透けるノイズ │ 終章・光と闇
妻が消えた。隠された妻の顔と、彼女が消えた理由とは──。
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1.光
これは公開前の下書きです。
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『 公開しない、記録 』
2025年7月29日22:16
冬河 未零
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目を覚まして、最初に見たのは、拓海の泣き顔だった。
子どものころからずっと知っているけれど、彼が泣いているところなんて見たことがなかった。
ぺた。
ぺた。
拓海はきょとんとした顔をして、私のひたいや頬に触れた。
その間も、絶えず涙が流れ落ちていた。私は曖昧に笑って、言った。
「ただいま」
:*:*:
「しゃーぼんだま、とんだー。やねまで、とんだー」
漣と涼が声を合わせて歌っているすがたを、目に焼きつけるように眺める。
退院後、自宅にもどってくると、リビングの片すみにまっ白な電子ピアノが置かれていた。あれから毎日、子どもたちのリクエストを受けて、ピアノを弾いている。一度聴いた曲を再現できるから、子どもたちには喜ばれている。
──あの事故から100日近い日々が流れた。
水面まで浮上したわたしは、事故で飛んできたと思われる大きな木片になんとか這い上がった。そのまま数時間漂流し、他県まで流されていたようだが、……その間の記憶はない。
子どもたちのペットボトルの船が、私を救ってくれた。漣がつくっていなければ。涼がこっそりリュックに隠していなければ。私はいま、ここにいなかったのだ。
そう考えると、胸がしん、と冷えていく。
意識のない状態で漁船に保護されたこと。
低体温症やくらげに刺された怪我などのせいもあり、数日ほど記憶が混濁していたこと。
そして、リュックの小ポケットのファスナーを閉め忘れ、財布が流されて身分証がなかったこと……。
さまざまな偶然が重なって、身元がわかるまでに1週間近くかかったのだそうだ。
事故の記憶は、じつはほとんどない。
ただひたすら「生きなければ」と思ったことは覚えている。気絶していたようだが、何度か細切れに覚醒はしており、あるとき、ぱっと目を開くと空が薔薇色でうつくしかったのだけが記憶に残っている。けれども濡れて貼りついた衣服がつめたくて、怯えながら少しずつ意識を失っていったこと──。
そうした記憶の欠片が残っているだけだ。
事故の後遺症なのか、ふと、頭のなかに靄がかかったみたいにぼうっとしてしまうことがよくある。
ほかの人には見えないノイズは相変わらず私のなかにあるけれど、いまは、その症状のほうがつらい。気がつくと時間が経っているあの感覚は、そのあいだ、死んでいるようですらあり、気分が悪かった。
「澪」
ふと顔を上げる。拓海が心配そうに覗き込んでいた。私は曖昧に笑うと、拓海の手を取った。彼の手は濡れていて、洗剤のにおいがした。
なにかを噛みしめるみたいに、私のことをぎゅっと抱きしめる。厚い胸板に頭を預けると、私の目からはぽろぽろと、真珠みたいに涙だけがこぼれる。視界の端に、洗い終えたばかりの食器が映った。
「……海の上はね、すごく静かだったんだ」
私ははじめて、漂流していたときの──記憶の断片についた話した。
「寒かった。波や風の音がごうごうと響いていた。でもね、静かで、無色……だった。そのときね、ふだんならできないくらいたくさんいろんなことを考えたの。それで、思ったの」
拓海の身体が強張った。
「私、拓海に家事をしてほしいわけじゃない。分担したいとか、そういうことじゃないってわかったんだ」
「え?」
「家事も育児も、分担しなくていいの。できてないことを責めないでくれたら、べつに、拓海が家事をしなくたっていいんだ。私がひとりで静かに過ごす時間を、ただ認めてほしかったんだって……あのとき、そう思った」
拓海が鼻をすする音がした。
私は彼の背中にそっと手を回す。
もどってきた。もどって、これたのだ。
2.闇(1)
これは公開前の下書きです。
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『 特定された記録 』
2025年5月14日02:28
YJ
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「はい、knockの宮脇が承ります」
電話の向こうは、息を呑むような無音だった。
『宮脇裕司さん?』
低い、でもどこか聞き覚えのある声がした。
「……? はい、そうですが」
