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ムネモシュネに雨粒


心までまっくろに曇った土砂降りの朝、わたしは電車に飛び乗った。
行き先は──映画館。




休息日


映画館は県内に数えるほどしかない。
どこを選んでも、いくつもの公共交通機関を乗り継がなければならなかった。


朝までは迷っていた。
でも決めた。──きょうだけは、しごとをしない。こんな感情でいたら、よいものは書けないと思った。

それでも書きかけの小説を手直ししたくて、鞄にパソコンを入れる。移動が長くなるとわかっていながら、重さを承知で持ち出した。


家を出るときは小雨だった。霧のような雨がさらさらと落ちていた。
すこしでも荷物を減らしたくて、折りたたみ傘を持つ。いつものシルバーのバレエシューズには、ぬいでもかさばらないレインカバーをかけた。

ところが、子どもを送った直後だった。
にわかに雨脚が強くなった。

傘を差してもざあざあと吹き込んでくる雨で、鞄や服はじっとり濡れていく。
あっという間に生乾きの服をそのまま着たような不快感が襲ってきた。


前の晩、仕事のメールを読んだときから、なにも手につかなかった。

表現はむずかしい。好きなことを仕事にしたからこそ、細やかな悩みはたくさん生まれる。
ひらきかけた口を何度もとじた。
どんな言葉を選んでも棘が生まれてしまう。飲みくだすことにした。いつもそうしているように。

ふれなければ凪いだままだ。

きょうは、休息日。前に進むための通過点にする。


・ ・ ・


ようやく最後の乗り換え地点にたどり着いたとき、雨はすっかり弱まっていた。目を凝らさないと見えないくらい、白い空に溶け込んでいる。

もう夏のはじまりだというのに、淡い灰色のブラウスをすり抜けるように風が肌を刺す。雨の日に人が集まるところ特有のすえた臭いが風に乗って運ばれてきた。

反対ホームの電車がすべり出していく。ぼんやりと見送ったあと、それこそが乗るべき路線だったと気がついた。
慌てて移動したが、次が来るまでかなりの時間待たねばならなかった。


両腕をさすった。スカートも冷たい。ベンチに腰を下ろすと、太ももや膝がしんと硬くなっていくようだった。

雨は空に溶けたみたいに透明なのに、ホーム上の屋根から涙みたいに不規則に落ちてくる大粒のしずくは、白くにごっていた。
ホームに電車がすべり込んでくる。

降りる場所につくまで、こころはずっと晴れずにもやもやとしていた。ひと文字も書けなかった。書くことでこころがすくわれることが多い。
でも、いまはむりなのだと悟った。


降りそそぐ記憶


数時間後。
映画館を出てからひとつめの電車がすべり出す。

しばらく曇ったこころを忘れていた。
結末の余韻に浸っていたが、気持ちを切り替えて、いま書きたいことについて考えはじめた。



毎週、3つのキーワードを必ず入れて文章を書く「三題噺」という試みに参加している。

今週のお題は扱い方が思い浮かばず、最終日まで筆が進まずにいた。今夜が〆切なのだ。映画を観ていたから、時間が迫っていた。


思いつかない。頭のなかにはにごった雲がもくもくと湧き出すだけで、降ってくるものがないのだ。そこで、お題の言葉をひとつずつ考えてみることにした。

(ミッションインポッシブル。映画は、……観てない)

