短編小説『くべる炭は恋熱のように』
シロップを空気に溶かしたかのような香り。薄暗い照明。ゆったりと流れるジャズ。
私のアルバイト先は、陽が落ちるとともに火が灯る。
「お疲れ様です」
「お、チーフじゃん。おつかれ」
2つ歳上の先輩が、すれ違いながらシーシャを卓に運ぶ。銀色のチェーンピアスが店内の薄暗い照明に照らされ、きらりと光る。
更衣室で支給されたシンプルな制服に袖を通し、風で崩れた前髪を整えていると、緩い振動が右ポケットから伝わる。ロック画面に表示されたメッセージアプリのプレビューをちらりと見ると、陽に焼けた顔でこちらにピースを向ける青年のアイコンと目が合った。
雄馬だ。
『ごめん、別れよ』
ごめん。別れよ。
たった二語。されど、詳細を一切省いたそれらが、鋭い刃物となって私の詮索を阻む。有無を言わさず、交渉の余地なんてないと、言外に告げてくる。
返信するのも億劫になり、私はスマートフォンを閉じた。
雄馬とは半年ほど前、大学の講義で話しかけられたことがきっかけで付き合った。なんとなく意気投合し、なんとなく遊びに行き、気づいた時には告白されていた。
気持ちを伝えられたとき、私はすぐに了承した。
隣にいて居心地がよかったし、なによりも、なんだかこのまま手放すのは惜しい気がしたのだ。
それから半年、私たちはそれなりにうまくやっていたと思う。大きな喧嘩もなく、プライベートに踏み込んだ話はそれとなく避け、「大学生カップル」という役割を完璧にこなしていた。
多分、お互いがお互いのことをあまり知らなかったことが功を奏したのだろう。解像度を上げれば上げるほど、鏡についた指紋みたいに醜い部分がはっきりと主張し始めるから、私たちの関係性はそういう意味では、極めて健全なものだったと言えるだろう。
だからだろうか。溝が生まれるのも時間の問題だった。
サークルの飲み会が増えた。
スマホを見せてくれなくなった。
メッセージの返信が淡白になった。
部屋に行くと、私のものではない、黒くて長い髪の毛を見つけることが増えた。
でも、そんな雄馬に対して私は怒りを抱かなかった。赤々と燃えるはずの感情は、湿った炭のように、どれだけ熱を注ごうとしても火の手を上げる気配すらなかった。
「なんで怒らないの」
平坦なトーンで放たれたそれは、疑問ではなかった。
「私も悪かったから」
「どの辺が?」
間髪入れずに、責めるような口調で返される言葉に、私は何も言えなかった。
「悪いのは俺なのに、なんでちーちゃんは怒らないの?」
本音は言えなかった。
それができるほど私は強くなかったし、それはつまりそれを口に出して言えるほど、私は雄馬に心を許していなかったということだ。
「ちーちゃんってさ、俺のこと好き?」
「好きだよ」
自分でもびっくりするくらい、放たれた言葉には厚みがなかった。
雄馬は違うよ、と首を振りながら自嘲気味に笑った。
「ちーちゃんは、きっと隣に置ける存在であれば誰でもいいんだよ」
有無を言わさず、断定するようなトーンで放たれたその言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。
それが私たちが最後に交わした会話だった。
『堀北』と書かれた自分のロッカーを閉じ、かけられた時計が22時を指していることを確認すると同時に、ベルの音に呼ばれる。
最奥の卓に向かいながら、店内をざっと見渡す。
手前には仕事帰りと思しき男女4人組に、一人でマックブックを開く経営者風の男。その奥で笑いながら身を寄せているのは大学生のカップルだろうか。そして私を待つ卓には、胸元が大きく開いた服を着た華やかな女と、でっぷりと肥えた男が座っていた。
性別も職業も異なる彼らは、それでもこの空間では同じ煙に安らぎを求める。
常に前へと走り続ける日常という列車からほんの数時間だけ下車し、次の発車までの束の間の休息を得ようとする。
そんな泡沫の夢のような空間に身を委ねながら、みんな甘い煙に溺れていくんだ。
マニュアル通り、片膝をついて要望を聞く。
「これ、味薄いんだけど。濃くしてもらえる?」
ソファに座りながら足を組んだ男が、はい、とホースを渡してくる。肉付きの良い指に握られたシーシャは、枝のように折れそうに見えた。
