読書量ではなく、読書距離で見る——「読めない人」のために図書館ができること
図書館には、本をたくさん読む人が来る。
予約した本を何冊も抱えて帰る人。
返却したその足で、また次の本を探す人。
棚の場所をよく知っていて、迷わず目的の分類へ向かう人。
新刊コーナーを見て、好きな作家の名前を見つけ、嬉しそうに本を手に取る人。
そういう人たちにとって、図書館は日々の読書を支える場所だ。
暮らしのなかに当たり前のようにあり、読む楽しみを絶やさないための場所。
でも、図書館に来るのは、そういう人だけではない。
久しぶりに本を借りる人がいる。
子どもに絵本を読んであげたいけれど、何を選べばいいのか分からない人がいる。
本を読みたい気持ちはあるのに、棚の前で立ち止まったまま動けなくなる人もいる。
私は図書館で働いている。
そしてかつて、本が好きだったのに、本を読めなくなったことがある。
だから私は、図書館の利用者を「どれだけ本を読むか」だけで見ないようになった。
大切なのは、読書量だけではない。
その人がいま、本とどれくらいの距離にいるのか。
私はそれを、「読書距離」と呼んでみたい。
読書距離とは、読んだ冊数のことではない。
本が好きか嫌いか、読書家かそうでないか、という単純な分類でもない。
本に近づきたい気持ちはあるのか。
選ぶための余力はあるのか。
読むための集中力は残っているのか。
一冊を読み切る自信はあるのか。
誰かに聞いてもいいと思える安心感はあるのか。
そうした、本と人とのあいだにある距離のことだ。
図書館は、本が好きな人のためだけにあるのではない。
本から離れていた人が、もう一度言葉に近づくためにもある。
では、「読めない人」のために、図書館は何ができるのだろうか。
第1章 読書量ではなく、「読書距離」で利用者を見る
図書館にいると、「よく読む人」は見えやすい。
何冊も本を借りていく人。
予約本の受け取りに何度も来る人。
自分の好きなジャンルがはっきりしている人。
検索機を使いこなし、棚の並びも分かっていて、目的の本にまっすぐ向かえる人。
そういう利用者は、図書館を継続的に使ってくれる大切な存在だ。
その人たちの読書習慣を支えることは、図書館の大きな役割である。
けれど、利用者を「読書量」だけで見てしまうと、見えにくくなる人たちがいる。
たとえば、久しぶりに図書館へ来た人。
子どもの頃は図書館が好きだったけれど、大人になってから足が遠のいていた人。
仕事や子育てや介護に追われ、本を読む時間を失っていた人。
引っ越しをきっかけに、近くの図書館をのぞいてみた人。
何年ぶりかで利用カードを作り直す人。
その人は、本が嫌いになったわけではないかもしれない。
ただ、本と離れていた時間が長かっただけかもしれない。
図書館の使い方を忘れている。
どこに何があるのか分からない。
検索機の前に立っても、何を入力すればいいのか分からない。
カウンターで聞いてもいいのか迷っている。
その人の読書量は、いまは多くないかもしれない。
でも、読書距離は、少しずつ縮められるかもしれない。
また、子どもに絵本を読んであげたい人もいる。
親になったからといって、急に絵本に詳しくなるわけではない。
「何歳にはどんな絵本がいいのだろう」
「同じ本ばかり読みたがるけれど、それでいいのだろうか」
「読み聞かせは、うまく読まなければいけないのだろうか」
そんな不安を抱えたまま、児童書の棚の前に立つ人もいる。
その人は、自分のために本を探しているのではない。
けれど、本との関わりを必要としている。
さらに、何を読めばいいのか分からない人がいる。
本を読みたい気持ちはある。
でも、どの棚へ行けばいいのか分からない。
小説を読みたいのか、エッセイを読みたいのか、実用書を読みたいのか、自分でも分からない。
背表紙の多さに圧倒されて、結局何も手に取れない。
この人は、本を拒んでいるわけではない。