車窓を濡らす細かな雨つぶを眺める。叩きつけるようにはげしく飛び散り、風に吹き飛ばされていく。

すると、ふと降ってきたことがある。
「ミッション・インポッシブルな挑戦するのが好き」というわたしの特性だった。


気づいたのはほんの最近のこと。

たとえば今年は、3週間で3作の小説を書き下ろした。こんな話が読みたいと言ってもらったら、1日1万字書いて5日で完成させた。創作大賞には全部門応募する。

タイムリミットがあり、自分の能力ではそこにぎりぎりすべり込めるかどうかというハードモード感が楽しいのだと思う。


・ ・ ・


一方で、やすむのは好きじゃない。
めんどくさがりなので結果的にだらだらすることはよくある。でも、ほんとうは、いつでもなにかしていたいのだ。

ぽっかりと空いた時間には、思考停止してしまうきらいがある。
そういうときの自分のなまけもの具合いが好きじゃない。だからこそ、ゴールとリミットがはっきり決まっていれば、あせりながらも、それすらたのしめる性格のだ。


・ ・ ・


なにかに夢中になっているときには副産物もある。

行動力だ。急にフットワークが軽くなる。

小説の舞台に洞窟を出したいと思い、離島を目指して船に乗り込んだ。
書いたものが浅いと思ったら、こころに波紋を落とすものを探しに美術館へ足を運んでみた。
あえて雨の街にくり出して、ただじっと目の前を観察したこともあった。


映画館へ出かけたのもそう。

こういうとき、ふだんなら棘を呑んで落ち込むだけだが、小説を手直しする前に、なにか新しいイメージがほしい。──書けないけど書きたい。その気持ちが、外へ出る選択肢をくれた。


次の駅にとまる。
じりりりりと音がした。ここでは発車ベルが鳴るのか。新鮮な気づきだった。


雨粒を編む


なにかを書くとき、行き詰まったら、まず、言葉を羅列していくことが多い。

ひとつのお題から連想した言葉をどんどんつなげることにした。

人生で大切な3つの袋
…結婚式でのスピーチ
きおけ・・・の淡さ
…ムネモシュネ

列車のスピードが上がる。
わたしが座った席は、がこんがこんとまるでジェットコースターみたいに上下に揺れだした。

体が浮き上がり、スマホで打つ文字がずれる。でも手をとめない。雨が降りそそぐ。

(早く集めなければ、消えてしまう──)


お題のひとつ「人生で大切な3つの袋」というのは、結婚式で主賓のスピーチによく使われる逸話だ。

自分たちのときはどうだっただろう。──記憶がない。新郎側の主賓と、新婦側の主賓が、真逆のはなしをして気まずかったことが印象に残っているだけ。
こういうとき、書き残さなかったことを悔やむ。


・ ・ ・


わたしにとって、文章を書くのは雨粒で海を編むような作業だ。

なにかをきっかけにぽつぽつと落ちてきた無数の記憶たち。一部はふっと地面に染み込むように姿を消してしまう。溶けずに残ったものがいくつも集まって泉に流れ込む。さらにそこからあふれ出したものが川に合流し、最後にたどり着くのが、海。

完成した原稿。記事。note。それこそが──海だ。


・ ・ ・


記憶の雨は気まぐれで、ただ生きているだけではなかなか降ってきてくれない。

むしろ、問いかけや制限──誰かがくれた「お題」があるからこそ、埋もれていた感情がふいに落ちてくるし、降りそそいだ言葉の粒を編んでいくうちに、ふと見えてくるものがある。

自分のなかにある“挑戦を選びたがる癖”。ぎりぎりのスケジュールで作品を仕上げるあの感覚。

それも作用しているのかも。目指すのはいつだって、ちょっと無理そうな場所だった。

今日この映画館に来たことも、もしかすると、やすむためというより、ふたたび書くための通過点なのかもしれない。

 

・ ・ ・


少女時代のわたしは、小説やエッセイを好んで書いていた。
やがて生活実用書を出版することになり、コラムを書くようになった。この仕事も、とても好き。悩んでいる人にそっと寄り添えるのがうれしい。

