ロゼットに落ちる春[短編小説]
こっくりと赤いルージュを塗って家を出た。たった一つのいつもと違う行動が、私の運命を変えたのだと思う。
まるで浅瀬に漂っていた硝子の欠片が、強い波に攫われて沖へと押し出されるような、――そういう抗えない力が働いていたようにしか思えない。
あの頃の私は、胸の奥がしんと冷えるような寒さをいつも感じていた。
ふだんなら絶対に選ばない、こっくりとした深い赤色のルージュ。その口紅を手に取ったのは、ほんの気まぐれだった。このご時世だ。誰かに口元を見られるわけでもないのに。
眠らせておくのももったいないから、新しい洋服に合わせてみようと思ったのだ。
とても濃く見えるのに、塗ってみると思いのほか肌に馴染んだ。きっちりとしたほうが似合いそうな気がして、くちびるの輪郭を丁寧に描き込み、最後に指の腹でぬぐってぼかした。くちびるの色を変えただけなのに、どこか勝ち気な、自信のある顔になって驚く。
今度は、ぼんやりとした目元が気になり出した。目尻のラインをいつもより上向きに跳ねさせてみる。それに合わせて眉毛も少しだけ濃く長く、きりりとさせてみる。すると、鏡を見ているのだと忘れるくらい、違う顔の女がそこにいた。
口紅を丁寧にティッシュで押さえて、色を少し落とす。それからマスクに付かないように、粉をはたいた。
口元を隠してしまうと、見知った地味な顔の女は完全に消えてしまった。
私は、自分の顔がきらいだ。
ひどく醜いというわけではない。お世辞でかわいいと言ってもらうことはあるけれど、たいてい小動物のようだと評される。
歯に衣着せぬ性格の姉は、私のことをいつも齧歯類のようだとあげつらっていた。
姉が言うほど歯並びは悪くない。――と、自分では思うのだけれど、彼女の言葉は私の心の深くに沈み込んだのだろう。
いつからか、歯を見せて笑うのがいやになっていた。写真の中の私は、いつもぎこちない表情をしている。
ああ、でも、極めつけの出来事があった。
はじめての恋人に「顔がきらいだから」という理由で振られたことだ。彼と別れてそろそろ五年になるけれど、あれから恋人ができたことはない。
暗いニュースが続くこの世界だが、口元を隠して生活できることだけは、私にとっては僥倖だった。
新しい口紅を塗ったら、少しだけ行動も変えてみたくなった。
家を出る時間を、十分だけ早めてみたのだ。忘れ物がないかざっと部屋を見回して、玄関を出る。
私が暮らしているのは、坂の途中にある、築三十年のマンションだ。とはいえ、外観も居室もリフォームされている。
このマンションはロの字型になっていて、中庭に出るとすべての部屋の玄関がずらりと見渡せるような造りになっていた。
誰も使うことはないけれど、そこにはベンチがあり、外国の風景のように見えることがある。
春空は透けるように明るく晴れていて、やわらかい風が吹くたびに、ベンチのそばに植わった冬青の葉が擦れ、さわさわと心地の良い音が鳴っていた。
ここに引っ越してきたのは今から四年前。大学生になったときだ。
私の住む部屋は、そのときリフォームを終えたばかりで、新築のにおいがしていた。
見知らぬ土地で新しい生活をすることにわくわくした。心の拠り所が見つかると、そう信じていた。
マンションの一階には、喫茶店がある。
少しレトロな看板があり、窓硝子はぼんやりと曇っていて中が見えにくく、一見さんお断りというような雰囲気だ。
気になりながらも、私は一度も入ったことがない。でも、店の前にある看板のフルーツサンドの写真がおいしそうで、ずっと気になっている。
大学へ向かおうとして、ふと、喫茶店の前のコンクリートの割れ目から、二輪の花が立ち上がっているのに気がついた。
一つは私の名と同じ、紫色の花。
そしてもう一つは、そこかしこでよく見かける花だ。
その花は、中心にぽちりとある黄緑色のめしべが目立つ。
よく見ると、先端に雪の結晶のような模様がついており、めしべの周りには、黒っぽく細かい雄しべだろうか、糸状のものがある。
そしてさらに外側に広がるのは、四枚の花びらだ。薄い橙色のそれは、ドレスの裾がふわりと広がっている様子に似ていた。
さほど環境の変わらぬ隣県とはいえ、あれが山奥の街だったからだろうか。
ふるさとでは見たことがないこの花の名前が気になって、調べようと思いながらもう四年目だ。
ふと思い立って寄り道をすることにした。それが私の運命を大きく変えた。
そのときは名前を知らなかった薄橙色の花と、すみれの花は、絡み合うようにして、風にしなやかに揺れていた。
長海くんに出会ったのは古書店だった。
大学の近くに、植物に関する本を専門とした古本屋があるのは前から知っていた。私の通学ルートからは外れていたから、立ち寄ったことはない。
古書店というと、いかめしい顔の頑固なおじいさんや、線が細くて気難しい眼鏡のおじさんがやっていそうな先入観があったのだが、店主は意外にも若い女性だった。
二十代後半か三十代前半くらいだろうか。ウェーブがかった髪の毛を後ろでゆるくまとめ、やる気がなさそうにあくびをしている。
基本的に話しかけてくるつもりはないらしく、彼女はこちらを一瞥することもなかった。
知らない人と話すのが苦手な私にとってはありがたい環境だ。
初めて入るその店の様子にわくわくし、棚に並ぶたくさんの本の書名を、一行一行静かに眺めた。
授業が始まるまでにはまだたっぷり時間がある。たまに手に取っては、どの本を買うか悩んでいた。
「もしかして、植物図鑑を探しているんですか」
ふと降ってきた声に驚いて顔を上げる。信じられないくらい美しい男の人が、私の顔を覗き込んでいた。
口元はグレーのマスクで覆われているのだが、鼻筋がすっと通り、くっきりと二重を描く瞳は色素が薄く、グレーにもブルーにも見える。
もしかすると、日本の人ではないのかもしれない。近寄りがたい、氷のような高貴な美しさとでも言えばいいのだろうか。
その人は灰色のゆるりとしたシャツの上に、オーバーサイズの黒いジャケットを重ね、黒のスキニーパンツに黒いスニーカーを履いていた。
見上げるほど背が高く、引き締まった身体をしていて、下げている鞄は高価に見えた。
「――ええ」
しばらく見とれていた私は、ようやくそれだけ絞り出して、ふと気後れし、いつものようにうつむいた。
「差し支えなければ、どんな内容か伺っても?」
