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エッセイ │ 許される駅



許されるために、電車に乗る。






両腕をさすった。

薄手のふわっとしたスカートは、下半分がぐっしょりと濡れて冷たくなっている。

ベンチに腰を下ろすと、太ももまでしんと硬くなっていくようで、私は背負っていたリュックを下ろし、膝のうえで抱きしめるようにして暖を取っていた。

空を透かすように雨が降ってくる。

目を細めなければ気がつかないくらい繊細で、音もない。それでいて、ホーム上の屋根から不規則に落ちてくるしずくは、白くにごった大粒で、ぼつぼつと弾けながら存在を主張している。




ホームに電車がすべり込んできた。

やっと、呼吸がしやすくなる──。

そう思ったとき、窓越しに見知った顔と目が合った。

子どもの幼稚園の、先生だ。



「かようびのあさ午前中は青組さんが電車に乗って出かけるんだって」


こないだ息子がそう言っていたのに、すっかり忘れていた。

「あ」という形にぽかんと開いたままの、先生の口もとから目が離せなかった。
ほんの一瞬で笑顔に変わったのだけれど、その裏側に瞬間的に浮かんだであろう疑問符を、感じ取ってしまった。


こういうときはどうしても、"あのころ”に戻りたいと祈ってしまう。




「ランチ、行きませんか」という同僚の言葉に飛びついた。まだ、薬指のリングもなかったころの話だ。

首から下げたIDカードを裏向きにしてエントランスを抜けた。

オフィスを出ると、日差しが染みるくらいまぶしい。
正午ちょうどの千代田区は、歩道の前からも後ろからも人が押し寄せてくる。

私たちは頬につたう汗をぬぐいながら、流れに逆らうように、なんとかカフェにたどり着いた。


車に詳しくなかったので知らなかったけれど、とても高級そうな一台が路肩に停まっている。

「すごい……」

同僚が、ぽつりとこぼした。

「車って、貴族の乗りものですよね。自宅に駐車場がないとむりだし、どこに行くにも駐車料金が高い。それに加えてガソリンだなんて」

彼女は身震いする。

私は「自分だけの空間で移動できるって、ものすごく快適なんでしょうね」と、朝の満員電車を思い出しながら顔をしかめた。
「涼しいんだろうな……」という声で、エアコンの効いた店を出るのが憂うつになった。




(でも。貴族の乗りもの──じゃないんだよね。ここだと)

講習室が明るくなった。
私は気分を変えるためにもそんなしょうもないことを思い浮かべた。

「交通事故の死者数において、香川県は、長年ワースト上位におります。いま一度、交通ルールを……」

心臓がいやな感じにどきどきしていた。
講習ビデオの事故のシーンが頭から離れない。

免許更新は5年ぶりだったけれど、毎回、この時間が苦行である。



やだやだ。もうやめて。
聞きたくないんだって。見たくない。思い出したくない──

雨の夕方、部活中に放送で名前を呼ばれたこと。いつも理不尽な学年主任がはじめて見せた同情するような顔。ニュースで流れる名前のテロップが嘘みたい。書いたんだよ。今年の年賀状の宛名も。祖父の名前。




手もとの資料を見ておどろく。

「一年でふた桁、なんだ」

毎日のようにあちこちで起こっているものだと、そう思っていた。

だって私の周りには4人もいる。
祖父の事故も、いつかの免許更新で、こうして無機質な数字の一部になっていたのだろうか。



むなしい気持ちで免許証を受け取り、センターを後にした。

「寒……」

コートの前をしっかりと合わせる。
センターの駐車場を出ると、住宅街が広がっていた。閑静な場所なのに、何度もすれ違う車から視線を感じる……ような。
そんなの思い込みだと、ふるふる頭を振る。

『終わったよ』と夫に送ると『マジか』と帰ってきた。時間をつぶそうと出かけたので、もう少しかかるという。

『カフェ行くからだいじょうぶ』

家から自力で来る手段は、ないに等しかった。
他県に行けるくらいの時間をかけなければ。



かなりの距離を歩いた。
ようやくカフェに落ち着いたところでスマホが震える。

『どこおるん? 近くまで来たんやけど』

私はまだ熱いカフェラテを小分けにふうふう飲み干すと、店を出た。



一瞬、だった。

さっき歩いてきた長い道が、車窓の向こうへ吹き飛んでゆく。暖房の効いた車内はいつも静かで、BGMがある。

助手席からは、道ゆく人がよく見えた。

シルエット、年齢感、装い、顔立ちや表情まではっきりと。
学生でもお年寄りでもなく、健康そうな見た目で、ベビーカーも押しておらず、仕事中でもなさそうな装いの、私のような女は、ひとりもいなかった。






JR高松駅を振り返ると、許された気がする。
駅舎が、笑っている。



東京を離れてから歩くのが得意になったから、ここから4、5駅くらいだって歩いていけそう。

でも、あえて、ことでん・・・・の駅へ向かう。





ことでん「高松築港」駅は、私が知っているなかでも一番うつくしい駅だ。

整然とした街中の大通りに位置し、駅のホームからはお城の掘が見える。


電車を待つ私の髪の毛を揺らすように、潮の香りを纏った風が爽やかに吹き抜けていく。
手すりの向こう側には翡翠色ににごった水が広がっている。たまに見える魚影は鯉じゃない。お堀は海水だから、泳ぐのは真鯛やフグ、黒鯛など。



