えてくれる。
「今日も遅かったね」
「うん、荒木さんの作業のフォローしてたの。
……うわぁ、今日も美味しそう」
「荒木さん、いつもアヤコさんに残業させるよね。
さ、美味しいもの食べて休んで」
フミヤがビールグラスをふたつ持ってくる。
「今日は、ズッキーニを春巻にしてみました」
ズッキーニの春巻と、
アボカドとひじきの和え物、豆腐サラダ、
そしてシュワシュワしたビール。
お腹が満たされたら、一緒にお風呂に入って、
それからふたりのベッドに行く。
ベッドでのちょっとした運動は、
甘いスイーツ。別腹だ。
◆
「フミヤさんって、シュッとしてますよね」
部下の荒木リカさんは、フミヤのファンだ。
「そう、ね」
あたしは曖昧に頷くしかない。
社内恋愛を隠すのは、地味に大変だ。
「そういえば荒木さん、
昨日の書類、よく出来てたわよ」
「あ、ありがとうございます!」
荒木さんは、よく懐く子猫みたいだ。
「わたし、フミヤさんの秘密、知ってるんです」
荒木さんは、
赤リボンのネイルを艶々させて言った。
あたしは、剥げかけた指先をそっと隠す。
「秘密って?」
荒木さんは、結った髪のしっぽを揺らし
目を光らせた。
「フミヤさん、背中に大きな傷があるんですよ」
◆
フミヤは幼い頃に交通事故にあって、
背中に傷がある。それは本当にそう。
だけど、Yシャツを脱がなければ見えない
その場所を、どうして荒木さんが知ってるの?
◆
「ねぇ、フミヤ」
「なに?アヤコさん」
フミヤの汗ばんだ香り。落ち着く香り。
「傷、痛む?」
あたしは背中の傷をなぞりながら言った。
汗と、体温、引き攣れた傷。
「雨の日以外は大丈夫だよ。どうして?」
「……なんでもない」
傷に口付けする。
この傷が、あたしの身体に溶けたらいいのに。
「明日の天秤座の、運勢は最下位」
「アヤコさん、明日の運勢はまだ分からないよ」
◆
偶然見ちゃったの。
外回りから帰った後、更衣室で
汗だくのYシャツとインナーを着替えてる姿を。
そして、背中の大きな傷。
わたしのあの人を、
独り占めしてるあの香りがしたから、
つい開いている扉を覗いてしまった。
見るつもり、なかったけど、
どうしてドアを開けたまま着替えてるんですか、
フミヤ先輩?
◆
わたしは近づく。
アヤコ課長の背中に。
ゆるく巻いた長い髪、疲れているはずなのに、
消えない色気。
手に入らないなら、壊してしまえばいい。
艶々のネイルは、あなたに見てもらうため。
アヤコ課長のウェディングドレス、
綺麗だろうな。週末はそれを見に行こう。
失ったものを想像して、
余韻に浸ろう。
そっと手を伸ばす。
背中をひと押し、それでわたしのもの。
◆
あっ!と気がついたら、
わたしが宙を舞っていた。
覚えのある香り。
憎らしいフミヤ先輩の香り。
あぁ、空が綺麗。
乙女座が、青い空に薄く煌めいた気がした。
了


