【ファンタジー小説部門】『√365』│ 古新聞のブーケ
▼このお話は『√365』の一部です。「序章」を読んでいただければ、あとはどこからでも1話完結で読めます。
「おねーさん」
目の前に差し出されたのは、古新聞のブーケだった。
頭に手ぬぐいをかぶったおばあさんと私は、じりじりと夏めいてきた日差しに焼かれていた。反応しない私の手に、おばあさんは半ば強引にそれを握らせると、白い歯を見せた。
「おうちに帰ったら、コップとか、なんでもいいから、水に入れてあげるんだよ。毎日お水を取り替えてほしいんよ」
おばあさんはそう言うと、手をひらひらと振りながら去っていった。
ーーなんだったんだろう。てのひらに押しつけられたものを見ると、古新聞に包まれていたのは、たくさんの野の花だった。
ふわふわした糸のようなピンクの花びらをした花。ああ、これはなんだったっけ、子どものころに道ばたで摘んだことがある。ヒメジョオンだったか、ハルジオンだったか、そういう花だった。それからたんぽぽ。それにオオイヌノフグリだろうか、でも記憶にあるその花よりも大きいし、ピンク色をしている。それと儚げな印象の水色の花。なずなの花を青く染めたようなもの。
これまでずっと明るいところにいたので、玄関の扉を開けると、急に日が沈んだみたいに目の前が暗くなった。
ようやく眠ってくれた娘を慎重にベビーベッドに下ろす。まずはそっとおしりを下ろす。背中を支える手はまだ外さず、最後になるように。抱っこひものベルトをほどく。
そろり、そろりと背中を押さえる手を引き抜いていく。それから十秒待つ。すやすやと寝息を立てたまま。
くっと止めていた息をようやく吐き出した。
一人になったらやることが思いつかなかった。やりたいことはたぶん、たくさんあったはずなのに。
とりあえず、さっきもらってきた花を生けることにした。 この家に花瓶はない。ふだん飲むコップに入れるのもなあ、と部屋の中をごそごそしていたら、紙コップが見つかったので、決してかわいいとはいえないけれど、それに入れることにした。
ぱらぱらとほぐすようにして花を入れて、水を張る。たったそれだけのことだけれど、部屋のなかがぱっと明るくなり、息づいたような気がした。
ああ、小さいころは、家にこうやっていつも花が飾られていた。この家は殺風景だ。夫の趣味のモノトーンのインテリア。選ぶとき、私の意見はなにも取り入れてもらえなかった。
生活感のない部屋を作りたいと彼は言ったけれど、生後3ヵ月の子どもとの暮らしでは不可能で、気づくとあちこちに脱ぎ散らかした服があったり、洗い物が山のように溜まっていたり、洗面台もよごれたりしていた。
こんなにも暑いのに公園にいたのは、家にいたくないのと、抱っこ紐に揺られていれば娘が泣かないからだ。
ベビーベッドをのぞいてみる。ふっくらしたピンク色のほっぺをつん、とつつく。きゅっと眉根を寄せて嫌そうな顔をする。その表情すら愛おしく思った。
でも、生んでみてわかった。かわいいな、好きだな、と思う気持ちだけで子育てはやっていけないのだ。
子どもが生まれたらネイルはむずかしいかな、カフェとかいけなくなっちゃうな、映画館も諦めなくちゃいけないな……などと想像していた。でも実際に生まれてみると、もっと基本的なことをがまんしなければいけなかった。
娘は四六時中泣いている。ごはんをゆっくり食べることもできなければ、夜にまとまった睡眠をとることもできない。
肌もカサカサ、髪の毛もパサパサだ。シャワーを浴びたあとは、娘の体を拭いて、ベビーローションを塗ってやり、おむつを穿かせ、着替えさせて、ベビーベッドに寝かせる。
その間に自分の着替えをするのだけれど、娘は待てずにぐずり出す。慌てて授乳をしているうちに、ほっぺたは乾燥し、髪の毛は変にうねりがついてしまう。