「かしこまりました」
体に染みついた完璧な営業スマイルを浮かべながら、ホースを受け取る。首からぶら下げたマウスピースをホースに差し込み、炭の位置を細かく調整していく。フレーバーを焦がさないようにしながら、甘さが舌の上で象られる感覚を探る。
調整してホースを返すと、男は数度煙を吸い込み、しかめっ面をしながら私を睨んできた。
「あのさぁ。僕が味分からないと思ってバカにしてるよね? 味を濃くしろって意味、理解できないかな? 炭の位置変えるだけでいいわけないじゃん。ちゃんとカルダモンが香りたつように調整しなよ」
「大変申し訳ございません。すぐに新しいものをお持ちします」
これ以上いると態度や容姿まで罵倒が飛び火しそうだったので、私はそそくさとシーシャを持ち上げて奥に引っ込んだ。
「大丈夫だった? 結構大変なお客さんみたいだったけど」
一部始終を見ていた先輩が心配そうに声をかけてくれる。
「問題ないです。ああいうのは慣れっこですから」
「チーフがそう言うならいいけど…… なんかあったら相談しなよ? チーフは女の子なんだから」
そう言って先輩はボウルを私から取ると、俺が作るよ、と言って慣れた手つきで調合し始めた。
「ありがとうございます」
「良い先輩は、後輩のメンタルケアもばっちりこなすからね」
ニカっと笑う先輩の八重歯が覗き、わずかに部屋の気温が上がった気がした。
「ーー今日は、もっと夏美ちゃんと一緒にいたいな」
ゆっくりと太ももを這う手をさりげなく押し除けて、『夏美ちゃん』は純粋な笑みを浮かべる。
「えー、三木さん。それどういう意味ですかぁ〜?」
「ほら。最近、夏美ちゃんへの支援も増えてたでしょ? あ、もちろんお母様のことは夏美ちゃんのせいじゃないから、仕方ないんだけどさ。僕も毎月の出費が、ね。夏美ちゃんからなにかご褒美があるともっと頑張れる気がするなぁ、なんて」
遠回しに要求をぶつけている罪悪感があるのか、三木さんは最後の方は早口で捲し立てるように言った。
ため息が出るのを、すんでのところで抑える。
慢性的な関係は緩みを生みやすい。だから、ほどけた靴紐を結び直すみたいに、定期的にこちらから締め直す必要がある。
すっかり染みついた『夏美ちゃん』の表情筋を一つ一つ、順に動かす。
目尻を下げ、ついさっき紅を引き直した唇を震わす。涙は最前列で待機していたかのように、自然に出てきた。
「ひ、ひどい! 三木さんはそんなこと言わないと思ってたのに……! わ、私はただ……ママのこと、助けたいって…っ。でも、お金が……どうしても、足りなくて……。三木さんが……、三木さんだけが……っ」
遠慮がちに、でもしっかりと「加害者」のレッテルを三木さんに貼り直す。
「ごめんごめん! 泣かせるつもりじゃなかったんだ。夏美ちゃんがこんな時に、僕はなんてひどい人なんだ」
そう言って、三木さんは涙で濡れた『夏美ちゃん』の顔を持ち上げて、ゆっくりと語りかける。
さっきまで食べていたオマール海老の香りが口臭とともにわずかに漂うが、三木さんのことが大好きな『夏美ちゃん』は動じない。
「聞いて。僕はどんなときでも、絶対に夏美ちゃんの味方だよ。こんな形で助けることしかできないけど、夏美ちゃんが困った時はいつでも僕を頼っていいんだよ。大丈夫、体を安売りしてなんて言わない。ゆっくり、夏美ちゃんのペースで進んでいこう。これがきっと、僕たちにとっての愛の形なんだ」
「う……うん。三木さん、ありがとう……っ」
「僕に任せて。はい、今回の分。お母さんのために使ってあげて」
30万あるから、と言いながら三木さんがお札を取り出した財布からほんの一瞬、赤いランドセルを背負い、カメラに向かって満面の笑みを浮かべる小さな女の子の写真が顔をのぞかせた。
とっさに目を逸らす。
「ありがとう、三木さん……!」
口をついて出た言葉はやけに大きかった。
私は赤いランドセルを頭から取り払うべく、三木さんの腕に抱きついた。
腕から伝わる柔らかさに、三木さんの鼻の穴がわずかに膨らむ。私の顔に向けられていた視線が、ボタンを2つ開けたシャツの奥へと忍びこむのを感じた。
これは長期的な仕事だ。
「いつかモノにできる」と幻想を抱かせることも、継続的な援助には大事だ。