そのまま話しかけられたことに驚いて、ぱっと顔を上げる。
馬鹿にしているような感じも、不快感も見当たらない、どこまでも純粋な目に思えた。
「--雑草の本です」
私はおずおずと切り出す。そして、道端で見かける花で、名前が気になるものがあるのだと告げた。
こんなことを言うと、スマホで調べればいいと返されるだろうか。ドキドキしていると、彼は目を細めて笑った。そして、信じられないような言葉を放ったのだ。
「野の花ですね。美しいあなたによく似合う」
古書店で出会った美しい男の人は、名前を長海颯太といった。
同じ大学の学生で、私の一つ年下だという。
どうしてだかあの後、一緒に古書店を出て大学に向かい、授業のあとにお昼を食べる約束になっていた。
しかも、気がつくとスマホの中に彼の連絡先が入っていた。
すべてが非現実的で、上の空のまま授業を終えると、学部棟の入り口の前に、とてもきらきらした人が立っている。
同じ学部の女の子たちは、興奮した様子で、遠巻きに彼の様子を眺めていた。
長海くんは、私を見つけるとぱあっと顔を輝かせ、手を大きくぶんぶんと振った。
怜悧な美貌がくしゃりと歪んで、子犬のような可愛らしさに変わり、私はどきっとした。
だれか他の人に向けられたものなのではないか、勘違いしていたら恥ずかしい。そう思った私は周りをきょろきょろと見回したのだが、長海くんは私の名をはっきりと呼んだ。
そんな私の様子がたいそう面白かったらしく、長海くんはしばらく笑い続けていた。
ランチに向かったのは、大学の裏手の山にある小さなカフェだった。
私は新しいことを始めるのが苦手だ。だから、ここにカフェがあることは知っていたし、気になってもいたのだけれど、前を通るだけだった。
長海くんは手慣れた様子で注文をする。女の子とこういうところに来るのに慣れているのだろうか。
私の心に黄色信号がちらついた。彼はそんな私の様子を気にすることなく、他愛のない話を続けている。
やがて目の前に運ばれてきたのは、檸檬の爽やかな香りのする綺麗な色のパスタだった。
「ここのレモンクリームパスタはすごくおいしいんだ。きっと、すみれさんが好きな味だと思う」
彼は私のことを、すみれさん、と呼んだ。その言い方は柔らかくて、そしてどこかくすぐったかった。
ほかほかと湯気を立てるパスタを前に、ふいに緊張して胸が嫌な音を立てた。
マスクをはずさなければいけないと思い至ったのだ。
とりあえず化粧ポーチを片手にお手洗いに立てこもっている。
少し崩れたメイクを直しながら、気持ちを落ち着ける。――マスクを外したくない。顔を見られるのが怖い。
目元はメイクでいくらか誤魔化せるけれど、ほかはそうじゃない。この少し低くて丸い鼻や歯並びの悪い口が見えてしまったら、あの美しい人はどう思うのだろう。
何かが始まりそうな予感があるのに、終わってしまうような気がして足がすくみそうになる。
とはいえ、ずっとこのままでいるわけにもいかない。
私は大きく深呼吸をして、マスクを付け直した。そこには知らない顔の女がいる。いつもの私じゃない、その顔。それが少しだけ、勇気をくれた。
あの人をいつまでも待たせていてもいけない。私は意を決してお手洗いを出た。
長海くんはすでにマスクを外して待っていた。想像していた通りの、いや、それ以上の美貌にはっと息を飲む。
男の人に美貌だなんて変かもしれない。でも、それ以外の表現が思いつかなかった。
マスクに隠されていたのは、形の良い鼻と薄く整った酷薄な印象のくちびる。まるで海外のモデルのような美しい顔立ちだ。
彼に見惚れる一方で、私は身体がこわばるのを感じた。また、顔が嫌いだと言われたら、――と。
その不安は杞憂に終わった。私の素顔を見た彼の頬がみるみる紅潮したのだ。
「マスクを付けているすみれさんも美人だけど、外すと可愛くて好きだ」
長海くんは、恐ろしく整ったその顔に柔らかい表情を浮かべて言った。これは、新手の結婚詐欺ではないだろうか――。それとも、この口紅の、魔法?
そんな馬鹿なことを考えるくらいには、私は動揺していた。
嘘をついているふうではなかったが、どうにも訝しく思って、食事の間中彼の目をじっと見つめ続けてしまった。
目が合うと、ときどきふっと視線を落とすその仕草は、つい数日前に私を好きだと言ってくれたバイト先の後輩と同じものだった。
食事を終え、ふたたび化粧室でメイクを直す。少し色の落ちた口紅を、丁寧に塗り直した。
この口紅を私に勧めたのは、百貨店の店員だった。そのときは買わなかった。けれども、どうしてだか私の手元へやってきた。
まるでなにかの巡り合わせのように。
あれはほんの十日ほど前のことだ。いつも使っているコーラルピンクのリップがなくなった。
どこかに落としてしまったのか、すとんと消えたのだ。
思いつく場所を探したけれど見つからず、バイト帰りに、同じメーカーの同じ型番のものを買いにいくことにした。
ファンデーションもそろそろなくなりそうなのでちょうどいい。
もう少し明るいものを試してみたいと思い、ネットで買うのではなく、店舗まで足を伸ばしていた。
ところが、失念していた。
前に来たのは一年以上前。世界の構造が変わるよりも前のことだった。
あのころは、インフルエンザの時期でもないのにマスクをして歩くと少し悪目立ちしてしまい、こんなふうに行き交う人の誰もが顔を隠しているなんて、当時の自分から考えるとまったくの異世界だ。
この社会情勢の影響がメイクにも出ているのに今さら気がついた。
久しぶりに訪れたコスメ売り場では、タッチアップどころか、手の甲に少し塗って発色を確かめるというようなこともできなくなっていたのだ。
ファンデーションを新調するのは諦めようと、前回と同じ型番のファンデーションと、コーラルピンクの口紅に手を伸ばす。そのとき、横から間延びした声が投げかけられた。
「なにをお探しですかぁー?」
その人は、シックな黒い制服に身をつつみ、明るい茶髪を後ろで複雑な形に結い上げていた。
ふさふさとしたまつ毛に、きりりと跳ね上がった目尻の、迫力のある美人という感じだったので、華やかな見た目にそぐわない舌足らずな話し方に、ちりちりとした違和感を覚えた。
「ええと、口紅と――」
「リップはこれが新作ですよぉ。うん、似合いそう! ほら、深い赤です。綺麗でしょう?
