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ホワイトデーの行方

ホワイトデーがきらいな、時代があった。


きっかけは、夫の祐介が職場で義理チョコをもらってきたこと。

失礼があってはいけないと、チョコレートの金額を調べ、一番価格の高いものに合わせて全員分のお返しを二人で用意する。

そんな作業が毎年の必須業務になっていった。


わたし自身の職場には、義理チョコ文化はない。
でも、隣の席の井原さんは、あえて100円程度のチョコレートを上司に渡し、お返しの高級チョコをせしめて自慢していた。

「あたし、賢いやろ。わらしべ長者みたい」

そう言って笑う彼女のことを、醜いと思ってしまった。


祐介の職場ではどうだったのだろう。
わたしは職場の女性たちを知らないので、どういう意図での義理チョコだったのかはわからない。


わたしたちは大学卒業と同時に結婚した。
まだ新婚であり、しかも当時の祐介は新入社員で、最年少だった。

年齢と財力はある程度比例する。
井原さんのような目的で渡されたのではないのだろう。

ほとんどはワンコイン以下のチョコレートだった。
職場のみんなへの”ばら撒き用”だったのでは、と推察した。


ところが。
その中のひとつが、4,000円もするチョコレートだったのだ。


「食べたかったら、全部食べていいよ」

祐介はわたしに義理チョコを提出するなり、そう言った。

100円のチョコにも、200円のチョコにも、わたしは何も思わなかった。

でも、高級チョコを見たときだけは、しん、と胸が冷えた。
全員に配れる金額では、ない。どんな人が、どんな意図を持って贈ったのかわからなかった。

誰からもらったものだったのか、わたしは祐介に聞かなかった。知りたいと思えなかった。
なんとなく、あの人かなと思い浮かぶ女性がいたからだ。



わたしはその人の名も顔も知らない。


「同僚の女の子が里穂に会いたいって言ってる。休日にあそぼうって」

「……わたしと? なんで?」

「わからん」

わたしはこのとき、もやもやした。

「なんなんそれ。わたし、職場の男性の奥さんと会いたいとか思ったことない。なんで、その人そんなこと言うの」

祐介は眉をひそめた。

「悪い人じゃないって」

それがますますわたしのこころに火種を残した。



彼女からの誘いは、半年ほど続いた。

「同僚の妻に会おうとするって怖いって。祐介のことを好きとかじゃないの?」

わたしがそう言うたびに、祐介はむっとした。

「ぜったいにありえない」
「悪いひとじゃないよ」
「それに彼女、結婚してるからありえない」

なんでわたしじゃなくて、あの人をかばうの?
わたしが悪いの? 重い? 面倒? 間違ってる?

それすらもむなしかった。



祐介が言うには、その人は芸能人と見紛うくらいうつくしい人だという。
地味なわたしにとって、それも地雷だった。顔も知らない彼女はいつのまにか仮想敵になっていた。

「なんでそんなに思い込みが激しいん? 被害妄想やばいて」

祐介は呆れたようにため息をついた。
突き放されたような気持ちになった。


それなら、わたしの思い込みなのか、被害妄想なのか、確かめる。


もう何度目かわからない彼女からの「ふたりで会おう」という誘いがあったとき、わたしは、すべてを終わらせる決意をした。

彼女がただのいい人なのか、それともそうでないのか。白黒つけようと思ったのだ。

「いいよ。会う」

わたしの言葉に、夫は意外そうに眉をあげた。



そしたらどうなったのか。

彼女のほうから、会うのを断られた。
理由も意味がわからなかった。


やっぱりむりかも。


それだけ。

自分から何度も執拗に誘ったくせに。

それからというものの、「ふたりで会いたい」という誘いは立ち消えた。



4,000円のチョコレートをもらったのは、彼女に返事をした少しあとのことだった。

これはきっと、仮想敵であるあの人が贈ったものだ。そう決めつけた。
ひと粒が1,000円もするそのチョコレートのうち、3つも、ぱくぱく口に放り込んでしまった。

祐介の分を残すのですら、ほんとうはいやだった。

悪感情を、こころのなかで言葉に乗せた。

そうして自分の醜い心根に、涙がほろりと落ちた。



ホワイトデーを目の前に控えたある土曜日。
祐介とわたしは、電車を乗り継いで、お返しを買うためだけに都心へ向かっていた。

その道中、わたしはずっと不機嫌だった。



当時、あの感情は「割に合わない」というものだと位置づけていた。
わたしの中にはたくさんの不平不満が渦巻いていた。

お返しの相場を調べると、もらった金額と同額~1.5倍程度だという。
4,000円の義理チョコがあったから、それに合わせた金額で全員分を揃えなければいけない。

「やっぱり、1,000円くらいにしない?」
「なんで?」
「いや、100円のチョコ渡して5,000円のお返しがきたら、わたしやったら恐縮してしまうんやけど」
「なんでそこでケチるん?」

