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”夕化粧”が教えてくれた魔法

ふわり。淡い紫の花が揺れていた。
松葉雲蘭まつばうんらんだ。今年も出会えた。思わず口角が上がる。

すっと長く伸びた細い茎が繊細な印象を与えるその花は、去年もここに咲いていた。公園のベンチを縁取るように群生してそよぐ様子は、野の花とは思えないくらいうつくしい。



「自転車、コマ無し・・・・で乗れるようになったんやねえ」

彼女はしみじみと言った。
やわらかく細められた目は、息子に向けられている。

砂場遊びをするお友だちの元へ行かずに、公園に着いたその瞬間からずっと一人で走っている。

つやつやしたボディの赤い自転車に乗って、広場の奥まで向かっては戻ってくる。たまに誇らしげにこちらに手を振るので、まるでアイドルを応援するみたいにみんなで手を振り返す。
そのくり返し。

身長がわたしの口元まで迫ってきた娘は、わたしたちの横に座ってお菓子を食べながら「先週買ったの」と澄ました感じで答えた。ポテチをつまむその指先は、すらりと細い。



風の気持ちいい日だった。
木でできたテーブルの上には、スナック菓子の袋や、キャラクターものの水筒が並んでいる。ごみ入れ代わりのレジ袋の中には、色とりどりの包み紙。

「ハトさん来ちゃう~」

ポテチの欠片を落とした女の子が、心配そうに下を指さした。
ここでお菓子を食べていると、足元にいつもハトがやってくるのだ。

「あ」

ハトはまだ来てない。
でも、見つけた。

ここにも、松葉雲蘭。群生していない。群れからはぐれたみたいに、ひと株だけ小さくまとまって咲いている。

それだけじゃなかった。オオイヌノフグリにホトケノザ、それから亜米利加風露アメリカフウロ……。
いくつもの野の花がひそやかに咲いている。

ずっと前の春を思い出した──。





2歳になった娘と歩いていた。
ふくふくの小さな手を握っていつもの児童館へ。

当時、わたしたち家族が暮らしていたのは東京の端っこ。23区だとは思えないくらい、整備された緑があちこちにあった。
むしろ、自然な姿が見られるのはきっと道路沿いだと思う。


ある日、道ばたで見たことのない花を見つけた。

鮮やかな桃色の花びらが、四つ葉のクローバーのようにつらなっている。
花の大きさは親指の爪くらい。コンクリートの割れ目からすっと立ち上がる茎には、たくさんの小さな花がついている。

しゃがみこんでスマホを向ける。


児童館から帰ったあと、写真を見ながら名前を調べてみた。

🔎5月 雑草
🔎5月 ピンク 花

画像検索をくり返してやっとたどりついた。「夕化粧ゆうげしょう」という花だ。明治時代に観賞用として輸入した花が、いつの間にか雑草化してしまったのだという。

ほかにも「夕化粧」と呼ばれる花があるから、区別するために「赤花夕化粧」と呼ばれることも多いみたい。

翌日から、夕化粧を見つけるたびにふっと口元がゆるむようになった。

でも、それだけじゃない。
世界が一変した。


それまでのわたしは、いつも疲れていた。
仕事ができるのは子どもが寝たあとだけ。夜明け近くまでパソコンに向かう日々だった。
夫を送り出して掃除を終えるころにはもうふらふらだった。まだ、朝なのに。気づくとまたキッチンに立つ時間。お昼ごはんを済ませたら、決まって眠たくなって……。

児童館には、週に一度行ければいいほうだった。


でも、夕化粧の花を知ったら、欲が出た。次は四つ葉のクローバーみたいな葉っぱが気になりだしたのだ。

黄色の星みたいな花が咲いている。名前は片喰かたばみ。葉っぱが噛まれたように少し欠けているからこんな名前なのだとか。クローバーよりもう少し切れ込みが深い、ハート型の葉っぱをしている。

たんぽぽに似ているけれど、まったく同じだとは思えない植物にも出会った。調べてみると、たんぽぽに似た花はたくさんあることを知った。「野芥子のげし」「鬼野芥子」「田平子たびらこ」……。


名前がわかると、ふしぎなことが起こった。
これまでは確かに背景の一部だったはずなのだ。それなのに、道を歩くたびに、あちこちが光って見える。

見たことのない花って、思っていたよりずっとたくさんあるのかもしれない。ゲームの中でアイテムを集めるような楽しさが日に日に増えていった。


気がつくとわたしは、毎日のように娘を児童館へ連れ出せるようになっていた。それだけじゃない。「ちょっとしんどいな」と思っていた公園だって、あちこち行けた。
子どものためだけじゃない、わたしの楽しみが生まれたからだ。

あちこち出かけていたら、ママ友が増えた。公園で待ち合わせて遊んだり、家に呼んでもらったりしているうちに、人見知りをしていた娘にもたくさん友だちができていた。


ベビーカーを押して児童館へ向かっていたある日、白くて背の高い花を見つけた。
ハルジオン。……だと思った。


この花の名は。

その花のことはずっと前から知っていた。
高校生のとき夢中になって聴いたBUMP OF CHICKENの歌詞にあったから。でも、ふと思い出す。

──そういえば、似た花がなかったっけ?