むしろ、図書館に来ている時点で、本に近づこうとしている。
けれど、入口が見つからない。
図書館に必要なのは、この「入口が見つからない人」を見る視点ではないかと思う。
読書量で見れば、その人は「読んでいない人」かもしれない。
でも読書距離で見れば、その人は「本に戻ろうとしている人」かもしれない。
この違いは大きい。
「読まない人」と見れば、そこで終わってしまう。
けれど、「いま本と距離がある人」と見れば、その距離を縮めるために何ができるかを考えられる。
私は、返却された本の棚を見るのが好きだ。
返却本の棚には、その日、その地域で、実際に誰かが読んでいた本が並ぶ。
新刊コーナーとも、分類通りの棚とも少し違う。
そこには、利用者の暮らしの気配がある。
そして返却本の棚は、少しだけ季節を先取りしている。
まだ外は暑いのに、秋の行事の本が戻ってくる。
夏休みが始まる前に、自由研究や読書感想文の本が動き出す。
クリスマスが近づく少し前から、絵本の棚に赤や緑の気配が増えていく。
図書館の棚は、ただ本が置かれている場所ではない。
人が何に興味を持ち、何を準備し、何に困り、何を楽しみにしているのかが、静かにあらわれる場所でもある。
返却本の棚を見ると、私はいつも思う。
読書は、冊数だけでは測れない。
一冊を何度も借りる人がいる。
子どものために季節の本を探す人がいる。
今の暮らしに必要な本を手に取る人がいる。
偶然返却棚で見つけた本から、次の読書へ進む人がいる。
そこにあるのは、読書量ではなく、読書距離の変化だ。
図書館の仕事は、本をたくさん読む人だけを支えることではない。
本と人との距離を見て、その人に合った近づき方を用意することでもある。
第2章 「本を読めない人」は、図書館の外にだけいるわけではない
私は昔から、本が好きだった。
子どもの頃から物語が好きで、図書館も書店も好きだった。
本を開けば、自分の知らない世界に行けた。
誰にも言えなかった気持ちに、物語のなかで出会うことができた。
言葉は、私にとって避難場所のようなものでもあった。
けれど、ある時期、本が読めなくなった。
本を開いても、文字が頭に入ってこない。
一文を読んでも、次の一文に進むころには前の内容が抜け落ちている。
ページをめくっているのに、物語のなかへ入っていけない。
好きだったはずの本が、急に遠いものになってしまった。
本が好きなのに、読めない。
それは、思っていた以上に苦しいことだった。
読書は、ただ文字を目で追うだけの行為ではない。
集中力がいる。
記憶力がいる。
想像力がいる。
前の文を覚えながら、次の文へ進む力がいる。
登場人物の気持ちを追い、場面を思い浮かべ、知らない言葉に出会っても少し待つ力がいる。
そして何より、本の前に座るための心の余白がいる。
その余白がないとき、人は本を読めなくなる。
だから私は、「本を読まない人」を、単純に本が嫌いな人だとは思えない。
本を読まないのではなく、いまは読めないのかもしれない。
読みたいけれど、読む体力が残っていないのかもしれない。
何から読めば戻れるのか分からないのかもしれない。
かつて好きだった本の世界に、もう一度入る方法を探している途中なのかもしれない。
「本を読めない人」は、図書館の外にだけいるわけではない。
図書館のなかにもいる。
棚の前で、何度も本を手に取り、戻す人。
検索機の前で、文字を打たずに立ち止まっている人。
児童書コーナーで、絵本を選びながら困った顔をしている人。
カウンターに近づきかけて、やっぱりやめる人。
何も借りずに帰る人。
その人たちのなかには、読書が嫌いな人もいるかもしれない。
けれど、そうではない人もきっといる。
本に近づきたいけれど、近づき方が分からない人。
本を選びたいけれど、選ぶための言葉がまだない人。
読みたいけれど、読み切れないかもしれないことが怖い人。
かつての私も、そうだった。
本が好きだったからこそ、読めない自分を責めてしまった。
