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日記 │ 配慮酸欠



ここまでの配慮は必要なのだろうか。
そんなことを、よく考える。



去年、『すくい』という小説を書いた。
実話ではない。でも、わたし自身の困りごとの切れ端も加えている。「配慮」の息苦しさもそうだ。


20代半ばだったわたしは、都内のワンルームで暮らしていた。当時よく言われたのが「ふつうの家はそんなに狭くありません」だった。
戸建てで暮らす人のための代案が求められた。

ところが。
戸建て暮らしになると「家が狭い人が多いので代案を」と求められるようになった。

手仕事や暮らしのたのしみは、「そんなことする暇がないワーママ」への配慮からボツになる。


こんなふうに配慮を求められるたび、わたしの中の何かが死んでいくのを感じる。



もちろん仕事なので最善は尽くす。
それに、驚くような些細な部分に、一般読者からの言いがかりとも取れるようなクレームが来ることも知っている。

けれども、とても長期にわたるこういう積み重ねによって、わたしの「書きたいもの」は変わってきたのではないか。

そんなことを思った。



著書を書くときには「自分」を出してよかった。配慮は当たり前のことだけでよくて。
でもそれは「著者」だからなのかもしれないとこの頃思うようになった。

コラムを書くときは、違う。
「片づけの専門家」という肩書きがあり、記名記事であったとしても、わたしの書くものは数時間でWebの海の彼方に消える、一期一会のものとしての扱いなのである。

手が入ったものを読み返してみると、言い訳が多く説明的な文章だなと思うことが多い。



夜に書斎でパソコンに向かっていたら、娘が「ねむれない」と顔を出した。

みぞれ・・・の本、いつ印刷するの」

みぞれというのは、わたしが娘のために書いた物語の主人公。公募のために先週まるまる寝かせて、昨夜から推敲をしているところだ。



この物語では、「わたしにしか書けないもの」を書こうと思った。
"実用”を物語として書くことだ。

読んで、娘がなにかひとつでも行動に移してくれたら──。

そんなことを祈りながら、けれどももちろんストーリーの楽しさも考えて設計し、一生けんめい書いた。

プリンタの調子が悪くて印刷できていない。
娘が読み終えたのはまだ半分。

けれども娘は続きを望んでくれた。
しかも、すぐに行動が変わっていった。




だれかの背中を押す物語。

わたしが書きたいのはこういうものなのだと改めて思う。
いつかはこれ一本でいけるようにと祈り、精進していく。




(1,000文字)




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