そんな未来は、永遠にこないというのに。
どさりと荷物をベッドに投げ捨て、茶封筒を開ける。三木さんの言葉に嘘はなく、中には30枚の紙幣が入っていた。
平均的なサラリーマンの月収をわずか数時間で稼いだのにも関わらず、私の心を満たしていたのは達成感とは程遠いなにかだった。それは濡れた絨毯のように全身に重くのしかかりながら、ゆっくりと私の体の自由を奪っていった。
三木さんは、もうダメだろうな。
一度でも不満を口にすると、その思考は自身の中で際限なく膨らんでいく。例え彼のように『夏美ちゃん』を溺愛していたとしても、出費が実生活に食い込んでくれば、話は変わる。
金で愛は買えるが、金で買った愛は金でしか続かないのだ。
そもそもにして、このビジネスは嗜好品だ。店頭に並ぶショートケーキのように、財布が潤っている間は鮮やかな色合いと甘い香りで人々を魅了するが、余裕がなくなると最初から存在していなかったかのように、いとも簡単に切り捨てられる。
だからこそ、私のような「商品」側は、常にリスクを鑑みた行動をとらなければいけない。
それは例えば、母親が重病を患ってしまった大学生の『夏美ちゃん』という偽りの姿をアピールすることだったり、期限が近いパトロンを早めにリリースすることだったりする。
スマートフォンのトーク履歴から次のパトロンを探していると、昨日から無視している雄馬のメッセージが目に留まった。
『ごめん、別れよ』
トークを開くと同時に、タイムカプセルを開けるかのごとく、想いが溢れ出てきた。
お互いがどれだけ時間を過ごしていようと、トークの中の自分たちは少しも進みはしない。その時の感情を包んで、次に開く時まで同じ状態で、世界から隔絶される。
それはつまり、雄馬は決断のメッセージを送ったまま時間を止められたことを意味していて、なんだか申し訳なかった。
『わかった』
短い一言だけ送り、雄馬の時間を動かしてから、私はトークを削除した。
雄馬がなぜ別れる決断をしたのか、私には分からない。
きっとそこには彼なりの理由や物語があるのだろう。でも、私はそれを詮索しようとは思わないし、私の物語を押し付けようとも思わない。
三木さんが好きな紺色のブラウスを脱ぎながら、服やら鞄やらで散らかった部屋を横切り、洗面所へと向かう。不相応に高い服も、必要以上に所持している鞄も、築40年の木造アパートにはひどくミスマッチで、その輝きで私に居心地の悪さを訴えかけているようだった。
商品である私は、常に値踏みされている。
隣を歩いても見劣りしないか。同年代の女性と比べて美しいか。
パトロンたちは無意識のうちにそんな審査を行い、その一つでも不通過になると容赦なく捨てられる。
いちごが乗っていないショートケーキなど、誰も手に取らないからだ。
だから店の後ろ盾がない、一匹狼の私はその審査を勝ち抜く必要がある。
そのために最新のコスメやトレンドの服をいち早く取り入れ、あざとく、それでいて主張しすぎない程度に自分を着飾る。
そしてその審査を勝ち抜いて得た報酬で、私は初めて生きる権利を与えられる。月5万円の木造アパートと、日々の食事にありつける。
ちらりとテーブルの上、三木さんからの茶封筒の横に置かれた『至急開封』と文字がプリントされた白い封筒を見る。
ーーもっとも、私を産んだあの人が残した借金を返済し終えるまで、本当の意味での権利など得られはしないのだが。
この部屋はいつも私に、自分の価値を正しく突きつけてくる。
自分を着飾るものが一つ、また一つと増えるたび、それを嘲笑うように白い封筒がポストから出てくる。そこに載ったいくつもの0が「お前は囚われている」と言い放ってくるようだった。
まるで鳥籠に囚われた小鳥のようだ。
束の間の飛行は結局のところ、囲われた檻にぶつかるまでの自由でしかないのだから。
浴室に入り、水がお湯に変わると、私は待ち侘びたようにその下に潜り込んだ。
全身を伝う熱いお湯が、太ももに残った三木さんの熱とともに、偽りの私を洗い流していく。
泡とともに、排水溝を伝って流れていく。
でも、誰もそんなことは気づかない。排水口へ流れたお湯が、その先で水に戻ることなんて考えないみたいに、こうやって毎日、私が脱皮を繰り返していることは誰の目にも留まらない。