お客様はこういうぱきっとした色が絶対合うはず!」
妙に馴れ馴れしく、また、こちらの言葉を遮るように畳み掛けるように話すその女性に、なんとも言いようのない苦い気持ちになる。
そして、暗にそんな可愛い色は似合わないと言われたような気がして、卑屈にも私は気後れし、勧められた色を手に取った。
でも、彼女の見立ては間違っている。私に濃い色は似合わない。
たとえ地味な顔であろうと、私に似合うのは薄いピンクや淡いオレンジ色なのだと知っていたし、そして幸いそういう色が好きだった。
「どうですか? よく見てみてくださいね! 絶対似合うから。それにね、この新作の口紅はSNSでも話題なんですよ。
新しい自分になれるリップって言われてます! 商品名も素敵なんですよ。“運命の恋人たちのリップ”です!」
店員の女性は目を細めて力説しながら、私の肩に触れた。
そのときだった。私の中で燻っていた悪感情がぶわりと吹き出した。
だが、それは彼女に向けられることはなく、しゅん、としぼんだ。
「やっぱり口紅はやめておきます。ファンデーションのBE007をいただけますか?」
気をつけたつもりだったけれど、声にはやや刺々しい感じが出てしまったように思う。だが、店員の女性は、気にすることなく「わかりましたー」と軽い感じで言うと、一旦奥へ戻っていった。
ややあって女性が戻ってきて、私の手にバインダーを押しつけるようにして渡す。
「今のうちに記入しておいてくださいね!」
前回来たときは作るかどうか聞かれたので断ったのだけれど、こんなふうに押しつけられてしまうと断りづらい。
億劫に感じながらも、彼女にそう告げること自体がさらに面倒に感じて、私は渋々、名前とほとんど使っていないメールアドレスだけを記入した。
「お客様~、ここ抜けてます。ご住所とお誕生日も記入してください」
女性店員は困ったように眉を下げ、口を尖らせながら言う。
連日のバイトの疲れもあり、内心ため息をつきながら住所と誕生日を書いた。後から考えると、なにも本当の日づけを書く必要なんてなかったのだ。
疲れていたのか、――それとも、本当は寂しかったのだろうか。
「――え! ええっ! お客さま、今日お誕生日じゃないですかぁ。おめでとうございます!」
女性が大仰に言うと、店内にいた他の店員さんたちも、口々に「おめでとうございます」と微笑む。
私は苦笑しながらありがとうございます、と告げた。
「そしたら、お誕生日なんでラッピングしておきますね!」
彼女はるんるんと効果音でもつきそうな雰囲気で、店の奥へと消えていった。
ほくほくした笑顔の女性店員は、店の境界線となる場所まで見送りに出ると、私に小さな紙袋を手渡した。
そして片目を瞑り「いいお誕生日を!」と言う。私は苦笑しながら軽い会釈を返した。
ぐったりと疲れた買いもののあと、そのまま地下でデリ惣菜とワインを買い込み、気になっていたパティスリーに寄り、ザッハトルテを買った。
本当はその隣にあったすみれのケーキがとてもかわいくて目を引いた。さらに子どものころからの好物である、ミルフィーユも捨てがたかった。
一人きりの誕生日パーティーでは、いくつも食べられるわけではない。日持ちもしないし、仕方がないのだ。
そんなふうに言い聞かせて、ケーキを一つだけ買い、電車に乗って帰った。
家に帰ると、すぐにシャワーを浴びてさっぱりとし、一人むなしくパーティーの準備に取りかかった。
パーティーと言っても、いつもの自分の夕食から手作りの食事が消えて、その代わりにデパ地下惣菜とケーキが加わるだけの簡易的なものだ。
部屋の照明を落とす。いくつも並べたランプだけの淡い光の中で過ごすのが好きだ。
音楽を流す。毎週金曜日に通っているカフェで買った、その店のBGMとしても流れているものだ。
デパ地下のお惣菜はとてもおいしい。ザッハトルテの甘さも幸せだ。でも、たまに、ふと不安になる。
これで、二十一歳だ。周りの学生たちは、みんな恋人だったり親しい友だちだったりがいる。そして、いつかはきっと家族を作っていく。
でも、私にはその未来がちっとも見えなかった。
だって、若くて自由で楽しいこの時期に一人きりなのだ。これからはもっとそうなのではないだろうか。
お酒が入ったせいだろうか、考え出すと、鬱々とした気分になった。
インターホンが鳴った。テーブルに突っ伏していた私は驚き、のろのろと体を起こして玄関に向かう。
「菫、ハピバー!!!」
そこに立っていたのは、バイト先の先輩である千百合さんだった。
栗色の髪の毛は肩口までのボブヘアで、無造作に巻かれている。メイクは薄く見えるのにしっかりと目が大きくて、美人だ。
「――千百合さん、どうして……?」
「えへへ、先輩だからね! いろいろ知ってるわけですよ。上がっていい?」
軽い調子で言う彼女の言葉に、内心うれしくなって、私はこくりと頷く。
「これ、誕生日だからケーキ買ってきたよ。ミルフィーユだよ」
千百合さんが差し出したのは、まさに先ほど、私が立ち寄ったパティスリーの紙袋だった。
「――うれしい。自分でもここでケーキを買ったんですけど、ザッハトルテもミルフィーユも食べたくて、最後まで迷っていたんです」
「ふふ、ちゆり様ありがとうございました!って言っていいんだよぉ」
千百合さんは私よりも一つ年上だ。この三月までは服飾学校のファッション科に通っており、今は卒業してアパレルショップで働いている。
将来はスタイリストになりたいと話していて、センスがいいだけではなく、知識量も豊富だった。
正直なところ、私がある程度垢抜けられたのは彼女のお陰だった。
顔の造作や肌の色、骨格などによって似合う服や髪型が変わってくるのだと教えてくれたのだ。
ときには一緒に服を選んでくれることもあった。
「それとね、誕生日プレゼントも買ってきたの。じゃーん、これ!」
デジャヴだろうか。差し出された紙袋は、先ほどの百貨店のコスメ売り場のものだ。
「新しいリップが出ててさ、“運命の恋人たちのリップ”っていうんだって。菫も彼氏がほしいって言ってたでしょ?