『やっと見つけた。YJさんやろ』
俺は、凍りついた。
なんで。なんで俺の職場がバレてるんだ。
『俺がだれか、わかりますよね?』
「未零さんの……」
『そう。……妻のスマホ、返してもらえますよね?』
「な、なんのことですか。俺はなにも……」
電話の相手は、あからさまにため息をついた。
『やっぱり通報するしかないか』
「つ、通報?」
『当たり前じゃないですか。妻のスマホを盗んだんですよね?』
「ち、違います! 俺はただ、落ちてたのを拾っただけやけん……あ」
『はは、語るに落ちるってやつやな! この通話、録音してるので悪しからず。で? 返してもらえますよね? 宮脇裕司さん』
「……」
『はー。もう、ええて。お店の責任者の方、出してもらえます? 妻は大事にしたくないって言っとったんですよ』
「見つかったんですか」
『ええ。なんとか。妻はあなたのことを信頼してるみたいで。彼がぬすむはずなんてない、とね。でも正直、俺は腸が煮えくり返っとるんですよ。いろいろとね』
しん、と冷えた言葉に、背筋が粟立つ。
「……未零さんのスマホ、お返しします。どこに行けばいいですか」
『あ、もう来とるんで大丈夫ですよ』
男は途端に明るい声を出した。
驚いて店の入口を見る。硝子扉の向こうに、背の高い、スーツ姿の男が立っていた。あの日、書店で声をかけてきた男──間違いなかった。
「いま、手元に……ありません」
俺は小声で言った。
『逃げんなよ』
低い、声だった。硝子扉の向こうで、人の良い笑みを浮かべて、手をひらひら振りながら。
『そうそう。俺があんたを特定したことも、あんたが妻を特定したことも……。他言無用やけん。妻も薄々感づいとって、それでいて、通報せん道を選んどるのかもしれんけど。あほなくらいお人好しやからな』
「え?」
『妻は、詳細を知らんけん。──これ以上、心を乱すな』
地を這うような声に、ぶるりと背筋が冷えた。
「……未零さんは、無事なんですか」
俺が尋ねると彼は意外そうに片眉を上げた。
『……助かったんは偶然。死なんかったのがふしぎなくらいやわ……。奇跡やって。運がいいんやろうな』
芸術祭の数すくない休島日にあたる。誕生医に船は炎上してひとりだけ海に落ちる。──どう見ても不憫に見えたあの人は、このときのために運を貯め込んでいたのだろうか。そう思えてならなかった。
『とにかく、あんたのことは一生許さんし、なんかあったらすぐ公表するけんな』
あのあと、彼と待ち合わせて、スマホを返却した。
頭のなかを整理したくて、この下書きを書いた。 でも……俺、終わったかもしれん。
3.闇(2)
「おはようございます」
「おはようございまーす!」
「……おはようございます」
行き交う母親たち、時々、父親たちが、挨拶を交わしている。
幼稚園のエントランスをくぐってから、教室に送り届けるまでの、いつもの風景だ。
真鍋安奈は、鼻歌をうたいながら歩いていた。娘の柚香は通路脇の花が気になったようでしゃがみ込んでしまう。
「さっさと歩けやおまえ」
安奈は柚香の腕を強く引いて立たせた。
それからふと、周りにだれもいないことを確認して、細く長い息を吐く。しんどい。とにかくしんどい。もうつかれた。
なんで私だけがこんなに苦しいんだろう。父親が送ってきている家庭。じいじやばあばの手厚いサポートがある家庭。妬ましい。不幸になればいいのに。私と同じところまで、堕ちてこいよ。
安奈にはそのどちらもない。ろくでもない夫と別れた。実家は毒親で、頼れない。なんとか息を潜めるようにして暮らしている。
何度も立ち止まりながら、ようやく柚香を教室へ置いてきた。
いらいらしていた安奈は、ふー、とため息をつきながら、通路の端によってスマホを開いた。noteのボタンをタップする。通知は……ゼロ。
安奈は爪を噛んだ。
「おはようございます」
さっとスマホの角度を変える。あの女の……冬河未零の、夫だ。最近見ないと思っていたが、晴れやかな表情でそこに立っていた。
「ちょっと柚ちゃんママに相談というか、聞きたいことがあって。3分だけお時間いいですか?」
「え、ええ……」
「そしたら、漣と涼を預けてくるけん、ちょっと待っとってください」
自分よりきっと5歳以上は年下の”漣くんパパ”の、ぱりっとアイロンのきいたワイシャツがやけに眩しく見えた。
「おまたせしました。前にお聞きしたことで……」
「漣くんママの不倫……のことですか」
目の前の男の表情がごっそりと抜け落ちた。それから彼は取り繕うように、完ぺきな笑みを浮かべてみせた。
「その日のことやけど、どうして知っとるんですか?」
「え?」
「冬河未零が船の事故に巻き込まれたってこと」
まるで時間が止まったような感覚を覚えた。
「えっと、澪さん、事故に……?」
