異国来寇録 ― 明帝国遠征と戦国群雄(42)
濁流が明軍を飲み込む①
厚東川の川面は、逃げ込む兵のどす黒い影を映して揺れていた。橋は幅が狭く、欄干も貧弱だ。先に渡り切ろうと将校らが馬を蹴り、槍で兵をどかせ、罵声と悲鳴が渦を巻く。李文忠は歯を食いしばり、張承業に命じた。
「先に渡れ。旗を守れ。後続を急がせよ」
張はうなずき、旗持ちと近習を引き連れて橋頭へ殺到した。兵の肩を槍尻で払いのけ、馬の胸で押し、己が義務をわきまえつつも、胸中では焦燥と羞恥が入り交じる。――将が先に渡るのか。だが、将が渡らねば誰が陣を立て直す。理の声が情をかき消し、蹄鉄は板橋を鳴らした。
橋の下では川を直接渡ろうとする者が靴と甲冑を投げ捨て、泥に膝を取られながら飛び込んでいく。冷水が肺を刺し、悲鳴が泡に呑まれ、盾を捨てる手は藁にもすがるように岸の草を掴んだ。背後からはなお鉄砲の連続する破裂音。耳の奥で火が鳴り続け、誰もが己の鼓動と区別がつかなくなっていた。
李文忠の脳裏には、たったいま目にした三段撃ちの光景が灼き付いて離れない。六千丁を三段に割り、絶え間なく撃ち継ぐ――理屈は分かる。だが、それが人の心をここまで砕くとは。新時代の幕開けの戦いに人はこうも心を打ち砕かれるものなのか。
彼は馬の腹を蹴り、どうにか橋の中ほどまで進んだ。欄干越しに下を見やると、渦。渦の中に、部下の顔。名を呼ぼうとしても、声が喉に貼り付いて出てこない。
「退け、退け! われ先に渡れ!」
誰が叫んだのか分からぬ声に、群衆はさらに橋へと押し寄せた。木板がきしみ、一本、二本と釘が飛ぶ。橋の手前では互いに肩を押し、背を掴み、髻を引きちぎってなお前へ進もうとする。背後からは新手の弾丸が土煙を弾き、逃げ遅れた者の足を砕き、転べば踏み砕かれた。
その時、川上から低い地鳴りが忍び寄った。最初は誰も気づかなかった。風かと思った。だが、地鳴りは次第に大きさを増し、空気そのものが震えはじめる。遠目に霞む土手の向こうで、黒い帯が蠢いた。
「水だ――堰を切ったぞ!」
叫びが一気に広がった。次の瞬間、厚東川は牙を剥いた。堰を断たれた濁流が、山の土と倒木を巻き込みながら怒涛となって迫り、川面の形を一息に変えた。
まず、浅瀬に足を取られていた小隊が塊ごと呑まれた。頭上高く掲げた槍の穂先が、泡にのみ込まれぬ最後の意地のように一瞬だけ光り、それから折れた。泳げぬ者が甲冑の重みのまま沈み、泳げる者も竜のごとき渦に肩を捕まれ、岸を目の前にして逆巻く茶色の壁へ引き戻された。叫びは、水の唸りと砕ける木材の音に掻き消え、口を開けば泥が喉に満ちた。
橋も抗えない。濁流は橋脚にまとわりつき、たゆたう丸太と折れ枝をぶつけ、やがて一本が裂けた。板が浮き、乗っていた兵と馬が、まるで大地の引き算のように足許を失い、川へと落ちていく。李文忠は馬を引き返し、欄干を掴んだ。間一髪、近侍二人が彼の肩を引き、落橋する瞬間に橋頭の固い地へと身を投げた。後ろで張承業が振り返った。
「将軍!」
返事の代わりに、李は咳き込み、泥を吐いた。眼前で旗持ちが濁流に攫われていく。旗布が水を吸い、重さに沈み、竿だけが最後に水面を叩いて消えた。
川を渡れなかった兵が、岸へ群れて押し返された。そこへ織田の追撃がかかる。火縄の炎がちろちろと揺れ、濡れた藁束の向こうから短い号令。土手の影から一斉に火が噴いた。逃げ惑う背中へ、矢は降るより速く、鉛が刺さるより冷たく。明兵は盾を棄て、槍を棄て、両手を広げて命乞いの形のまま倒れた。止めを刺すのは槍だ。火は列を崩し、槍が肉を確かめる。織田の足軽は足並みを崩さず、声を荒げず、ただ機械のように進んでは刺し、引いては踏み、斬ってはまた踏み出した。
「もう駄目だ、退け、退け!」
群れのどこかで張承業が声を張る。もはや誰の命令も意味を持たなかったが、その声は破れ太鼓のように乾いて遠くまで届いた。生き残った者は、もはや隊を意識しない。自分の足、自分の肺、自分の鼓動。その三つだけが世界の全てだ。左手に藪がある。藪を抜ければ谷道だ。谷道を辿れば小野田。小野田に陣。陣に辿り着けば、まだ何かが立て直せる。理屈ではなく、ただ名だけが彼らを引いた。
退却という言葉は整然を含む。だが、そこに整然はなかった。兵は互いに名を呼ぶこともせず、名を呼ぶ喉が泥で塞がれていた。焦げた木の匂いと、硝煙と、血の金臭が、秋の湿りと混ざり合い、山の陰にそっと蓄えられていた静けさを汚した。丘陵のカーブを曲がるたび、誰かが転げ、背に誰かが倒れ、その二人を別の誰かが踏み台にして飛び越えた。泣き声はなかった。泣くという行為が、この速度には間に合わない。
織田の追手は深追いをしなかった。斬れるところを斬り、背中を見失うところまで追って、引き返す。追い過ぎればこちらが罠に落ちる。それを知る者たちの動きは、驚くほど節度を保っている。彼ら自身、新しい戦い方の威力に驚いていた。
「もう時代は個人の勇を誇るだけでは追い付かなくなっているな。鉄砲の集団戦法でここまで崩れるのか」
若い頭目が小さく呟くと、古参の足軽が短く頷いた。
「人は止まらん音に勝てません。止まらん音は、止めようのない未来に似てます」
言い終えると、古参は黙って火縄の火を爪先で叩き落とし、灰を払った。
