壬申の紅椿-道を引く君 第4話「月影の孤独」
人は、私を幸運な皇子と呼ぶ。
だが幸運は、ときに鎖だ。
違えることが出来なくなる。(大友皇子)
宮廷・夜の書院
琴の弦に月が落ちる。大友皇子は指でその光を撫で、音をひとつ宙へ放った。
音はすぐ冷え、消える。そこで消えたはずの音が、どういうわけか彼女の横顔を呼び戻す。紅椿の簪、下がり際の小さなため息。
簾の影から藤原不比等が現れた。
「殿下、兵の準備は整いつつあります」
「……本当に、やらねばやらないのか」
大友は弦に指を置いたまま問う。不比等は答えず、視線を逸らす。
沈黙が一拍。大友はかすかに笑い、琴へ囁くように和音を落とした。私情を音に紛らせる術を、彼はよく知っている。
渡り廊下・偶然の対面
夜露の匂い。回廊の角で、額田王と鉢合わせた。
「あなたの詩は、いつも遠くを見ている」
思わず口にした言葉は、彼女の瞳に浅い波紋を作る。
「見えるのは、心が向いている方だけです」
額田はそう言って、簪に指で触れる。おそらく無意識だろう。だが大友には、その意味が分かってしまう。
袖を伸ばせば、肩の露を拭えただろう。けれど、伸ばさない。
触れないという礼節が、いまは恋よりも確かな武器であることを、大友は知っていた。
「あなたには、近くは見えないようだ」
彼は微笑む。孤独の影を、笑みに仕込んで。
遠い庭で、紅椿の花弁が一枚、風に乗って舞った気がした。
手を伸ばせば届いたのかもしれない。けれど、伸ばさない。それが彼の恋のかたちだった。

吉野・静かな山風
大海人皇子は村国男依と兵の歩幅を合わせ、風が止むのを待って合図を出した。
「都は殿下を討とうとしております」
「そのために吉野へ退いたのだ。準備は整っている。望むところだ。」
大海人は短冊を懐から取り出す。紙に残った彼女の癖を指で辿り、息を吸う。
待つ時間は長かったが、捉えた好機は逃さない。必ずやり遂げてみせる。彼はそのことを誰よりも信じている。
酒席・川島皇子
ふたりきりの盃。灯が低い。
「兄上、戦を避ける道はないのですか」
「まだ交渉の時期ではない」大友は盃を見つめる。「私は勝ちたいわけではない。……国が割れるのが恐ろしいのだ」
川島が目を上げる。
「もし私が間違っていたなら、すべてを終わらせる」
その小さな声は、己への判決文のように静かだった。恋も権も、どちらも人を縛る鎖だ。ほどくなら、自分の首から——と彼は思う。
書院・恐れ
不比等は密書を開く。封蝋を割る音が、小さく夜を切った。
——討大海人皇子。文字の隣にいくつもの印が押されていた。
大友皇子に呼応した旧豪族達の印。
不比等はひと息だけ吐いた。これで戦力は倍増するだろう。都に入る前に、大海人皇子を討たねばならない。
微かに震える指先は、武者震いか恐れか、不比等には分からなかった。