「とぼけなくてもわかっとるんですよ。投稿しとったやないですか」
「な、なんのはなしですか」
「……あんたも港におったんやろ? イヲリさん」
ひゅっと息を飲んだ。男はにこにこしながら、小声で言った。
安奈はなにが起こっているのかわからず、ただ目線を彷徨わせた。どこを見れば正解なのかわからなかった。送りの時間を過ぎた園には、安奈と澪の夫しかいない。
すぐそばの木で、じわじわと蝉が鳴きはじめた。夏めいてきた強い陽射しが、じりじりと腕を焼いた。
「イヲリ……? なんのことでしょう」
安奈はなんとか口角を上げて尋ねた。男は笑ったままなにも言葉を発しない。それが奇妙で怖くて、安奈は「失礼します」と振り向き、駆け出した。
「逃げてもむだやけん」
背中に冷えた声が刺さる。安奈は、イヲリはおそるおそる振り返った。”漣くんパパ”は人の良い笑みを浮かべて立っている。
「港には、芸術祭のあいだだけ、テーブルセットが置かれとるんよ。そこでパソコンをいじってたあんたのことを、覚えとる人がおったけん。後ろから画面も覗いたらしくてな。──言い逃れはできんよ」
「なんでそんなこと……」
男は、プリントアウトされた写真をひらひらと振って見せた。
園の保護者ならだれでもアクセスすることができる、行事撮影の写真を注文するためのサイト。クラスが違ったとしても、……購入、できる。
「あ……」
「で? なんでああやって事故のことを拡散したり、園では不倫だとか騒いだりしたんかなあ。というか、柚香ちゃんと漣って、クラスかぶったことすらないんやろ。『おともだちじゃない』って漣が言っとったよ?」
「そんな……私は、ただ……」
冬河未零が眩しくて、羨ましくて──妬ましかった、だけ。
彼女が受賞したコンテストに、安奈は何作品も応募していた。子どものころからずっと作家になることだけを夢見ていた。身バレするのは怖いから、自分とはまったく別人のアバター”イヲリ”をつくって。
人生でいちばん楽しかったあのころ──大学生だったころの自分を演じていた。
その先に待つ輝かしい未来を信じて。
”漣くんママ”が冬河未零だと気づいたのは、偶然だった。
noteやSNSに掲載された持ちものや場所の写真に見覚えがあったのが違和感のはじまり。それを手繰り寄せていって、ある日、お迎えのときに確信した。
はじめは彼女に近づこうとした。だが、挨拶は返すが、目線を合わせることすらない。なんだかむっとした。えらそうに。
そう思ってから、彼女の書いたものをどんどん遡って読んだ。
未零の文章は、感性は、ほかの人とは違っていた。もし”見つかった”ら、すぐにでもデビューしてしまいそうな完成度があった。でも彼女は、作家を目指すようになったのはここ1年のことだという。くやしくて、許せなかった。
たぶんきっと、誰よりも冬河未零に詳しくなった。出身地、好きなもの、子どもの服……。そうした断片的な情報をすべてつなぎ合わせていき、確信を持ったのだ。
未零は、となりのクラスにいる母親だ、と。
そしてあの日──。4月22日。柚香を園に送ったあと、瓦町まで出ようと電車に乗った。街中に行くと、駐車料金がかかるので、いつも電車を利用しているのだ。コワーキングスペースでnoteを書こうと思っていた。
すると、幼稚園からほど近い駅から寒川澪──冬河未零が乗り込んできたのだ。
となりの車両だったので向こうは気づかなかっただろう。そもそも、安奈のことを認識しているかすら怪しい。
ふだんとは違う服装に違和感を持って尾けていくと、未零は船に乗り込んでいった。そして、出港するときに、安奈よりも未零よりもずっと年若い、整った顔立ちの男性と楽しげに談笑しているのが見えた。もう、許せなかった。
安奈がほしいものをすべて持っている。それでいて、不倫までしているなんて、穢らわしい。──壊してやりたい。平穏な日常を、すべて。心にそんな考えが滲んだ。でも、実行しなかった。
その夜、船の事故のニュースを見た。未零が乗っているかどうかはわからない。けれども、園のお迎えに間に合わせるなら、あるいは。その予感は、翌日通園して確信に変わった。
子どもの送迎で一度たりとも見たことのない、父親が子どもたちを送ってきていたのだ。彼はひどく憔悴しており、目の下には隈ができていた。
さらに次の日も、送ってきたのは彼だった。ワイシャツがくたっとしており、無精髭が生えていて、妻のいない生活の不安定な感じが滲んでいた。助かった人数と乗船していた人数が合わないらしいというのはネットの情報で知っていた。あの船には乗ったことがあるが、その場で身分証の提示など必要なくチケットが買えるから、身元はわからないだろう。
冬河未零はきっと、死んだ。
不倫なんかするからバチが当たったのだ──!
