印税5万を引き出して、GUCCI銀座へ走った話
セールで買った1,000円のぺらぺらの花柄ワンピースを身にまとったわたしは、銀座で立ちすくんでいた。
目の前には硝子張りの高級感溢れる建物がどっしりと鎮座している。
ショーケースには数体のマネキン。
「行こう」
彼の腕に掴まるようにして、気後れしながらよたよたと着いていく。
扉を抜けると、きらびやかな世界が広がっていた。
ぱりっとしたスーツの店員がにこやかな笑みを浮かべる。そのまなざしは、明らかに場違いなわたしにも揺るがなかった。
暖かな間接照明に照らされた棚には、バッグやスカーフが間隔を空けて並んでいる。そのすべてが息を呑むほど美しかった。
19歳のわたしと恋人はその日、GUCCIでペアリングを買った。彼はバイト代を、わたしは文章を書いて貯めてきたお金を切り崩して。
提案したのは恋人だった。
「学生が持つには不相応じゃない?」
わたしがそう切り出すと「これから長いこと使うんだからさ」と彼は言った。
「いいやつ、買いたいじゃん」
実際、それから4年近くわたしたちはそのペアリングをつけていた。
そのあと、書店に寄った。
GUCCIにいたときと違い、今度は恋人のほうが居心地悪そうに、困った感じで本棚から本棚へと視線を彷徨わせていた。
彼は本が好きではないのだ。
蛍光灯の青白い光に照らされた店内には、みっちりと本が詰まった天井まで伸びる書棚が、いくつもいくつもあった。
わたしは水を得た魚のようだった。書棚から書棚へ、すいすいと泳ぐように向かっていった。
活字の海で、ほしいものに溺れるようにわくわくしながら。また、自分の名前が載った本がいつか、こういう店に並んだらどんなに素敵だろう──そんなことを考えながら。
当時のわたしたちは遠距離恋愛中で、東京に来たときは恋人のマンションで寝泊まりしていた。
コンタクトを外して髪の毛をひっつめたわたしがシャワーを浴びて戻ると、彼はベッドでごろごろしながらわたしの書いた小説を読んでくれていたらしい。印刷して束ねただけのものだ。
寝息を立てる彼に、そっと毛布をかけた。
小説の最後のページが開かれていた。
間接照明のたまご色の光だけにした室内で、そっと左手を光にかざしてみる。
ペアリングはかなり太めで、すとんした直線のデザイン。わたしの薬指からは明らかに浮いて見えた。
でも、ほおがゆるんだ。
「これからずっと使うんだから」というひとことを何度も反芻した。
あくびをしながら、ローテーブルに向かう。 ノートパソコンや数冊のノート、ペンなどが無造作に置かれてある。
手元のノートには、今日の記録を書く。
どこに行き、なにをしたか。会話で印象に残っていることや、銀座の街の情景描写。道行く人々の服装なども思い出せる限り書き連ねていく。
別なノートには、発想法やスケジュール管理などビジネス書を読んで学んだことを自分の言葉や図解で書いてある。時間を生み出すためだ。
それが終わると今度は、読みかけの小説を開いて、文章をそのままタイピング。さまざまな作家の文章をインストールしていくうちに、自分の中で消化されて、文体が構築されていくのがわかった。