電車に揺られること、たったひと駅。

ことでん「片原町」駅で降りると、わくわくしてくる。



駅前は静かなのだけれど、すこし歩いていくと、中心地のなかでもいちばんにぎやかで、そして美しい場所にたどり着く。


ガラス張りのドーム型の屋根に包まれた、アーケード商店街!
ここでは、旅行者もビジネスパーソンも、学生も主婦も、だれもが等しく歩いている。




去年から、美術館に通うようになった。なにげなくいつもと違う道を通って見つけたから。

平日の午前中ならすこし空いている。
しん、と音が吸い込まれそうなくらい静かな場所で、じっくり絵を見ていると、あっという間に1時間も2時間も過ぎてしまう。

絵を見るだけなのにこんなにたのしいだなんて、電車に乗らなければ知らなかった。


すぐそばには、宮脇書店の本店。
2棟のビルにぎっしり本が詰まっている。子どもの本を買うために最上階まで登る。太ももが痛い。呼吸も荒くなる。

けれども、それすらもうれしい。




月に2回あるかないかの高松駅へ行く日は、朝ごはんを多めに食べて出る。

店で食べるのはたまに。
本場ならではのつるもち食感のうどんに舌鼓を打ち、イタリアンの本格的なパスタに感動し、隠れ家的なカフェで静かにもくもくと食べたりする。


それから近隣のカフェやファミレスにこもって、時間がゆるす限りパソコンに向かう。


最後にたどり着くのは、瓦町駅。



瓦町のホームに立つと、ちょっとだけ、泣きたくなる。

ことでんの中でも、瓦町駅だけの特別な発車メロディがある。
くるり作曲の「コトコトことでん」。すっかり聞き慣れて、頭のなかの鍵盤でもメロディを奏でながら電車がすべり出す。

その瞬間、いつも、淋しくなる。








「そろそろ運転しないとね」

「いつ、運転するん?」

「車がないと子どもが可哀想よ」










そういうとき私はただ苦笑いしたり、視線をそらしたりする。
むっとしているときもある。

でも頭のなかではいつも謝っている。

この土地ではだれもがこなしている役割を、ただ不安だから怖いからと、理由もなく放棄している自分のことは──私が一番よく知っている。





だって私は、そうやって、母のことを責めていた。






土砂降りだった。
なにか用事があって帰りがすこし遅くなった。たぶん十歳。そう思うのは、玄関に同じクラスの男子が立っていて、彼といっしょだったのは4年生のときだから。

目の前がまっ白になるくらいの雨の中、彼は、すぐそばに停められたピンク色の軽自動車に乗り込んでいく。扉を開けた瞬間、表情がゆるんだ。あったかそう。
発進した車はあっという間に遠くなり、見えなくなった。


私は意を決して外に出た。
水のなかに飛び込んだみたいだった。髪の毛も服も、すぐにずぶ濡れになっていく。前髪から滝のように流れてくる雨が、目に入って痛かった。
家につくころには、靴の中はたぷたぷと音がするくらいになっていて。

なんで私は迎えに来てもらえないんだろうって、そんなことを、思っていた。そんな母も、私が成人したあとに運転をはじめた。




自分が祈るように願っていたのに、同じことを、私は、子どもたちにしている。





そう遠くない未来、私はハンドルをにぎるのだろう。







『凛さん、車、乗っていきますか?』

バスケ観戦に誘われた前夜、そんなLINEが届いた。
申し訳なくなりながらも『パパいるから大丈夫です。いつもありがとうございます!』と絵文字を添えて送る。

こうして助けてもらってばかりなことが心苦しい。大人なのに。




今回の試合会場はJR高松駅に隣接した、新しいアリーナだった。


車ではほとんど行ったことがない。

夫はいつものように、音楽を流した。カーポートからすべり出し、しばらく住宅街を走る。大通りに出ても、歩いているひとなんていない。
だからこそ、たまに見つけると、その人のすべてが目に飛び込んでくる。遠くにぽつんと点のように現れてから追い越すまで、7秒くらいある。






ここは、片原町の近くだろうか。道路の両脇に何人ものひとがいるから、だれかを認識するのはむずかしくなっていった。





試合が終わった。




子どもたちを連れて移動していく。

「シールがほしい」
「おなかすいた」
「現金を下ろさなくっちゃ」

次々出てくる困りごとやリクエスト。

「シールは駅ビルにあるかも」
「そっちに曲がるとうどん屋さんがあるよ」
「コンビニそこです!」

検索しなくてもすぐに解決できた。だって、ここはJR高松駅だから。







「凛さん、香川県民じゃないのにめちゃ詳しい」

ママ友たちが、ころころ笑いながら言った。



許されるために電車に乗っていた。

でも今では高松駅も築港駅も片原町も瓦町も、どこを歩くのも幸せで。ハンドルをにぎるようになったとしても、わざわざ何度も乗り換えてここにやってくるだろう。



だって、好きな駅だから。








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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