そんな菫にぴったりだなあって思って」
私は首をかしげる。そんなことを口にしただろうか。
「覚えてないの? この間酔いつぶれたときだよぅ」
千百合さんの言葉に、私はぼっと顔が熱くなるのを感じた。
誘われて一緒にバーに行ったのだけれど、うわばみの彼女にウォッカを一気飲みさせられて、潰れてしまったのだ。
その後は泣き出したり吐いたりで、店にいた男の人と千百合さんとで送ってくれたのだった。
そういえばあのとき手を貸してくれた男性には名前も聞けなかったし、お礼も言えなかった。
「学生生活で彼氏の存在って大事だよね。心の拠り所っていうか、潤いっていうか」
千百合さんはうっとりと言う。私は胸にぴりっとした痛みが走るのを感じた。卑屈にも、見下されていると思ってしまったのだ。
千百合さんには、彼氏がいる。会ったことはないけれど、SNSのカバー画像が、男性の後ろ姿だからだ。
「私に恋愛はハードルが高すぎます……」
そう言うと、千百合さんはすっと目を細めた。その空気の温度の低さに困惑していると、彼女はいつものようににやりと笑った。
「またまたあ、わかってるくせに」
「――?」
「本当は、よりどりみどりだっていうことだよ?
菫が本気で彼氏がほしいって思ったら、いくらでも選べる環境にある。気づいているはずでしょう?
菫は、そうは見えない、ううん、頑なに見せないようにしてるけど、本当はずるいところがあるもの。気づかないふりしてるだけだよね」
私はどきりとした。一昨日、バイト先の後輩に告白されたのだ。
「それでいて、菫は面食いなところがあるからそのへんの人とは付き合わない。思わせぶりなことをするのにね」
「ーー思わせぶりだなんて」
「えっ、まさか無自覚なの? 怖い怖い」
千百合さんはおどけた調子で言った。それからふう、と息をつく。
「要するに、理想が高いんだよね。
自分の中で王子様像みたいなのが決まっているのかなって。きっと、その王子様がすることだったら何でも許せるんだよ。でも、そうじゃない相手は視界にも入らない」
私はなにも言えなかった。
男の人を顔で見ているのは、本当だったからだ。そして、それは誰にも知られたくない事実だった。
千百合さんはにかっと歯を出して笑い、それまでの冷ややかな空気は、ぱっとかき消えた。
かと思うと、今度はウェットシートを取り出して、私の口元を乱暴にごしごしとぬぐった。
そして、贈ってくれたコスメの包装をびりびり破き、リップを取り出して、私のくちびるに塗っていく。
「それでも彼氏がほしいと思うなら、まずは自分が変わらなくちゃ。――ね?」
そう言って千百合さんはそっと目を伏せ、小さなハンドバッグの中からコンパクトを取り出して、私に手渡した。
小さな鏡の中には、見知らぬ女がいた。
「――深い赤色は私に似合わないって、そう教えてくれたのは千百合さんじゃないですか。肌の色に合わないって」
私は言った。
「似合わないよ? でも、似合うように寄せていくことはできる。
それに、たまには冒険だって楽しいよ」
千百合さんは、なぜだか泣きそうなあるいは怒っているような顔で笑った。
それから一緒にケーキを食べて、しばらくすると千百合さんは好きな人に会いに行くのだと笑って帰っていった。
千百合さんを玄関先で見送った私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。珍しく部屋を片づける気になれなくて、のろのろとそのままベッドに入る。春なのに、ふとんはしんと冷たかった。
私は久しぶりに、昔の恋人のことを思い出していた。
新田光政とは、小学校から高校までずっと一緒だった。とはいえ幼なじみというほど仲がよかったわけではない。
十二年間も同じ学校に通っていたというのに、同じクラスになったことは一度もなかった。
そんな私たちの距離が縮まったのは、登下校の時間だった。
私たちの住んでいた町は、市内のはずれにあった。
高校までは電車で一時間近くかけて山を越え、そこからさらに自転車で二十分も走らなければいけない。
だから、その高校を選ぶ人はほとんどいなくて、高校の中で同じ中学出身だったのは、光政と私の二人だけだった。
電車は二時間に一本しか無い。私たちは必然的に毎日顔を合わせることになり、距離を縮めていった。
光政は、女子に人気のあるタイプではなかった。
彼は、テニスの強豪校であるという理由だけでこの高校への進学を決めた人だった。
毎日の部活で身体は引き締まっていて精悍な印象だけれど、びっくりするほど日に焼けている。
細い垂れ目に、少し平たくて丸みのある鼻や、垢抜けない髪型が、彼を地味に見せていた。
でも、話しているときに柔らかく細められるその目や、落ち着いた穏やかな声、あの年頃の男子にありがちながっつく感じのないところにいつの間にか惹かれていった。
一緒にいると安心する。温かな気持ちに包まれていた。
告白したのは私からだった。
毎日が楽しかった。光政は部活で忙しいから、駅前で待ち合わせをして一緒に帰るだけだったけれど。
電車に乗ってから家まで送ってくれるまでの一時間と少しが、私にとっての宝物の時間だった。
朝も同じ電車で行くけれど、駅に着いたらそこで解散してしまうから、寂しくてきらいだった。彼は照れ屋な人で、高校の同級生には知られたくないと言うのだ。
光政はいつも大きなラケットバッグに、黒のエナメルバッグと大荷物だったけれど、地元の最寄り駅から家まで歩くとき、いつも私の荷物をひとつ持ってくれる人だった。
でも、送ってくれた光政を窓から見ていた姉には「なんでこんな不細工と付き合ってるの?」と辛辣なことを言われた。
光政は、私と同じだ。確かに少し地味かもしれない。
でも、そんなふうに否定されるような人じゃない。しっかりしていて、穏やかで、一緒にいるとほっとする、私にとって大切な人だ。――その頃からぽつぽつと、姉への不信感が加速していった。
それに比例するように姉からの当たりもきつくなり、顔を合わせるたびに容姿をけなされることが増えた。
今思うと、あのころから少しずつ、私は自信を削られてきたのかもしれない。
だって、少なくともその前までは、自分から好きだと告げる勇気を持っていたのだ。
ところが、それからいつまで経っても、私たちの関係は先に進まなかった。手を触れることさえないまま数ヶ月が過ぎた。
その間にはいろいろなことがあった。光政が先輩女子に告白されたり、私が後輩男子に告白されたりということもあった。
それでも、うまくいっていると思っていたのだ。ある雪の日、光政から別れを切り出されるまでは。
彼は、私と目を合わせずに、別れたいと言った。納得できなかった私は、理由を教えてほしいと食い下がった。しつこく問いただすと、光政はようやく折れた。
そして、泣きそうな目をして、私の地味な顔がきらいなのだと答えた。
それから私は、男の人を好きになる時に顔を重視するようになった。
地味だと評されていた光政へのあてつけなのか、それとも格好いい男の人がそばにいてくれたら、自分も美人になれるような気がするからなのか。
大学は、家から通えない場所を選んだ。
そのころには姉は遠方に嫁いでいて、家は平和だったのだけれど、誰も自分のことを知らない土地で、ゼロからやり直したかったのだ。
大学に入って、何度か好きな人ができた。
いずれも整った容姿で垢抜けていて、大学でも目立つような人たちだった。私は接点がないまま、彼らをぼんやりと眺めていた。
でも、この気持ちは恋なのだろうか?