読めなくなったことを、どこか恥ずかしいことのように感じていた。
本を読める人たちのそばにいるのが、少しつらい時期もあった。
そんな私を少しずつ本の世界へ戻してくれたのは、妹が買ってきてくれた、仏像の写真集だった。
長い文章を読むことはできなかった。
けれど、写真なら眺めることができた。
一体一体の仏像の表情を見ていると、言葉を追わなくても、そこに静かな物語があるような気がした。
可愛い犬の名言集を、ただ眺めたりもした。
短い言葉と、犬の写真。
それくらいなら、疲れていても受け取ることができた。
一冊を読み切る必要はなかった。
気になったページを開いて、そこにある言葉を少しだけ心に置く。
それだけでよかった。
音楽を聴きながら、歌詞を読み込むこともあった。
小説の長い文章は無理でも、歌詞なら読めた。
メロディに支えられながら、短い言葉を何度も味わうことができた。
それは、かつて私が好きだった「読む」という行為とは少し違っていたかもしれない。
けれど確かに、言葉のそばに戻る時間だった。
仏像の写真集。
犬の名言集。
音楽の歌詞。
それが、私にとっての小さな「読書への再入口」だった。
読むことは、必ずしも小説を一冊読み切ることだけではない。
文字の多い本に戻る前に、写真を眺めることがあってもいい。
短い言葉を拾うことがあってもいい。
歌詞の一節を何度も読み返すことがあってもいい。
そうやって、私は少しずつ本の世界へ戻っていった。
だから、図書館で働くようになって思う。
読めない時期があることは、恥ずかしいことではない。
本との距離が変わることは、誰にでも起こりうる。
生活が変われば、読む時間も変わる。
心や体の状態が変われば、読める本も変わる。
年齢や役割が変われば、本に求めるものも変わる。
人と本との関係は、固定されたものではない。
だからこそ図書館は、「読める人」だけを前提にしてはいけないのだと思う。
本が好きな人にとって使いやすい場所であること。
それはもちろん大切だ。
けれど同時に、本から離れていた人が戻ってこられる場所であること。
まだ読めない人が、読めないまま立ち寄れる場所であること。
選べない人が、選べないまま迷っていてもいい場所であること。
その余白を持っているところに、図書館の価値がある。
第3章 司書の仕事は、本を探すことではなく、入口をつくること
司書の仕事というと、「本を探す仕事」というイメージがあるかもしれない。
たしかに、本を探すことは大切な仕事だ。
利用者が探している本を見つける。
タイトルが曖昧でも、記憶の断片からたどる。
調べものに必要な資料を探す。
予約や所蔵を確認する。
必要な情報へたどり着けるように手助けする。
けれど、図書館の現場で感じるのは、司書の仕事は「本を探す前」から始まっているということだ。
そもそも、利用者自身が何を探しているのか分からないことがある。
何か読みたい。
でも、何を読みたいのか分からない。
子どもに絵本を借りたい。
でも、どれを選べばいいのか分からない。
調べたいことがある。
でも、どう言葉にすればいいのか分からない。
そのとき必要なのは、正解の本を一冊だけ差し出すことではない。
まず、迷っていても大丈夫だと思えること。
聞いてもいいと思えること。
途中でやめてもいいと思えること。
自分の読書量の少なさを恥じなくていいと思えること。
つまり、入口をつくることだ。
以前、生成AIがすすめたという、架空の村上春樹作品について尋ねられたことがある。
利用者は、その本があると思って図書館に来た。
けれど調べてみると、その作品は実在しないようだった。
こうしたことは、これからますます増えていくのかもしれない。
AIがそれらしい書名や著者名を出し、利用者がそれを手がかりに図書館へ来る。
検索の入口は広がった。
でも、その情報が正しいとは限らない。
この出来事は、私にとって印象深かった。