5,000円のお菓子を4人分購入した。
2万円かかった。

それはわたしたち夫婦の月収の何%だったのだろうか。



卒業と同時に結婚したのは、地元で出会い、遠距離恋愛を続けていたからだ。
彼が東京に来るのなら、どうせならもう、結婚したらどうか。
そんなふうに言ったのは両家の親。

祐介、本当はわたしと、結婚したくなかった……?


そんなことを思いながらも、聞けずにいた。
ただ流れで、見捨てたくなくていっしょにいるだけ?

電車に揺られている1時間近いあいだ、わたしは、祐介の目が追うものをぼんやり見ていた。スマホ画面の中でキャラクターが戦い、与えたダメージを表す数字がぴこぴこと増えていく。



バレンタインデーにわたしが用意したのは、夕飯のあとのホットチョコレートだった。

小鍋に牛乳とチロルチョコ3粒を入れて、ふつふつとして、溶けるまで煮る。熱々に、けれども煮立たない境目を見極めるのがむずかしくて、縁のほうが少しだけ固まってしまった。

慎重にマグカップに注いで、マシュマロを浮かべ、最後にブラックペッパーをひと振り。

となりにぽすりと腰かける。マグカップの中から甘い香りが立ち昇る。ふー、と口をすぼめて冷まし、ちびちび飲んだ。

祐介の目は相変わらずゲーム画面に注がれていたけれど、ひと口含んだら「……うま」とこぼれた。

それからこちらに向き直って「マジでうまいな」と笑った。

彼はバレンタインデーであることをすっかり忘れていて、そこではじめてチョコを提出されたのだ。

毎年そうで、自分の誕生日すらも覚えていない。
演技などではなく、本当にそうしたイベントごとに興味がないのだと、長年の付き合いでわかっていた。



ホワイトデー・マーケットは大勢の人でごった返していた。
人の波に流されながら、夫が女性に贈るものを選んでいく。

ていねいにラッピングしてもらったチョコレートは、帰ったあと、しっかりしたつくりのおしゃれな紙袋に入れて、仕分けしていく。


そのとききっと、思い出さずにはいられないだろう。

1人分5,000円。
それを4人分。

諭吉ふたり分のお金を今から使う。


ああ、これがあれば本が20冊近く買えてしまう。
憧れの店のお高いワンピースだって1着なら手に入る。

わたしが祐介にあげたのは、月給を削って贈る美しい高級なチョコレートではなくて、1杯100円もせずに作れてしまう、手作りお菓子とすら言えない代物だった。

だから、わたしに高いお返しを買ってほしいということでは、ないのだ。

そうじゃない。
でも、割に合わないと思ってしまう。

このもやもやしたこころを、うまく説明できなかった。



帰りの電車に揺られていたら、ずいぶんマットな質感の夕空が広がっていた。

春のはじめってこういう、ぼんやり霞んだ空が見えるな。
そんなことを思っていたら、涙がぽろりと、ひと粒こぼれた。

祐介はわたしの選んだお返しに満足そうにうなずいていた。
別行動をした時間もあったから、もしかして、わたしになにか買ってくれていないかなとそう思ったけれど、彼はなにも持っていなかった。

霞んだ空の中で、夕日だけが赤くまあるく、くっきりした輪郭で世界を照らしていた。



翌日、4つの紙袋を持って出かけていった祐介は、終電を過ぎても戻ってこなかった。
嫌な予感がした。

知らない人から部屋のなかが見えないように真っ暗にして、カーテンを開けてベランダに出たり入ったりしては、祐介が帰ってくるのを待っていた。

以前、警察から電話があって、祐介が道端で寝ていると言われたのを思い出し、パジャマの上に冬もののもこもこのコートを羽織って家を出た。
まだわずかに湿った髪の毛が、外の寒さで一気に冷えて、痛いくらいだった。

結局、駅まで歩いても、どこにも祐介は寝ていなくって、すごすごと家に帰った。
どうしてもねむれない夜のために持っていた、市販の睡眠改善薬を口に含んだ。


そのときだった。
静まり返った深夜のマンションに、エレベーターがとまる音が響いた。ガチャガチャと扉が開いた。

赤い顔をしてもどってきた祐介は、ずるずると倒れ込むように洗面所の床でねむってしまった。

「……どこに、行ってたの」

祐介は答えなかった。
こうなってしまうと、彼はもう朝まで絶対に起きない。スーツからは煙たいにおいがした。
居酒屋にいたのだ。──誰と?