大学でいいなあと思う人がいても、そんなふうに考えはじめると、ぐるぐると深みにはまってしまい、恋をはじめる前に終わるということが続いた。
はじまったところで、地味な私では振られてしまったと思うけど。
いつの間にか、大学四年生になっていた。
就職活動はしていない。卒業後は地元に帰り、叔父の会社に手伝いで入ると決まっているからだ。
そこには叔母がいる。今の時代にはそぐわない世話焼きな人だ。
孤独な自分への不安もあるけれど、もしかしたら、叔母が案外うまいこと縁を取りまとめてくれるのかもしれない。
「すみれさん、今朝はガレットを焼いたよ」
目を覚ますと美しい顔が私を覗き込んでいて、心臓が止まるかと思った。――何度見ても慣れない。
彼と出会って一ヶ月しか経っていない。それなのに気がつくと長海くんと暮らしていた。
長海くんは、寝起きの私をまるでぬいぐるみのようにぎゅっと抱きしめる。
清潔なシャツのにおいにどきりとして、それから現実に戻ってくるというか、寝ぼけていた頭が少しずつ動き出すのを感じた。
長海くんは身体を離すと、私の様子に満足げにほほ笑み、ほかほかの温かいタオルを差し出すと、背を向けた。
家じゅうにいいにおいが広がっていた。差し出された熱い蒸しタオルで顔を拭き、着替えてから彼のいるところへ向かう。
長海くんは、わが家の狭いキッチンで、細切りにしたじゃがいもを平たいお煎餅のように整えて、その間に卵を挟んだものを焼いていた。
彼の作る料理はいつも洒落ている。聞けば、おかあさんに教えてもらったのだと言う。
調理台の狭さを補うために買った、キャスター付きの収納の上には、すでに彩り豊かなサラダが乗っていた。
「サラダはニース風サラダにしたんだ。
じゃがいもが余っていたから少し蒸してのっけて、それからゆでたまご、ツナとオリーブ、あとはいろいろな野菜」
私は長海くんの背中にぴたっとくっついて腕を回す。
彼は一瞬硬直し、それから顔を赤らめて料理の手を止め、私の額にキスを落とした。
私はいつでも不安だった。これは夢なんじゃないか、なにかの間違いなんじゃないか、と。
私の行動を置き去りにして、ものすごいスピードでいろいろなことが変わっていく日々だった。
電車に乗って私の実家へ向かったのは、長海くんと出会ってからわずか三日後のことだった。
その間も、互いの家には帰るものの、私たちは毎日一緒に過ごしていた。驚くべきことに、私たちは同じ高校の出身だったのだ。
それがわかって意気投合したのもあるかもしれない。
長海くんは、久しぶりに里帰りがしたいな、という。ついでに私の地元にも行きたいと。
隣県とは言え、社会情勢がなかなか帰省を許さなかったのだが、幸い今は状況が落ち着いていて、旅行に行く人も多いと聞く。
隣の県に足を伸ばすくらいなら許されるかもしれない。
そう思って承諾すると、彼はすぐにチケットを取り、集合時間を決め、翌朝家まで迎えに来た。
なにもない田舎の駅に降り立つと、周りの人は、まるで芸能人でも目にしたかのような表情でちらちらとこちらを見ていた。
それから彼に肩を抱かれている私に目をやって、微妙な表情になる。
きっと、圧倒的な顔面偏差値の差が理由だろう。さらに、なぜだか長海くんがスーツを着込んできたのもあるかもしれない。
気軽な里帰りだと思っていたのに、なにか用事でもあったのだろうか。
一方の私はというと、全面に幅の広いフリルがついた黒いブラウスに、膝上丈のベージュのバミューダパンツという、ややカジュアルな格好だったので、いろいろなことに差がありすぎて、私たちはとても目立った。
ターミナル駅からバスに揺られ、さらに電車に乗り換えて地元の最寄り駅についたのは、日が傾いたころだった。
途中までは一緒でそれぞれの実家へ帰るのかと思っていたが、なぜだか長海くんは私と一緒にここまでやってきた。
私の地元は本物の田舎だけれど、聞けば長海くんの実家があるのは、かなり栄えている場所だった。
頭のなかにたくさんの疑問符が浮かびながらも、彼と離れがたくて、切り出せなかった。
何も遮るものがない広い空は、薔薇の花のような淡いピンク色をしている。
先に行く長海くんを追って、ホームの古い階段を降り、改札を抜けた。
「――菫、か?」
出口までたどり着きそうだったそのとき、遠慮がちに声をかけられて振り返る。そこに立っていたのは、――光政だった。
日に焼けて真っ黒だった肌は健康的な小麦色に落ち着いていて、きちんと整えられた髪の毛や、流行りの形の服が、彼を素敵に見せていた。
驚くほど垢抜けていた。
私が答えられずにいると、長海くんがそばにやってきた。
「すみれさん、どうしたの?」
私はその笑顔に違和感を覚えた。光政は視線を左に移し、怪訝な顔をした。
「そっちは――?」
そこまで言いかけて、光政は焦ったように視線を落とし、人違いでしたと素っ気なく言って私たちの横をすり抜け、改札のほうへ向かっていった。
「みっちゃん!」
ふと振り返ると、私たちと同じ電車に乗っていたのだろう。ヒールを履いた女の子が降りてきた。
まつげが長くて、人形のように綺麗な子だ。
その子はまるで飛び跳ねるかのように全身で喜びを表し、光政の名前を呼ぶとぱたぱたとヒールを鳴らしながら階段を駆け下りてきて、改札を走り抜け、彼に抱きついた。
私たちはなんとなく気まずさを抱えたまま、川沿いの道を歩いていた。
四月には夢のように美しくなる並木道には今、桜の花びらはない。代わりに青々とした葉が茂っている。
毎日通ったこの道を、違う人と歩いているのは不思議な感覚だった。
道なりにしばらく歩くと、懐かしい真っ赤な壁が見えてきた。ここを左に曲がると隣県との境になる川があり、幼いころよく姉とそのあたりで遊んでいたのをふと思い出した。
シングルマザーの母だけが残っている実家は、古いアパートだ。
実はこの築二十五年のアパート自体が母の持ち物で、実家にいたときは、中学生になったあたりから、母と姉と私とで、それぞれ一室ずつ使っていた。
