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ひとりごとが育ってしまって。

ひとりごと、が消えたわけじゃない。
ただ、宙に向かって放ったはずの小さな声を、いまは必ず受け取る人がいて。
しかもその人は、世界でいちばんまっすぐな目で、「それってなあに」と聞いてくる。

3歳の娘がおしゃべりするようになってから、私はめっきり、ひとりごとを言わなくなった気がする。

前はもっと、言葉をひとりで使っていた。
台所で鍋のふたを開けながら「よいしょ」と言ったり、時計を見て「もうこんな時間か」とつぶやいたり、洗濯物の山を前にして「ふう」と息をもらしたり。
そういう、誰に聞かせるでもない声。
返事を求めるでもなく、意味を説明するでもなく、ただ自分のためだけに口からこぼれる言葉。

ひとりごと、というのは、暮らしのなかの深呼吸みたいなものだった。
声にすることで、気持ちを少し外に出して、また自分のなかに戻していく。
誰にも拾われないからこそ、気楽にこぼせる言葉があった。

けれど今は、そうはいかない。

「今日はあったかいねえ」と言えば、
「なんであったかいの?」と返ってくる。

「お茶さめちゃった」と言えば、
「なんでさめちゃったの?」と聞かれる。

「もう夕方かあ」とこぼせば、
「ゆうがたってなに?」と、すぐに小さな声が飛んでくる。

たとえこちらは、独り言のつもりでも。
その声は、きちんと娘の耳に届いてしまう。
そして届いた以上、見過ごされない。
娘は、私の言葉のしっぽをつかまえるのが、とても上手で。

「それってなあに」
「なんで?」
「だれにいったの?」

そのたびに私は、ついさっきまで“説明するほどでもない”と思っていた言葉を、もう一度ひろいなおすことになる。

自分のためにこぼしただけの「困ったな」は、何に困っているのかを言い直さなければならなくなるし、
なんとなく口をついた「きれいだね」は、何がどうきれいなのかを見つめ直すことになる。

そうして言葉は、ひとりのものではなくなっていく。

少し前まで、ひとりごとはもっと自由だった。
疲れたときのため息も、失敗したあとの苦笑いも、誰にも聞かれない前提で、雑に外へ出してよかった。
けれど母になって、娘が言葉を覚えて、おしゃべりになって、今の私は、自分の声をひとりだけのものとして使えなくなった。

それは少しだけ、不便で。
頭の中を整理するために放った言葉に、「なんで?」が飛んでくると、思考は見事に途切れる。
大人の“ちょっとひと息”なんて、子どもの好奇心の前ではあっけなくほどけてしまう。

でも同時に、それは少しだけ、うれしい。

私が何気なくこぼした一言を、娘はちゃんと聞いている。
しかも、真正面から受け止めてくれる。
適当に流したり、聞こえないふりをしたりしないで、その言葉を両手で受け取るみたいに、「それってどういうこと?」と尋ねてくる。

そんなふうにして娘は、私のひとりごとを、会話に変えていく。

そしてたぶん、会話に変えられるたびに、私は自分の心の輪郭を少しずつ知っていくのだ。

ああ、私、いま疲れていたんだな。
あ、これ、思っていたよりうれしかったんだな。
きれいだね、って言ったのは、ほんとうにきれいだったからだな。

娘に聞き返されなければ、そのまま流れていたかもしれない気持ちがある。
娘にひろわれることで、ようやく言葉になる感情がある。

ひとりごとが減った、というより。
ひとりごとが、育ってしまったのかもしれない。

宙に向かって放ったはずの声が、
小さな耳に届いて、
小さな問いにほどかれて、
気がつけば、ふたりのあいだを行き来する言葉になっている。

それはもう、静かな独白ではない。
けれどその代わりに、暮らしのなかに、やわらかな往復が生まれた。

今日も私は、きっとまた何気なく言う。
「あ、なくなっちゃった」
「今日は風つよいなあ」
「よし、これでいいか」

するとすぐ隣で、あのまっすぐな目がこちらを向く。

「なにがなくなっちゃったの?」
「なんでかぜつよいの?」
「これでいいの?」

もう、ひとりごとはひとりごとで終わらない。
でもたぶん、今の私にはそれがいい。

自分のなかだけで完結していた言葉が、
娘に届いて、
娘にひらかれて、
もう一度、あたたかいものとして戻ってくる。

ひとりごと、が消えたわけじゃない。
ただその行き先が、少し変わっただけだ。

宙ではなく、
いまは、すぐそばにいる小さな誰かへ。


喜木 拝


#シロクマ文芸部

お題で綴りました。ひとりごと、減ったなぁと思いつきました。ここまでお読みいただき、ありがとうございます💖

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