ーー雄馬なら、気にしただろうか。
浮かび上がった疑問を水滴とともに拭き取り、浴室を出る。
蛍光灯にありありと映し出された目の前の鏡には、着飾った『夏美ちゃん』の姿は影も形もなく、ただの『堀北千冬』が立っていた。メイクも衣服も剥ぎ取られ、髪がぺったりと額に張り付いた自分の姿を見て、思わず乾いた笑いが漏れる。
ほら、三木さん。よく見て。
あんなに必死になって求めていた『夏美ちゃん』は、たった15分お湯を浴びただけでこんなに醜く、生臭いモノになったんだよ。
皮肉だよね。汚れだけを落とすはずが、私を構成していた「綺麗な」要素まで一緒に、綺麗さっぱり洗い落としてしまうんだから。
そうして残った、皮と骨だけで型取られたモノ。あなたはそのどこに、美しさを見出すんだろう。少し震える指で渡してくれた30万円という大金は、私のどこに向けて払われていたんだろう。
私のどこにも、そんな価値などありはしないのに。
「チーフ、2卓さんの炭替え、よろしく」
「了解です」
先輩は普段からおちゃらけているが、こういう些細なことは絶対に見逃さない。お客さんの異常を最初に察知するのも先輩だし、炭替えに気づくタイミングも早い。
多分、先輩は無意識に人に自分を憑依させているんだと思う。それぞれの立場に立って考え、最適解を導き出すのが上手なんだ。
「失礼いたします。炭、替えさせていただきますね」
「ああ、ありがとうございます…………っ!」
若いカップルの男が私に目を向け、固まる。ブラウンのオックスフォードシャツに白いスラックスをあわせた、少し背が高い男だ。
ーー誕生日に私がプレゼントしたリングを、その指につけて。
「ちー……ちゃん」
驚きとも恐怖とも取れる雄馬の表情を見ないようにしながら、私は無言で炭を取り替えた。
空気の変化を感じたのか、女が不思議そうに私たちを見る。
「なに、お二人はお知り合いなんですか?」
「あ、いや。この人は…」
適当に嘘をつけばいいものを、雄馬はこういうところで変に真面目だ。
「そういえば雄馬くんには、ここでバイトしてるって言ってなかったね。初めまして、堀北千冬です。雄馬くんとは去年、同じ授業を取っていただけなので、彼女さんが思うようなやましい関係じゃないですよ」
言葉は意識せずともスラスラと出てきた。
いたずらっぽい笑みを浮かべながら、「だけ」を強めに言うことを忘れずに。
私の言葉がお気に召したのか、女は恥ずかしそうに「そっかぁ、彼女かぁ」と気の抜けたように言った。
「えへへ、まだ実感沸かないなぁ。私、雄馬先輩のことずっと猛アタックしてて、先月ようやく付き合えたんですよ」
大仰な動作で雄馬の腕にくっつきながら言う彼女の、胸元まで伸びる黒髪がさらりと揺れた。
店内の鈍い灯りの中でも柔らかな艶を宿す、よく手入れされた黒髪だ。
私の癖がある茶髪とは違い、まっすぐと伸びた黒髪だ。
最近雄馬の部屋で見ることが多くなった、長い黒髪だ。
「私、東京の出身じゃないんです。だから、大学に知り合いとかも全然いなくて。そんな時に、雄馬先輩だけは優しくしてくれたんです」
ぼんやりと髪を眺める私などお構いなしに、彼女は続けた。
「運命だなって思いました。だって雄馬先輩だけは、見返りを求めなかったから。優しさにかこつけて連絡先を聞こうとしたり、ご飯に誘ったりもしなかったから。ああ、この人は付き合ったら絶対彼女だけを愛してくれる、一途な人なんだって分かっちゃったんです。だから、そんな人と付き合えた私は、一番幸せな女の子なんだろうなって」
ちらりと雄馬を見ると、彼ははっきりと分かるくらいに顔が青ざめ、目だけで必死に「やめてくれ」と訴えていた。
言ってしまおうか。
ふと、そう思う。
いや、言うべきなんだろう。ここは「元彼女」として声高らかに彼氏を糾弾し、せめてもの腹いせに修羅場を作るべきなんだろう。
でも、私にはもはや、それをするだけの熱すら残っていなかった。
炭を替え終え、席を立つ。控え室に戻ろうとする私を、雄馬は追いかけてきた。
「ちーちゃん、俺……」
「いいよ、何も言わなくて。バイト先を言ってなかったのは、私が悪かったし」
「このこと、あの子には……」