姉と私の部屋は、家を出た時点でそれぞれ引き払われているので、私たちは、母が昔から使っている一室にいた。
母は家事全般が苦手で、姉や私のいない今、事前に連絡してあったにもかかわらず、部屋にはほとんど足の踏み場もない状態だった。
そこにこの美しい人がきっちりとスーツを着込んで正座しているのは不思議な光景だ。
あまりにも恥ずかしくて、やはり、一人で来るべきだったと私はひどく後悔した。
初めは新手の詐欺じゃないかと長海くんを訝しんでいた母を見て、母親らしいところのないこの人にも、私を心配するような気持ちがあったのかと驚いた。
なんだか目頭が熱くなり、コンビニに飲みものを買いに出て戻ってくると、母はいつのまにか彼を気に入ってしまい、全面的に信頼していた。
母はそのまま泊まっていくように言い、終始機嫌が良かった。
結果的に長海くんの里帰りは叶わず、そのまま転がり込むように長海くんは私のマンションで暮らしはじめたのだった。
このひと月は、一瞬だった。それがまた夢のようで、私の不安をかき立てた。
毎朝並んで大学へ向かい、昼には待ち合わせて同じ弁当を食べ、帰りに自転車でスーパーに寄って帰った。
長海くんはプロ並みに料理が上手だ。
私も料理は好きだったので、一緒にキッチンに立つのも楽しかったし、ふたりでいろいろな新しいことに挑戦するのもわくわくした。
それは今までの一人暮らしの生活にはなかったものだった。
たとえば今日はスペイン料理の日にしようとか、この間行ったカフェのパスタを完コピしてみようとか、テレビで有名な映画の再放送があるから作中に出てくるメニューと同じものを作って観ながら食べようとか。
毎日がとにかく楽しい。
それでいて、これまでの自分の暮らしに寄り添ってくれているのもありがたかった。
たとえば時間の使い方。私たちは、この時間にこれをしよう、というような生活リズムがよく似ていた。
帰宅後はすぐにシャワーを浴びて汗を流し、ゆっくりと夕飯を楽しむ。後片づけをした後は2時間ほど勉強し、21時ごろになったら好きなことをする。
また、曜日ごとになんとなく決めたルーティンもある。
月曜日はスーパーで多めに食材を買ってきて、まとめて野菜を切ったり茹でたりして使いやすくしておく日だ。
火曜日はキッチンを徹底的に掃除する日で、水曜日は水まわりの掃除。疲れの出てくる木曜日は銭湯で汗を流し、金曜日はカフェで夕食を取る。
土曜の夜は映画を観に出かけ――お財布事情によってはDVDを借りてくるだけに留めることもある――、日曜日は冷蔵庫の余り物をすべて使い切るというミッションに取り組む。
これは、私がもともと四年間で培ってきた生活のリズムだ。
しかし、長海くんはそこにすんなりと溶け込んだのだった。
背伸びしたり、合わせたりすることなく、かと言って彼自身が無理をしているようにも見えない。
大学では、恋人ができた途端、相手の予定に合わせ過ぎたり、デートにすべてを費やしすぎて、生活が崩れていく子を何人も見てきた。
でも、私の生活は驚くほど変わらなかった。一緒に楽しんでくれる人が増えたというだけだ。
まるで自分自身と暮らしているように楽で、呼吸がしやすかった。
ごくごく自然に、ずっと前から家族だったかのように、私たちは暮らしを重ねていた。
大学四年生になっていた私は、単位もほとんど取り終えていたのだが、逆に年下の長海くんは授業が詰まっている日が多かった。
その日は、長海くんが授業の間、学食の前のベンチで過ごすことにした。
五月の半ばだというのに日差しは暑く、空気は夏独特のにおいになっている。
少し汗ばんできたので、薄手のカーディガンを脱いで肩にかけ、五分袖の黒いティアードワンピだけになった。薄着で過ごすのが心地いい季節になりはじめていた。
木漏れ日の下で文庫本を読みはじめてどれくらいになったのだろう。
長海くんがおすすめだというその小説は、私の好きな、明るくてそれでいてほろりと泣けて、ミステリー要素も少しあるもので、夢中になってしまった。
少し目が疲れてきた私は、本をベンチに置いて肩をぐるりと回した。
ふと足元に枯れた草があることに気がつく。
細い茎の先に、蓮根のような形をした小さくて細長いものがついている。その先端は雪の結晶のような模様がついたスタンプのようになっており、見覚えがあった。
「――それ、ナガミヒナゲシの実でしょう」
聞き覚えのある声にぱっと顔を上げた。そこに立っていたのは千百合さんだった。
千百合さんが着ているのは足首ほどまでの長さがある黒いメッシュワンピースで、その中に白い半袖のTシャツとグレーのワイドパンツが透けて見えた。
いつも通りの手を抜かない装いの彼女だったが、その目元は少し赤く腫れていた。
「どうしてここに?」
私が尋ねると、千百合さんは私に会いたかったのだと言う。話がしたかったと。
「失恋したの。愛が重すぎてびっくりする。――いくら守りたいからって、いろいろ裏から手を回すなんて正気じゃない。そう思わない?」
千百合さんは目を細めた。それだけ愛してくれたら幸せだと思う、――と内心思ったけれど口にしなかった。
長海くんに出会う前の私だったら、少し意地悪な気持ちになって言ってしまっていたかもしれない。
「菫は、私と違って幸せそうだね。――こんなことなら、あの口紅をあげなきゃよかったかなあ」
千百合さんが悔しそうに顔を歪める。
その目に宿る卑屈さが、少し前の自分のようで、見たくないと思った。いくつか話したあと、千百合さんはふう、と大きく息を吐いて立ち上がった。
「もう行くね。聞いてくれてありがとう。――そういえばどうしてバイトをやめたの?」
今の千百合さんには、言えない理由だった。
だが、私の態度で悟ったのだろう。千百合さんは少し意地悪な目をして「彼氏が原因か」と笑った。
「そうそう、ナガミヒナゲシって危険な花だって知ってた?」
千百合さんが振り返った。その目には剣呑な光が宿っていた。