図鑑をめくるのが好きな子どもだった。

チドメグサ、ヒメオドリコソウ、ユキノシタ……。図鑑で見つけた花の”実物”を見つけることに喜びを感じていた。
けれども近所の公園で見つけられたのはこれくらい。

あの図鑑の中に確か。あったはずだ。
ハルジオンとヒメジョオン。よく似た2つの花があることを、思い出した。


娘といっしょに、しゃがみこんで花を観察してみる。
これはどっちなんだろう。さっぱり見分けがつかない。

飽きてしまった娘が怒って服を引っ張った。後ろ髪を引かれながら進んだ。


児童館の帰り、家を通り過ぎてさらに15分ベビーカーを押し、図書館へ行った。

借りたのは、娘のための絵本だけじゃない。野草についての本も。
子どもが生まれてから久しぶりに、自分のものを借りた。電子書籍でも数冊、買った。

娘がおままごとをしている横で、ぱらぱらめくり出した。
その数分後には、ペンを取っていた。


花の名前と別名。いつ咲いているのか?
花びらの形は? 枚数は? 葉っぱはどんなふうについている?

ページを埋めていく。
色紙を正方形に切った。まずは鉛筆でかんたんに下書き。それをボールペンで慎重になぞる。一度立ち上がり、洗いもの。──乾いた。そっと薄い線を消す。色鉛筆で塗る。



外で見た花が、わたしのてのひらに収まった。


調べてわかった。
さっきの花は「姫女菀」

植物図鑑をつくろう。
そう決めたら毎日歩く道が、変わった。


あの雑草も、そっちの雑草も、背景からふわりと浮かび上がる。
輪郭がくっきりと太くなぞられたように目に飛び込んでくる。

知り合いのいない場所で友だちを見つけてふっと安心したときのようなやさしい気持ちが、歩くたびに沸き起こるようになった。

図鑑がどんどん埋まっていく。



庭石菖にわぜきしょう


野芥子のげし
夕化粧ゆうげしょう

掃溜菊はきだめぎく。ゴミ捨て場で発見されたことに由来? かわいいのに不憫……」



息子が生まれた。
わたしたち家族は、遠くへ引っ越すことになった。

東京を離れるその日、ママ友のエリコさんが見送りに来てくれた。
空港へ向かうタクシーに乗り込んだわたしたちに、親子でずっと手を振ってくれていた。

住み慣れた家が、街が、どんどん遠くなっていく。

飛行機が離陸した。飛んでしまった。気持ちの輪郭を把握できないままなのに。羽田空港が一瞬で小さくなる。宝石箱みたいな東京の街が滲む。手の甲で目元をぬぐった。



新しい街では徒歩圏内に児童館がなかった。最寄りの公園も徒歩1時間半の場所。

歩いても歩いても田んぼだけ。


すぐにコロナ禍になった。
行事が消えた。幼稚園でもずっとひとり。

ただひたすら家の中で過ごす日々を送っていた。

誰かと話したい……。

それからもう一度引っ越して、少しずつコロナが落ち着いていった。
東京を離れてからいつのまにか、3年──。





わたしの鎖骨あたりまで背が伸びた娘は、ブレザーの胸にバラの造花をつけていた。

卒園式ではじめて顔見知りのママと連絡先を交換した。ぱっちりした目が美しい人だ。LINE交換してはじめて、彼女の名前を知った。

どこかぎこちなさを抱えたまま、河野さんと公園で待ち合わせた。
息子はピンク色のキックバイクを一生けんめい蹴り進んでいる。

コマ無し・・・・は乗らんの?」
「こまなし……?」
「あれ? 三條さん、知らん? ……方言なんかな? コマって補助輪なんやけど……」
「あ、補助輪がない、ふつうのやつってことですか?」
「そう!」

幼稚園の外で会ったのははじめてだった。
持ち寄ったお菓子を前に、わたしたちはマスクを取った。はじめて、お互いの顔を知った──。

ふわり。淡い紫の花が揺れていた。松葉雲蘭まつばうんらんだ。東京を離れてから、はじめて見たかも。ずっと家の中で過ごしていたから。








ふわり。淡い紫の花が揺れていた。
松葉雲蘭まつばうんらんだ。今年も出会えた。思わず口角が上がる。

すっと長く伸びた細い茎が繊細な印象を与えるその花は、去年も一昨年もここに咲いていた。公園のベンチを縁取るように群生している。野の花とは思えないくらい美しい花だ。


「自転車、コマ無し・・・・で乗れるようになったんやねえ」

マユちゃんが、しみじみと言った。
はじめてここで遊んだときから2年が経っていた。


今日はわたしたちだけじゃない。
4人のママと8人の子どもたちだ。

わたしが小1のとき、受験生だったマユちゃんと愛ちゃん。
そのとなりのみっちゃんは当時なんと、赤ちゃん。

年齢も出身地も、家族構成も、趣味だって、4人それぞれ違う。

人生が交錯しているのがふしぎなくらいのわたしたちは、春の公園で笑い合っていた。



「りっちゃん、迎えに行くけん、来週ランチいこ」

マユちゃんが言った。



名前を知ったら、特別になる。
これはずっとずっと前の春、夕化粧に教えてもらった、魔法。




(4,000字)


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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