個人差があるらしく、同じ時期に生まれた、同じマンションの男の子は、生後1ヵ月から夜泣きをほとんどしなくなったと聞いた。どうして。その子のおかあさんは神奈川生まれ。何度もじいじやばあばにも挨拶した。週末はいつも神奈川に戻っているという。
──彼女はいつも、手入れの行き届いた髪や爪をしていた。
ベランダに通じる窓にもたれるようにして、携帯に目を落とす。なにを読んでいるわけでもない、ただ、文字を目で追っていただけだった。とにかくまぶたが重くて、手足がだるくて、なにも考えられなかった。
そうしていつしか、ひんやりした床の上にまるまって眠っていた。 眠ったのはほんの20分くらいだっただろうか。はっとして飛び起きる。娘はちゃんと、柵に囲まれたベビーベッドの中で寝息を立てていた。
仮眠をとったせいか、いくぶんすっきりした気持ちになっていた。
なんとなく、さっき飾った花を見に行ってみる。散らかり、よごれた部屋のなかでそこだけが美しく、そして生き生きとしている。
すると、なんだか体の奥の方でうずうずする感覚があり、気がつくと私はゴミ袋を片手に持っていた。花瓶のまわりにあったごみや要らないものを、どんどん放り込んでいく。ごみがなくなったら、今度は汚れやほこりが気になった。
そして気がつくと娘が起きるまで、ずっと片づけや掃除をしていた。いつものように「ああ、起きちゃった」と残念に思わなかった。それがうれしくて、気がつくとぽろぽろと涙がこぼれ出していた。
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「……以上が、私が”野の花アーティスト”になったきっかけです。おばあさんにもらったブーケの花たちが枯れてしまったあと、自分でも同じように野の花を集めて飾るようになりました。それをSNSに載せているうちに、いろんな方の目に止まり、今があるのです」
なんとか話し切った。舞台袖に隠れて、ほっと胸をなでおろした。「ママ!」と娘が駆け寄ってきた。私は思い切り抱きしめる。毎日が慌ただしく過ぎていく中で、 この子もいつの間にか4歳になっていた。
講演では話さなかったことがある。
おばあさんがブーケをくれた理由だ。
あのあと、おばあさんにお礼を言いたくて、公園で何度か待っていた。ようやく会えたのは秋口になってからだった。
私の顔を見ると、おばあさんはほっとしたような表情で「よかった」と泣き崩れた。 ずいぶんやせ細っていたし、事情がわからなくてびっくりして、一緒にベンチに腰かけ、話を聞いた。
おばあさんは、ふるさとから逃げてきたのだという。
シングルマザーだった娘が育児放棄をして子どもを死なせてしまい、新聞で報じられた。家に毎日「人殺し」と書かれた紙が投げ込まれるようになり、娘はやがて、自ら命を絶った。
居場所を失い、誰も知らない東京にひとり出てきたばかりのころ、彼女は公園でうつむいていた私を見つけたらしい。最後に会ったときの娘の表情が重なったのだと。
自分がもっと娘に目をかけていれば。頼らせてあげれば。そう言っておばあさんは泣き崩れた。
だから、なんとか関わりを持ちたくて、自宅に走り、川べりの花を摘んであのブーケを作ってくれたのだという。あの帰り道に発作を起こして入院してしまい、ずっと気にかけていたのだと。
連絡先を教えてもらい、数日後、おばあさんのアパートを訪ねた。けれども彼女はすでに亡くなっていた。
たった2度会っただけの知らないおばあさん。でも私の人生を軌道修正してくれたのは、家族でも友人でもなく、彼女なのだ。
私もだれかにとって、そういう存在になれたらいい。そう思いながら、日々、花を生けている。
(3,000字)
▼この小説は『√365』の一部です。エンタメ原作部門応募予定。どのはなしから読んでも大丈夫な短編集ですが、序章と終章を読むと印象が変わると思います。
▼先月更新したのはこれ。
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