「もともとは日本の花じゃないのよ。それなのに今ではどこにでもある。小さな種がいろいろな場所に運ばれて、気がつくとたくさん生えてるの。
しかも、ほかの植物を枯らす成分を出してるんだって。見た目からはわからないよね。知らないうちにじわじわと侵食されているみたいで怖い花なんだよ」
千百合さんはどこか遠くを見て言った。
長海くんから、今日は一緒に帰れないと連絡があったのはそのすぐ後のことだった。
手持ち無沙汰になった私は、あの古書店に立ち寄った。
はじめて出かけたときは、長海くんとのことでいっぱいいっぱいで結局何も買わなかったのだ。
一つひとつ手に取って眺めていたのだが、やや古そうで、それでいて緻密に描き込まれた植物画の美しい野草図鑑を買った。
その中にはナガミヒナゲシの花も載っており、いつだったかすみれの花と寄り添うようにして咲いていたあのオレンジ色の花だったのだと気がついた。
すみれの花が枯れなかったのは、たまたまだったのか、それとも奇跡的だったのか。
「知らないうちにじわじわと侵食されているみたいで、怖い花なんだよ」
ふと千百合さんの声が蘇る。せっかく気に入っていた花なのに、あんなことは聞きたくなかった。
私はこのとき初めて、本当は千百合さんがきらいだったのだと認めた。
優しくしてくれる彼女を好きでいたかった。でも、私の心をえぐることばかり言う彼女のことを、心のどこかではずっと、嫌だとも思っていた。
そして、私を垢抜けさせてくれたり、誕生日に訪ねてくれたりした彼女の心にも、実は同じような悪感情があったのではないかと考えた。
だって、彼女はときどき昏い目をしていたのだから。
嫌なことは続くものだ。
久しぶりに一人でマンションに帰ると、扉の前に女が立っていた。
その人はサイドの部分がミントグリーンのプリーツスカートになっている、ノースリーブの黒ワンピースを身にまとっていた。
大きなサングラスを胸元に差し、豹柄の小ぶりな鞄を下げており、傍らには大きなキャリーケースがある。
姉の秋桜だった。
「あ、あきら……?」
姉は、私に気がつくと憮然とした顔で「早く開けなさいよ」と命令した。
私は不快な気持ちになった。これまでの私だったなら、姉に従ってすぐにドアを開けただろう。でも、そうしなかった。
「どうしてここにいるの? 子どもたちは?」
私が聞くと、姉は忌々しげに私を一瞥し、そして答えなかった。
「ずっとここで待ってて暑かったし喉も渇いてんのよ。さっさと開けて」
地を這うような声にびくりとする。
「今は一人じゃないの。だから泊めるのは無理。ここからだと駅前のビジネスホテルが近いから、そっちにして」
私がそう言うと、姉は眉根を寄せて「あんたに拒否権はない」と言い放った。
「――また不細工な男と付き合ってるの?
まあ、あんたみたいな顔の女を好きになるなんて、普通の人にはいないだろうけど」
姉はそう言って嘲笑する。私はなにも言えなかった。
姉を前にすると、どうしても身体が硬くなってしまう。悔しくて目がうるんできたそのときだった。私は後ろから抱き寄せられていた。
「すみれさん、ただいま」
長海くんは、そのまま私の頬に口づけをする。
目の前の姉は、信じられないといった様子で目を見開き、口をぱくぱくとさせていた。
「え、この人お姉さんなんだ。似てなさすぎて全然わからなかったよ」
長海くんがそう言って、私から離れる。ああ、やはり彼も姉のほうがいいのか。そう思うと胸の中が底冷えするように冷たくなった。
「――すみれさんは、美人なのにね」
小声でぽつりと落とされたその声に、姉は硬直した。
子どものころは、姉と一緒に川沿いの小さな公園で遊びながら過ごすことが多かった。公園と言っても遊具があるわけでもなく、遊歩道にベンチがあるだけだった。
記憶にある限りでは、幼稚園のころからそうだったと思う。
母は放任主義で、私たちはよく子どもだけで外に出されていた。遊んで来てもいいというよりも、邪魔だから追い出されているという感じだったように思う。
あの辺りに住んでいる子どもは少なく、姉の友だちはずっと先に住んでいる。
姉も退屈で仕方がないので私を連れ回していたのだろう。
たまに癇癪を起こしては私を置き去りにし、その後、勝手に居なくなった妹を探す健気な姉を演じるところまでがセットでの遊戯だった。
そういえば、近所のおばさんがお菓子をくれることがあった。姉はとびきりの笑顔でお礼を言い、私は恥ずかしくてその陰に隠れていた。
「おねえちゃんのほうはかわいいのにねえ」
そう言ったのは、そのおばさんではなかったか。
ある日、姉は、川沿いの土手に咲く濃いピンク色のコスモスを摘んで、花占いをしていた。私が小学校低学年の頃だっただろうか。
クラスメイトの男子が自分を好きなのかどうか占うのだと言う。姉にも占いだとかおまじないのようなものを信じている、かわいい時代があった。
「好き、きらい、好き、きらい……」
ところが、花占いの結果は芳しくなかった。
姉は不機嫌そうな顔をして、また別なコスモスを摘み、同じように花占いをした。何度やってみても結果は同じで、ついに姉は癇癪を起こした。
コスモスを投げ捨て、黄色のふわふわとした中心部だけが残ったその花を、何度も何度も踏んだ。そして、靴の裏でぐりぐりとすり潰すようにした。
そのとき、乾いた笑い声がした。
「コスモスの花びらは8枚だ。好きときらいをくり返していくと、必ず“きらい”になる」
くつくつと笑いながらそう言ったのは、私と同じくらいの男の子だった。その子を見たとき、私はなんとも言えない違和感を覚えた。
今になって考えると、とてもアンバランスだったからなのだと思う。
着ているものは綺麗で上質な感じがするのに、ひょろひょろと痩せていて、前髪がとても長く、顔の片側が隠れていたのだ。
また、見た目はどう考えても私と同じくらいか、もっと下に見えるのに、その話し方や知識はまるでずっと年上のようだった。
「うるさい!」