乾いた笑いが漏れた。それを声高に叫びたかった。だからただ、スクリーンショットを載せただけだった。
それなのに、死んだはずの未零が投稿をはじめた。
「ここだけの話なんだけどね」
男が、未零の夫が声を潜めた。
「イヲリさんが船で見た男性はYJさんだったんだ」
「YJさん……? うそでしょ?」
noteをはじめた当初から親しくしていた男性だった。
「彼はね、未零の投稿から、妻を特定した。そうして尾けてきて、一緒に船にまで乗り込んだんだ。……気持ち悪いよね?」
彼は爽やかな笑みを浮かべる。安奈も同じことを、……していた。まるで自分が言われたみたいに心がしんと冷えていく。
「でさ、あのYJさんの投稿。乗っ取りだったんだよ。未零が一瞬だけ行方不明になったのは本当だけど、そのとき紛失したスマホを使って、彼が、未零を自殺に見えるように誘導したんだよ」
「ひどい……」
「だろ? イヲリさんは、本当のことを書いてたのにね。事故にあったんじゃないかって。──ちなみに彼、美容師なんだって。街中のknockっていう店の」
その夜、”イヲリ”は、未零が「誘拐されていた」という投稿を上げた。
その投稿はたくさん拡散され、読まれ、ハートがついた。投稿の最後に取ってつけたように貼られたとある美容院のリンクもたくさんの人がタップしたようだ。
さらに次の日、YJが仕返しとばかりに”イヲリ”が大学生ではなく、39歳の主婦であることを暴露した。
2つのアカウントは、ほどなくして消えた。
4.光
『お知らせ』
❤102 2025年5月24日 23:46
冬河未零
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お騒がせしてしまい、すみません。
いろいろな出来事があり、なにから書いていいのか──。まずは、いろいろあって4月末から体調を崩し、入院していました。その間に”乗っ取り”にあったみたいで。
出先でスマホをなくしたんです。下書きに書き溜めていたメモが公開されて、一部は書いた覚えのないことまで付け足されていて、正直、驚きました。
誘拐されたというはなしも、まったくそんなことはありません。
そちらも解決したので、すこしずついろんなことを書いていきたいと思います。
公開ボタンを押すと、澪はふう、と細く長いため息をついた。
部屋のすみでは、観葉植物が窓越しの光に揺れていた。
デスクの前でうーんと大きく伸びをする。家にもどってくると、電子ピアノ以外に増えていたものがあった。それは1畳ほどの作業部屋だ。
リビングのテレビで自然音を流して、聞きながら作業を進める。頭のなかにあるノイズが少しずつ薄くなっていく。
《もうすぐ帰る》
拓海から連絡が届いていた。
ひび割れたスマホ画面を、なぞる。
失くしたスマホは、ほんとうはぬすまれていたらしい。なにがしたかったのかわからないけれど、下書きがいくつか公開されていた。まだ推敲していないのに。恥ずかしい。
でも夫が──拓海がどうやったのか取り返してきてくれた。
書いていた文章を、読まれてしまった。でもとくに内緒にしているわけではなかったが、なんとなく気恥ずかしくて言い出せなかったnoteのことや、小説の書籍化も、拓海に話したらずいぶん気が楽になった。
澪はパソコンを閉じると、立ち上がって掃除機をかけはじめた。掃除機の低いうなりが、夏の午後の静けさをぬりつぶしていく。目の前に淡い緑のセロハンをかけられたような気分になった。
充電スタンドに戻す。とたんに世界の音が、消えた。
テレビで雨音の動画を流す。もう一度、パソコンに向かう。
どれくらい経っただろう。
窓の外から、車の音が響いてきた。低くうなるような音が近づいてきて、家の前で止まった。
公園に行っていた拓海と子どもたちが帰ってきたのだ。澪はぱたぱたと玄関に駆けていって、ドアを開けた。
「ママ!」
子どもたちの口から、色がこぼれ出す。透けるノイズは消えない。でも、澪はふたりを抱きしめ、そして、夫を見つめた。
「──おかえりなさい」
澪の腕のなかで、子どもたちが跳ねるように笑った。
拓海は目をほそめて「ただいま」と言った。
『透けるノイズ』・完
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