思わず鼻で笑いそうになる。
こんな状況でも、自分の保身が優先か。
「大丈夫、店で修羅場を作りたいわけじゃないし。言わないよ。私にはもう、関係ないしね」
「ごめん」
「別に謝ってほしいわけじゃないから。私、仕事あるから戻っていい?」
「うん。ほんとにごめん。それと半年間、ありがとう」
雄馬の声を背に、私はのれんをくぐった。
「大丈夫?」
「わ、先輩。聞いてたんですか」
「聞き耳立てるつもりはなかったんだけどね」
申し訳なさそうに頭を掻きながら、先輩は言った。
「あれって彼氏?」
「元、ですけど。昨日別れたばかりです」
「彼女と別れた次の日に、別の女の子とシーシャか。ずいぶんと良いご身分だね」
よかった。席での会話は聞かれてない。
「あそこにいるの、彼に想いを寄せてる後輩なんです。同じサークルだったから、私も面識があって。私たちが別れたって聞いて、チャンスだと思ったんじゃないですかね?」
まただ。考えるより先に、私の口は勝手に物語を作り始める。
先輩はしばらく考え込んだあと、あの卓は俺が対応するよ、と言った。
「チーフ、辛くないの?」
「何がですか?」
「何がって……付き合ってた彼氏が、別れた次の日に後輩の女の子と一緒にいるんだよ?普通、もっと取り乱すと思うんだけど」
確かに、先輩の言う通りだ。今の私は、私を客観視できすぎている。映画のワンシーンを劇場から眺めているようで、妙に現実味がない。
「確かに複雑な気持ちはあります。ですが、彼が別れたあとにどうしようが、私には関係ないですし、興味もありません」
「なるほど。さっぱりしてるね、ほんと」
そう言いながら、先輩はシーシャに炭をくべた。
「俺だったら、元カノが次の日に別の男といたら、多分みっともないくらい怒っちゃうなぁ」
「人それぞれですよ」
「確かに、それもそうだね」
少しばかり間が落ちた。先輩が炭を追加する。
「チーフってさ、切っても困らないものしか人に渡してないよね」
ぽつりと先輩の口からこぼれた言葉に、部屋の温度がわずかに上がる。
「だから、失っても痛くないんじゃない?」
ぽつり、ぽつりと、先輩の口から言葉が漏れ出てくる。先輩は炭をくべるのをやめない。
少しずつ部屋の温度は上がっていく。
「俺が『チーフ』って呼び始めた時だってそう。チーフは理由も聞かないで、当然のように受け入れてた」
「それは、先輩が勝手にーー」
「そう。確かに俺は勝手に呼び始めた。『千冬』と『チーフ』の響きが似てる、なんていう些細な理由でね。でもそんなこと、チーフにとってはどうでもよかったんじゃない?」
部屋の気温がどんどん上がっていく。
先輩はもう、炭をくべていないのに。
「チーフにとっては、自分の名前すら失っても痛くないんだね」
『夏美ちゃん』と呼ぶ三木さん。『ちーちゃん』と呼ぶ雄馬。
ちりちりと、火傷するような痛みが胸の内で発芽する。
この痛みはなんだろう。
「ねぇ、千冬。『堀北千冬』は、本当に失ったままでいいの?」
芽吹いた熱が一気に膨らみ、爆発する錯覚を覚えた。
自身の内側から生じた衝撃に一瞬、息が止まる。
千冬と、そう呼んだ。いつものように「チーフ」ではなく、「千冬」と、先輩は確かにそう呼んだんだ。
だが、私が衝撃を覚えたのは、先輩が呼んだ事実そのものではなかった。
いやだ、と反射的に思った。失いたくない、と思った。
呼んでほしい、とそう思ってしまった。
「……そっか」
掠れた声を出す私に、先輩は小首をかしげる。だが、そんなことは気にならなかった。
身体の中心で爆発した火がゆっくりと血管を通って、全身のいたるところで燃え始めたみたいに、私は次第に熱を帯びていった。
そうか。簡単なことだったんだ。
私は『夏美ちゃん』や『ちーちゃん』に守ってもらいたかったんだ。彼女たちは、お湯を浴びるだけで姿を現してしまう生臭い『堀北千冬』という存在を隠してくれる、分不相応な服や最新のコスメと同じ分厚い殻だったんだ。
そして今、先輩がそれを壊した。私が自分を守るために必死に作り上げてきた殻を目の前ではぎ取り、私を脱皮させた。
醜い、生臭い私を見た先輩はどう思ったんだろう。
幻滅しただろうか。期待はずれだ、とがっかりしただろうか。
あるいは。