なぜなら、そこには「間違った情報を持ってきた人」がいたのではなく、「本に近づこうとして図書館に来た人」がいたからだ。
たとえその本が存在しなかったとしても、利用者のなかには何かを読みたい気持ちがあった。
村上春樹のような世界に触れたい気持ちがあったのかもしれない。
AIとの会話のなかで、気になる一冊に出会ったと思ったのかもしれない。
そして、その本を探すために図書館へ来た。
司書の仕事は、そこで「その本はありません」と終わることではないと思う。
もちろん、正確な情報を確認することは必要だ。
実在する本なのか。
著者名は合っているのか。
似たタイトルの本はないのか。
別の作家や別の作品と混ざっていないか。
所蔵や出版情報を調べることは、図書館の基本的な仕事である。
けれど、それだけではない。
その人が何を読みたかったのか。
どんな雰囲気の本を求めていたのか。
なぜその作品に惹かれたのか。
そこを一緒にたどることで、別の入口をつくることができる。
AI時代の図書館の役割は、単に「正しい情報を持っている場所」であることだけではないのかもしれない。
それらしい情報と、確かな資料とのあいだに橋をかけること。
間違いを責めるのではなく、そこから本への道をつくること。
検索ではたどり着けなかった一冊へ、人の言葉で案内すること。
それもまた、読書への入口をつくる仕事だと思う。
入口のつくり方は、一つではない。
たとえば、展示がある。
分類番号だけでは出会えなかった本を、季節やテーマや気分で束ねる。
「雨の日に読みたい本」
「少し疲れた日にひらく本」
「親子で笑える絵本」
「眠る前に一編だけ」
「久しぶりに小説を読みたい人へ」
そんな棚があるだけで、利用者は本に近づきやすくなる。
本の紹介文も、入口になる。
内容を正確に説明することも大切だけれど、それだけでは手に取りにくい人もいる。
「どんな気持ちの日に合う本なのか」
「どんな人に届きそうな本なのか」
「長く読めないときでも開けそうか」
そんな言葉が添えられていると、本との距離は少し縮まる。
声かけも、入口になる。
ただし、声をかければいいというものではない。
図書館には、静かに過ごしたい人もいる。
一人で選びたい人もいる。
見られていると感じると、かえって棚から離れてしまう人もいる。
だからこそ、距離感が大切になる。
近づきすぎず、でも困ったときには届く場所にいる。
何かを探していそうな気配に気づく。
声をかけるときも、答えを急がせない。
「何をお探しですか」と聞くだけでなく、「ゆっくり見てくださいね」と伝えることが必要な場面もある。
司書は、本と人とのあいだに立っている。
けれど、それは本を押しつけるという意味ではない。
その人と本との距離を見て、近づき方を調整する仕事なのだと思う。
本をたくさん読む人には、さらに深く進める道を。
久しぶりに読む人には、戻ってきやすい道を。
子どもに絵本を選ぶ人には、がんばりすぎなくていい道を。
何を読めばいいのか分からない人には、まず一冊手に取ってみる道を。
読書支援とは、本をすすめることだけではない。
読む前の不安をほどくこと。
選べない状態を置き去りにしないこと。
本の前に立つまでの小さな道をつくること。
それもまた、司書の仕事なのだと思う。
第4章 図書館は「読書のリハビリ施設」にもなれる
私は、図書館は「読書のリハビリ施設」にもなれるのではないかと思っている。
もちろん、これは医療的な意味ではない。
比喩としての話だ。
本を読めなくなった人が、いきなり長編小説を一冊読み切る必要はない。
難しい本を理解しなければいけないわけでもない。
読書記録をつけなくてもいい。
感想を立派に語れなくてもいい。
年間何冊読んだかを数えなくてもいい。
ただ、棚の前を歩くだけでもいい。
表紙を眺めるだけでもいい。
絵本を一冊めくるだけでもいい。
写真集を開いて、一枚の写真を眺めるだけでもいい。
詩を一篇だけ読むのでもいい。