すべてが変わったのは就職氷河期だった。
"お祈りメール"が届くたび、気持ちを立て直すのに時間がかかった。エントリーシートを書いて、メールを見て落ち込んで。書くだけの人生や人格を面接官に否定される。
そのルーティンのなかで、書いたり勉強したりする気持ちを維持するのはむずかしかった。
未来が見えない不安と戦う日々が続いた。
💍
9年後。わたしは銀座へ向かっていた。
学生時代からの友人と映画を観る約束をしていたのだ。
薬指に、あのペアリングはない。
💍
なんとか就活を乗り切ったわたしは、彼の住む東京で企画職として就職した。わたしという人格と人生を尊重してくれた唯一の企業だった。
半年ほど経ったころ。部署内での雲行きが怪しくなってきた。
声をかけても無視されること。ひそひそ笑われること。それから、わたしにだけお菓子が配られないこと。当時は知らなかったが、あの行為には名前がある。「お菓子はずし」というらしい。
お手洗いの個室だけが安心できる場所だった。
そうした態度を取っていたのは、たった一人だけだったはずだ。
上司や人事に相談すればなんとかなったのかもしれない。でも当時は誰も信じられなかった。あらゆる人の目を恐れていた。
電車を降りると同時にポーチに隠してあったGUCCIのペアリングを取り出し、指にはめて、ごつごつとした感触を確かめる。
そのときだけが、わたしはひとりじゃないと思える瞬間だった。
急に呼吸が通る。
涙も落ちる。ペアリングをポーチの中に丁重に戻すと、手の甲で涙を乱暴にぬぐい、わたしはお手洗いを出た。

その夜のわたしは、濡れた髪の毛からぽたぽたしずくが垂れて、床に落ちていくのを眺めていた。
寝るためだけに帰る家はひどく汚れている。床に落ちたもこもこの埃が、しずくを受けて縮みながら黒く染まっていった。
「辞めて、結婚したらいい」
半同棲状態になっていた恋人は、わたしの背中にタオルをかけながら、当たり前のようにそう言った。
当時は胃痛がひどかった。シャワーを浴びると差し込むように痛みが増して、うずくまるしかなかったのだ。
「バイトとかしてさ。また、作家目指せばいいよ」
冗談だと思っていた。
けれども実際に、彼は結婚できるだけの準備を整えはじめたのだ。
💍
約束までは、まだ時間があった。
ATMでお金を引き出し、最寄り駅前の書店に立ち寄る。
平積みされていた著書が少なくなっていた。
わたしではない誰かが買ってくれたのだと思うと、胸が熱くなった。
この数ヵ月前、はじめての自著を出版していた。
ブログを毎日書いていたら、声をかけてもらったのだ。
夫は激務で毎日終電帰り。
わたしはわたしで、子どもがねむっている間しか仕事ができなかった。
午前1時に夕飯をつくり夫に食べさせ、それから原稿を書いたり図版をつくったりする。明け方近くに眠る生活を毎日続けて、なんとか完成したものなのだ。
電車に乗って銀座へ行き、友人と映画を見て別れたその足で、銀座のGUCCIへ向かう。
ずっと前に夫と来たその店に、わたしは一人で足を踏み入れた。
その日は”一張羅”を着ていた。
クローゼットの中には3000円前後の服ばかりが並んでいたが、その日手に取ったのは、たった1着の勝負服。2万円のワンピースだ。
ごくごく淡いベージュのすとんと落ちる生地でできており、その上にはゆるいフリルのある短い布が重なっていた。
上半身にだけ、袖のない透ける生地がもう一枚重ねられている。限りなく透明に近い色と、檸檬のような薄いイエローが大ぶりなチェック模様をつくっていた。
ぱりっとした緊張感は変わらなかった。でも、一張羅のワンピースを着てきたこともあり、前よりは少し気が楽だった。
下ろしてきた5万円と商品とを見比べて、わたしは頭を抱えた。足りない。夫に贈る財布を買うつもりだったのに。
結局、名刺入れを選んだ。
ATMで下ろしておいたのは、生まれてはじめて手にした印税の一部。
はじめての印税を持って銀座のGUCCIへ走ったあの日を今もよく覚えている。
GUCCIのロゴが入った小さなショッピングバッグを持ったわたしは、地下鉄に乗り込んだ。
膝上に置いた手には、結婚指輪が輝いていた。

時が経ち黒ずんでいる。
(3,000字)
あとがき
わたしのリングの写真がないのは理由があります。職場でのしんどい経験から激痩せしてしまい、気づかない間に、外で指から抜け落ちてしまったんです。結局見つかりませんでした。
婚約指輪を買う少し前のことでした。当時の”痩せたサイズ(3号)”でつくった結婚指輪、抜けません……。
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