だれかの”好き”を否定しないために。「比べほめ」について本気で考えた。
保存したレシピを見ようとInstagramを開く。
投稿を目にして指先が冷たくなった。
傷ついたわけじゃない。でもなんだか疲れた。
目を逸らそうとしてスワイプしたら、違う投稿が表示される。いつのまにか何をしようとしていたのか忘れてしまい、時間が溶けた──。
こんな経験が、よくある。
ここでは、誰かの”好き”という気持ちを削らないために気をつけていることについて書きたい。
結論から言うと、いくら気をつけても終わりはないと思った。
そもそもこの記事が「比べほめ」になっていないかも気にはなっている。それでも本気で考えて記してみた。
※ここでは他者を落として自分をほめるという表現を「比べほめ」と定義する。
・日々の情報の洪水で言語化できない疲れを感じている人
・「なるべくやさしい表現」について考えたい人
に読んでみてほしい。
(本文 約5,000字)
比べてほめるということ
SNSを眺めていると、こんな表現をよく見かける。
〇〇は……
・もう古い
・ダサい
・おば見え
・ムダ
・いらん
“自分はこうしてる”
”これ、いいよ!”
それを伝えたかっただけなのかもしれない。
でもその言葉に、胸がきゅっとする瞬間がある。
「言い切り型」の表現だからじゃない。
「◯◯」に入る言葉が自分の好きなモノ・コトであったり、
自分が◯◯に当てはまったりしているときなのではないか。
だから、まるで自分自身が否定されているような……たとえば「ダサい」とか「古い」とか……気持ちになるのでは。
最近、そう考えるようになった。
「ダサい」のは、わたし?
ひとつ例をあげてみる。
わたしは冊子類をつくるのが好きだ。
いろんなフォントを使い分けている。
もちろんわたしにも好みはあるし、「こういうふうに見せたい」という状況に合わせた使い分けをしているつもりだ。
ただ、あるとき目にした投稿では、わたしが使っているフォントが「ダサい」と書かれていた。
「幼稚」「信頼感がない」などNGな理由がたくさん羅列されている。
そのフォントを使えなくなりそうな気持ちさえしてきた。
それどころか、まるでわたし自身が否定されているように、ざらりとした感覚が胸に残った。
これを見たのが「フォントの制作者」だったとしたらどうだろう……。悲しい。
対等じゃないまなざし
この感情の正体は、なんだろう?
そこにあるのは、対等じゃないまなざしだとわたしは思った。好きかどうかより、正しいかどうかで裁かれているような、そんな感覚。
わたしは好きだから使っている。気に入っている。
それなのに、否定的な言い方をされてしまうと、なぜか見下されているように感じてしまう。
朝の忙しい時間帯に、間接的に見知らぬだれかに見下されているような感覚を覚え、もやもやした気持ちを抱えたまま過ごす一日……。
これをリアルで考えてみるとわかりやすいのではないだろうか。
たとえば職場や学校でも、自分の好きなものを伝えるために、それ以外を下げる表現はよくあると思う。
ちょっと例を出すと、「◯◯のケーキが好きなんだ」と言ったわたしに「◯◯のケーキは甘すぎてまずい! 絶対に☓☓がいいよ」と言った人がいた。
こういうときの感覚。
あれが、SNSによって、一日に何度も何度も訪れる。
「感想」を正義にしないように気をつけている
ここから先は
最後までお読みいただき、ありがとうございます♡