借りたけれど、読めないまま返してもいい。
途中で合わないと思ったら、そこで閉じてもいい。
また別の本を借りればいい。
図書館の大きな強みは、「失敗してもいい」ことだと思う。
本を買うとき、人は少し慎重になる。
お金を払うから、できれば失敗したくない。
読めなかったらもったいない。
自分に合わなかったら残念だと思う。
けれど、図書館なら試せる。
気になった本を借りてみる。
少し読んで、違うと思ったら返す。
別の本を借りる。
絵本を何冊か借りて、子どもの反応を見る。
読めなかった本を、時間を置いてまた借りる。
それは失敗ではない。
自分と本との距離を測っているだけだ。
子どもが同じ本ばかり読みたがることを心配する保護者もいる。
「またこの本なの?」
「もっといろいろな本を読んだほうがいいのでは?」
「同じものばかりで大丈夫なのかな?」
そんな不安を抱く気持ちは、とても自然だと思う。
親として、子どもの世界が広がってほしいと願うからこそ、心配になる。
でも、私は伝えたい。
それでいいんです、と。
同じ本を何度も読みたがることは、読書量だけで見れば「広がっていない」ように見えるかもしれない。
けれど、読書距離で見れば、まったく違う景色が見えてくる。
子どもは、その一冊の世界に安心して戻っているのかもしれない。
次に何が起こるか分かっていることを楽しんでいるのかもしれない。
好きな言葉、好きな場面、好きな絵を、何度も確かめているのかもしれない。
一冊の本と、深く仲良くなっている最中なのかもしれない。
たくさん読むことだけが、豊かな読書ではない。
同じ本を何度も読むことも、立派な読書だ。
大人だって、好きな歌を何度も聴く。
好きな映画を何度も観る。
心が落ち着く場所に、何度も帰りたくなる。
子どもにとっての絵本も、そういう場所になることがある。
だから、図書館ができることは、「次は別の本を読みましょう」と急がせることだけではない。
同じ本を好きでいていいと伝えること。
その本に似た雰囲気の本をそっと紹介すること。
好きな一冊を入口に、少しずつ世界を広げること。
ここでも大切なのは、読書量ではなく、読書距離だ。
ビジネスの言葉で言えば、図書館は「試行コストが低い場所」なのだと思う。
けれど、私はもう少し生活に近い言葉で言いたい。
図書館は、読書に失敗してもいい場所だ。
この自由さは、本から離れていた人にとって、とても大きい。
「ちゃんと読まなければ」と思うほど、本は遠くなる。
「一冊読み切らなければ」と思うほど、最初の一ページが重くなる。
「感想を言えなければ」と思うほど、読書は義務のようになる。
でも、「少しだけ見てみよう」なら、手に取れることがある。
読書への再入口は、大きな扉でなくてもいい。
ほんの小さな隙間でいい。
一冊の絵本。
短いエッセイ。
詩の一行。
料理本の写真。
昔好きだった作家の背表紙。
子どもが選んだ、思いがけない本。
そこからまた、本との関係が始まることがある。
図書館は、本を読む人を評価しない。
どれだけ読んだかを競わせない。
読む速度を測らない。
途中でやめたことを責めない。
ただ、そこに本がある。
必要なら借りられる。
分からなければ聞ける。
疲れていたら、何も借りずに帰ってもいい。
そのゆるやかさが、読めない人を支える。
第5章 これからの図書館に必要な「読まない人へのサービス設計」
これからの図書館に必要なのは、「よく読む人」へのサービスだけではないと思う。
もちろん、蔵書を整えること。
予約しやすくすること。
調べものに対応すること。
子どもから高齢者まで、必要な資料にアクセスできるようにすること。
それらは、これからも大切だ。
けれど、それだけでは届かない人がいる。
本を読む習慣がない人。
本から長く離れていた人。
読みたいけれど、何を読めばいいか分からない人。
本を読む体力が落ちている人。