姉が怒鳴っても、彼は飄々としている。
そのとき、強い風が吹き上げてきた。男の子の前髪がびゅうっと風にかき分けられて、両方の目があらわになった。
私ははっと息を飲む。
その子の左目は薄い茶色で、右目は濃い茶色と色が違ったのだ。
しかも、片目は小さな宝石の粒が混ざっているかのように、下部に薄い水色が散っている。
「目の色が……! 気持ち悪い!」
そう言うと姉は踵を返した。
男の子は真っ白な顔で佇んでいた。家のほうへと駆け出す姉と、うつむく男の子の間でしばし逡巡し、私は彼のそばに寄った。
私が近づいて来たのに気がつくと、彼は身を固くした。
「おねえちゃんがごめんなさい。――あの、あなたの目、きれいだと思う。私はとても好き」
どんなふうに話していいかわからなかったけれど、私は思ったままを伝えた。
すると男の子はゆっくりと顔を上げて、真意を探るかのようにじっと私を見つめた。それはとても頼りない視線だった。やがて、その美しい瞳にみるみる涙が浮かんだ。
私たちはそれから会話をすることなく別れた。次に会ったときは友だちになれる。そんな予感があった。
でも、それきり彼に会うことはなかった。それからしばらくしたある夜、近所の家が燃えた。姉と私は、アパートの窓からその赤々とした火を見ていた。
「長海くんは、――姉のほうが美人だって思わないの?」
いつものように夕飯と勉強を終えたあと、私は切り出した。
長海くんはキッチンに立っていて、ミディトマトを切っているところだった。
私は隣でモッツァレラチーズをちぎっている。花占いをするときのように、長海くんがトマトを、私がチーズをと、交互に並べていく。
最後に彼は、オリーブオイルを回しかけて、いつの間にかベランダではじめていた家庭菜園のバジルを摘み取ったものを乗せ、塩と胡椒を振った。
「俺は、――すみれさんだけが好きだよ。今までも、これからも、ずっと」
そう言うと長海くんは、トマトとチーズを重ねてフォークに刺し、私の口に入れた。
「そろそろ桃の時期だよね。次は桃モッツァレラを作ろうよ」
彼は笑った。私はその胸に飛び込んだ。
ランプだけを灯した仄暗い部屋の中で、お酒を飲みながら、私は過去の話をぽつりぽつりと聞かせた。これまでは意図的に伝えるのを避けていた、姉の秋桜とのことだった。
子どものころから、姉とふたりでよく外に出されて遊んでいたこと。たまに置き去りにされていたこと。いつからか容姿をけなされるようになったことーー。
長海くんは真剣に聞いてくれて、私の声が潤むと、その腕の中に私を閉じ込めた。
そこはとても温かくて、とくとくと優しい鼓動が聞こえた。
「ねえ、すみれさん。植物には記憶があるって知ってる?」
長海くんは、私を胸に抱いたままそう切り出した。
「たとえば、たんぽぽだとか、すみれさんの名前になっている花だとか……葉っぱのまま冬越しする植物があるよね。
こう、地面に這うように低く、放射状に葉を伸ばしているのだけれど」
「――うん」
「あれをロゼットというんだ。
でもね、ロゼットの状態から花が咲くためには、冬の寒さを経験しないといけないんだって」
「寒さ?」
「そう。これを『春化』っていうらしい。
逆に寒さを経験させずにロゼットを育ててみたら、花をつけずに、ただ根が成長するだけだったという実験結果もあるそうだ。――ええと、俺が何を言いたいかというとね」
話しているうちに自分でも少し混乱したらしく、長海くんは少し考え込んだ。
「そう、――すみれさんにとっての冬が、お姉さんとの出来事だったんだと思うんだ。
すみれさんが悲しい思いをしたのは俺まで悲しくなるけど、でも、だからこそ、今の美しいすみれさんがあるんだと思うよ。すみれさんは綺麗だ。顔も心も」
そんなことはない。私は卑屈だし、すぐに人のことを嫌いになるし、計算高い部分もある。
何より、決して美人ではない。どう頑張ってみても愛嬌があるほうだとしか言えない。
でも、屈託なく笑って長海くんがそう言ってくれるので、否定する代わりに彼のほうへ向き直って、その胸に顔を埋めた。
長海くんの身体が一瞬強張った。それから私を抱きしめる力がぐっと強くなった。
私は、彼もまた、意外と人とのふれあいに慣れていないのかもしれないと思った。胸の中に昏い喜びが芽生えた。
「――でもね、これからは俺がそばにいるから。心が寒いなんて絶対思わせないよ」
あれから一年が過ぎた。私は名を変え、長海菫になった。
驚くべきことに、長海くんは大学の早期卒業制度を使って三年生で卒業した。そして、その夜には私たちは婚姻届を出していた。
長海くんと出会ってから、私の人生はなにか大きな波に流されているようで、たまに怖くなる。
一方、姉は離婚して、実家に戻った。
子どもたちは旦那さんのほうが引き取ったのだが、それで良かったのではないかと薄情なことを思う。
結婚しても、子どもが生まれても、長海くんは変わらなかった。
私がなにかをするとさっと頬を赤らめ、いつでも優しくて、いつまでも恋人同士のようだった。
目の前のこの人はどうして自分を好きなのだろう? 不思議に思うこともあったし、たまにこの日々が突然終わってしまうのではないかと怖くもなった。
でも、こうして甘やかされているとどうでもよくなってしまうのだ。
――この人は、私がずっと待ち望んでいた、春だから。
─『ロゼットに落ちる春』 菫の章・完─
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▼最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この話だけでも完結していますが、他視点によるオムニバス形式で、読むごとに”見え方”が変わっていく小説を目指したほかの章があります。(作中の時間も進みます)。
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