脱がせたいけれど、ジャケットに手をかけたら、不機嫌そうに眉根を寄せた。

わたしよりずっと大柄な祐介から服を剥ぎ取ることはできなくて、毛布だけをかける。頭の下に枕を入れる。

「汚れるからやめて」

ほとんど寝言のような感じで祐介が言う。いつものことだからわかっていた。

「タオル巻いてるから大丈夫。洗えばいいよ」

ふと、夫の通勤鞄が目についた。ファスナーが半分しか閉められておらず、その中からピンク色がのぞいていた。女性が好みそうなデザインの、精緻な花柄のイラストが描かれた包み紙だった。


スーツケースに着替えを詰めた。
頭がぼうっとして適当に詰めているうちに身体が重くなってきた。薬を飲んだことを思い出し、わたしはふらふらとベッドに倒れ込んだ。




翌朝目を覚ますと、祐介はソファに座ってお笑い番組を見ていた。身体がひどく重だるい。寝すぎたとき特有の鈍い感じがあった。

「……びっくりするくらい寝とったな」

祐介が呆れたように言った。
わたしは目をきっと吊り上げて、彼の言葉を無視した。

「あのスーツケースなに?」

昨日詰めている途中だったスーツケースからは、ぐちゃぐちゃになった服がはみ出していた。なぜかぬいぐるみまで入っている。

「そっちこそ、昨日何してたの」

「いやそれがさ」

祐介は軽い調子で、けれども困ったように切り出した。

「木村さんがなあ、やってしまったんよ」

「だれ」

「えっと……。あー知らんかったか。あの、女性で。そうだ、前にいっしょに遊ぼうって言ってた」

「きれいな人」

「そうそう!」

わたしは立ち上がると、荷づくりの続きを始めた。

「木村さん、飛ばされることになったんよ」

「……え?」

思ってもいなかった言葉に、思わず顔を上げてしまった。

「宮崎さんと不倫しとったらしくて。しかも社内で目撃されて。地方に飛ばされるんやって。それで急遽部署飲み」

「……祐介、あの人のこと好きだったんじゃないの」

「は?」

「きれいだって言ってたじゃん。わたしが悪く言ったら彼女のほうを庇ったし」

「え、そういう意味じゃないんだけど……。単に顔の造作がよかったらそう思うし。特徴的な。……でも、確かにいい人ってわけじゃなかったな。宮崎さんもうちと同じで、結婚しとるから。ダブル不倫ってことになるし」

祐介は目を落とした。

「あ、で、それ!」

彼は枕元を指さした。そこには、昨日バッグに入っていたピンク色の包み紙が入っていた。

「あの高いチョコくれた人に言われた。奥さんになにあげたのかって。なにもあげてないって言ったらめっちゃ怒られて飲みの前に急いで買ったんよ」

「あのチョコ、不倫の彼女からじゃないの?」

「え、違うって。森村さんっていう、職場で一番年上の女性。もうすぐ定年」

わたしの思い込みは、半分はたぶん正解で、半分が被害妄想だった。
呪詛を吐きながらチョコレートを食べてしまったことを、恥じた。



あれから数年が経った。

わたしたちはふるさとへ戻り、子どもが3人生まれた。

新しい職場では義理チョコも一切なく、お返し探しのルーティンもなくなった。
相変わらず祐介からのお返しはないものの、ホワイトデーは、ただの365分の1の日になった。

でも今でも正解はわからない。
不倫の木村さんが、どうしてわたしと二人で会おうとしていたのかは。



(5,000字)







▼この小説は、斉藤ナミさんの新連載にあたって池松潤さんが企画された「 #嫉妬祭り 」への参加作品として書きました。


これまでに感じたさまざまな感情を、形を変えてフィクションの短編に仕立ててみました。


斉藤ナミさん、新連載おめでとうございます。
池松潤さん、はじめまして。どうぞよろしくお願いいたします。フィードバック希望いたします。



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