子どもには読んであげたいけれど、自分の読書経験に自信がない人。
検索で見つけた情報が、本当に存在するのか分からないまま来館する人。
そういう人たちに向けた、「読まない人へのサービス設計」がもっとあってもいいのではないかと思う。
たとえば、「本を読めない時期の人へ」という棚があってもいい。
長い文章がつらいときに読める本。
写真や絵から入れる本。
短いエッセイ。
詩集。
絵本。
料理や手仕事の本。
一ページだけでも満足できる本。
読書を再開するための本棚があってもいい。
「まずは10分で読める本」
「眠る前に一編だけ」
「久しぶりに物語へ戻りたい人へ」
「疲れた日に、文字の少ない本」
「考える元気がない日に、眺める本」
そんな棚があるだけで、救われる人がいるかもしれない。
親子向けには、「がんばらない読み聞かせ」の案内があってもいい。
毎日読めなくてもいい。
同じ本ばかりでもいい。
途中で子どもがページを飛ばしてもいい。
親が全部うまく読もうとしなくてもいい。
絵を見ながら話すだけでも、親子の時間になる。
そんな言葉があるだけで、絵本選びのハードルは少し下がる。
また、本選びに迷う人のために、質問カードのようなものがあってもいい。
「今日はどんな気分ですか」
「長い本と短い本、どちらが読みたいですか」
「物語がいいですか、暮らしの本がいいですか」
「元気になりたいですか、静かに寄り添ってほしいですか」
「子どもと笑いたいですか、眠る前に落ち着きたいですか」
利用者が、いきなり書名を言えなくてもいい。
作家名を知らなくてもいい。
ジャンルを選べなくてもいい。
気分や生活の場面から、本に近づける導線があれば、選ぶことは少しやさしくなる。
さらに、これからはAIとの関係も避けて通れない。
生成AIは、とても便利だ。
知りたいことにすぐ答えてくれる。
本のおすすめもしてくれる。
読書案内の入口として使う人も増えていくだろう。
けれど、AIが出した答えがいつも正しいとは限らない。
実在しない本をすすめることもある。
著者名や書名が混ざることもある。
だからこそ、図書館の役割はなくならない。
むしろ、情報があふれる時代だからこそ、図書館は「確かめる場所」としての意味を増していくのではないかと思う。
それは、AIを否定するということではない。
AIが開いた興味の入口を、図書館が確かな資料へつなぐこと。
検索で生まれた好奇心を、実在する本や情報へ橋渡しすること。
間違いを責めるのではなく、そこから次の一冊へ案内すること。
そう考えると、読書への入口はこれからもっと多様になる。
棚から始まる人もいる。
返却本から始まる人もいる。
子どもの「もう一回読んで」から始まる人もいる。
AIのすすめた一冊を探すところから始まる人もいる。
何も借りずに図書館を歩くことから始まる人もいる。
図書館は、その入口を一つに限定しなくていい。
入口は、一つではない。
そして、入口は大きくなくていい。
これは、図書館だけの話ではない。
家庭でも、学校でも、書店でも、地域の読書会でも、同じことが言えると思う。
そしてこれは、ビジネスの現場でも同じことが言えるのではないだろうか。
数字に出る「成果」や「利用回数」だけで、人を見ることはできる。
売上、来館回数、貸出冊数、閲覧数、クリック数、継続率。
そうした数字は、現場を知るための大切な手がかりになる。
けれど、数字だけでは見えないものもある。
その人がいま、目標に対してどれくらいの距離にいるのか。
サービスに近づきたい気持ちはあるのか。
使い方が分からず、入口で立ち止まっているのか。
一度離れてしまったけれど、戻るきっかけを探しているのか。
声をかけられれば進めるのか。
それとも、まずは安心して眺める時間が必要なのか。
読書量ではなく、読書距離で見る。
この視点は、そのまま人やサービスを見る視点にもつながるのだと思う。
つまずいている人に、正論をぶつけるだけでは届かないことがある。