でも、このごろ思うのだ。
この10年、なんてもったいないことをしてきたのだろう──と。

家事のこと。
役立つこと。

それ以外は書き留めてこなかった。
記憶はすっかり淡くなり、なにかきっかけでもない限り見つからない。



『反対列車待ち合わせのため停車します』

そんなアナウンスとともに、電車は扉を開けたまま動かなくなった。
ひざ上にのせたリュックが重い。移動がほとんどでパソコンをひらく時間は足りず、くたびれ損だった。




忘却の川、記憶の泉


この瞬間を一生忘れないだろう──。

そう確信する一瞬が、人生のなかで何度かあった。
たとえば黄昏たそがれ泣きする娘を抱っこひもに包んで散歩に出たとき。

夏だった。東京。知り合いもおらずひとりぼっちで、ワンオペで余裕がない。だから部屋を出てあるいた。
泣きたいくらい空がきれいな夕方だった。

娘に身長が追いつかれそうな今でも写真のように思い出すことはできる。


でも、

そのときのにおいは?
どんな服を着ていた?
音は?

──考えても考えても思い出せない。



抱っこひものなかの生まれてからたった3ヵ月の娘が、さっきまで真っ赤な顔をして泣き叫んでいたのに目をつむって、口をぷくんと突き出して、すやすや眠っているようす。
あるいは、そのふっくらしたほっぺた。

頭のなかに残っているのは、切り抜かれた一瞬の静止画。


その場面を描きたいと思っても、立ちのぼるにおいや、周りのざわめきの解像度は、どうしても低くなる。
世界の色味も少しずつ色褪せて、日を追うごとに記憶が淡くなっていく。


・ ・ ・


あの日感じた純度の高い記憶はもう世界のどこにも残っていないのだと痛感させられる。

記憶は消えているのか、新しく上書きされているのか。いずれにしても、忘れるとべつな自分になってしまうような気がする。それがいいことなのか、わるいことなのかもわからない。

だからわたしは、忘れることが怖い。

これまで生きてきた道すじがふっつりと消えてしまうような気がするのだ。


・ ・ ・


ギリシャ神話の"レテの川"を思い出した。

忘却の川。死者の国にあるその川の水を飲んだ人はすべてを忘れてしまう。だから、人は生まれ変わるとき、記憶をもたないのだとか。

でも、泉や海に流れ込んだ記憶を忘れることは恐れていない。
だって、読み返したら思い出すことができる。書いておけば、忘れてもいい。


レテと対称的な存在として、女神ムネモシュネがいる。
一部の流派では、死後にレテ川の水ではなく、ムネモシュネの泉の水を掬うことで忘れずに済むという考えもあるそうだ。

気づいた。わたしがしたいのは、そういうことなのかも。

書くのはだれかのためだけじゃない。まずは、自分のためなのだ。
過ぎ去ったことを忘れても掬いあげられるように、記憶の雨粒をムネモシュネの泉へと流しているのかも。

コラムのような役立つ記事は、だれかのために生まれる。でも、ほんとうにそうだろうか。はっきり言葉にする。それがわたしの思考をつくり、人格になっていくのではないか。

そう考えると、どんな文章も、はじめは自分のために書いてみていいのかもしれない。
そして、行先に合わせて進路をずらしてあげる。あたたかな海、流氷浮かぶ海、にごった海、透明度の高い海──。


・ ・ ・


いまこの瞬間だったものは、たとえ0.01秒前であっても、それは過去。人生の通過点だ。

だからわたしは、きょうも雨を集める。
"いま"を書きとめる。

いまは役に立たないかもしれない。けれども、ノートや下書きに集めた記憶のひとひらは、いつかムネモシュネの泉から掬いあげ、海へとつづく流れに乗せることがあるかもしれないから。

そしてそれは、自分自身を刻むことなのだ。


電車が動き出した。

終着駅はまだまだ遠いけれど、窓の向こうも、こころの中も、晴れはじめていた。










#第3回灯火杯

今回も応募します。




記憶の雨を降らせてくれるもの──だからこそ、今回は「お題」と応募作品を合わせてみました。

#木曜日は3ースデイ




#なんのはなしですか

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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡

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