「もっと読めばいい」
「もっと使えばいい」
「もっと頑張ればいい」
そう言われても、動けないときがある。
必要なのは、大きな目標へ一気に引き上げることではなく、その人が次に進める小さな入口を用意することなのかもしれない。
いきなり一冊を読み切らなくてもいい。
まずは写真集を眺める。
短い言葉を読む。
好きな歌詞を読み込む。
子どもと同じ絵本を何度も楽しむ。
架空の本を探しに来たところから、実在する別の一冊へ出会う。
その人が今いる場所から、次の一歩へ進めるようにする。
それは読書支援であり、サービス設計であり、人を理解するための態度でもある。
「読書距離」という視点は、人間関係の距離や、他者を理解するための測り方にもなるのだと思う。
本をすすめるとき、私たちはつい「この本はいい本です」と言いたくなる。
「読んだほうがいい」と伝えたくなる。
「なぜ読まないのか」と思ってしまうこともある。
でも、本に距離がある人に必要なのは、正しさよりも入口かもしれない。
読まない人を責めるのではなく、いま本とどれくらい離れているのかを見る。
読めない理由を想像する。
近づきやすい一冊を用意する。
読み切れなくてもいいと伝える。
それは、読書を広げるうえで、とても大切な視点だと思う。
図書館は、公共の場所だ。
だからこそ、読書が得意な人だけの場所ではなくていい。
読書から離れていた人も、まだ何を読みたいのか分からない人も、子どものために絵本を探す人も、ただ棚の前を歩きたい人も、そこにいていい。
本を読む人を増やすために必要なのは、「もっと読みましょう」と背中を押すことだけではない。
読めない人を、読めないまま置き去りにしないこと。
選べない人が、選べないまま立ち止まれる場所をつくること。
そして、いつかまた「読んでみようかな」と思える小さなきっかけを、暮らしの中に置いておくこと。
それが、読書への再入口をつくるということなのだと思う。
おわりに 本に戻りたい人のために、入口をひらく
図書館には、本をたくさん読む人が来る。
予約した本を何冊も抱えて帰る人。
返却したその足で、また次の本を探す人。
棚の場所をよく知っていて、迷わず目的の分類へ向かう人。
でも、図書館に来るのは、そういう人だけではない。
久しぶりに本を借りる人がいる。
子どもに絵本を読んであげたいけれど、何を選べばいいのか分からない人がいる。
読みたい気持ちはあるのに、棚の前で立ち止まったまま動けなくなる人もいる。
その一人ひとりに、同じ入口を用意する必要はない。
たくさん読む人には、もっと深く進める入口を。
久しぶりに読む人には、戻ってきやすい入口を。
親子には、がんばりすぎずに言葉を楽しめる入口を。
読めない人には、読めないままでも近づける入口を。
検索やAIの向こう側から来た人には、確かな本へたどり着く入口を。
司書ができることは、きっとそこにある。
本を手渡す前に、安心を渡すこと。
正解を示す前に、迷ってもいい場所をつくること。
「読める人」だけではなく、「本に戻りたい人」の存在を見落とさないこと。
私は、図書館で働いている。
そしてかつて、本が好きだったのに、本を読めなくなったことがある。
だからこそ、思う。
図書館は、本好きのためだけの場所ではない。
本から離れた人が、もう一度言葉に出会うための場所でもある。
読書量ではなく、読書距離で見る。
そう考えるだけで、図書館の役割は少し広がる。
棚の前で立ち止まる人へ。
何を読めばいいのか分からない人へ。
まだ一冊を読み切る自信がない人へ。
同じ絵本を、今日も何度も読んでいる親子へ。
存在しない本を探して、それでも本に近づこうとした人へ。
大丈夫。
読むことは、いつでも戻ってきていい。
そのための入口を、図書館は今日もひらいている。
いいなと思ったら応援しよう!
サポート頂けると飛んで喜びます!
本を買う代金に充てさせて頂きますね〜
感謝の気持ちいっぱいです!!