エッセイ │ 殿下は、わたしの名を呼ばない。
殿下。ぜったいに殿下だ。
そう思ったけど、でも。声をかけられなかった。
これが愛なのだろうか。
教室での記憶には、蜜柑色のフィルターがかかっている。
1時間に1本のバスを、ひとりで待っていた。
机の横に引っかけたビニール袋からLiptonのマスカットティーを取り出す。ストローをさしてちびちび飲んでいたら、本のページに影が落ちた。
顔を上げたわたしは、うげ、と眉根を寄せた。
「恋と愛の違いを知っているか」
男は、前の椅子の背もたれに浅く腰かけるようにして言った。演劇部に所属するクラスメート。愛読書はハリー・ポッター。趣味は呪文の詠唱。
「ちょっと何言ってるかわからないです」
「くッ、……アバダ・ケダブラ」
男が前髪をかきあげるのを見て、ぶわりと鳥肌が立つ。
「……殿下、超うざい」
わたしは男を"殿下”と呼んでいた。わたしのことを「そなた」とか「貧しき者」とか言うからだ。妙に演技がかった言い回しやら立ち振る舞いやらも殿下みが強かった。
「まあでも、愛は恋から派生するものなんじゃないですか」
適当に答えて、また視線を本に落とす。
チッ、チッ、チッ。
殿下は口をすぼめて小鳥のような音を出しながら、指を振った。
「そなたは何もわかっておらぬな」
もしわたしが漫画のキャラクターだったなら、間違いなく、こめかみのあたりに、青筋のマークが描かれただろう。
殿下は、形のいいアーモンド型の目をにんまりと三日月のように歪めた。
そして「恋と愛とは別物なのだよ」と続けた。
「恋というのは独りよがりな、自分のための感情に過ぎない。愛は相手を思えばこそ。もっと広く、そして深いのだ。つまり根本が違うのだよ」
「何の話ですか」
「私は言うだろう!愛を感じたそのとき!そのときはな、こう告げる予定なのだよ」
殿下は眼鏡をくいっと持ち上げながら、もったいぶって、そこで言葉を切った。
「『そなたに毎朝コーヒーを淹れる役目を任せてもよいか……?』と」
殿下の頬は、夕陽を照り返していた。
わたしが恋をするのは、それから4年後の話。
少女漫画みたいな恋だといろんな人に言われる。
けれども、彼とわたしそれぞれの恋心は、いっしょに過ごすようになってから、たった1年ほどでしゅわりと溶けた。
気がつくと、コンプレックスのまるくて広いおでこをさらしたひっつめのお団子髪を見られても気にならなくなっていた。
彼はわたしの目を見るよりもゲームに没頭する時間のほうが長くなった。
オムライスにぶたの絵を描くわたし。
デートプランを考えなくなった彼……。
いっしょにいると取り繕えない。
(恋ってたぶん、相手に実物よりもよく見られたいってことなんじゃないかな)
たまに、そんなことを思った。
彼とのあいだにはいっしょにいるのが当たり前という家族に近い感覚が芽生えていた。素の自分を受け入れてほしいという欲も。
やがてわたしは、彼と結婚することになる。
年末年始、家族でふるさとに帰った。
飛行機を出てタラップを降りると、一瞬で身体が冷たくなる。鼻の奥がつんと痛い。
預けた荷物が回ってくるのを待っていたわたしは、目を見開いた。
向こう側に立つ男性。
時が止まったのかと、錯覚した。驚くほどそのままだった。髪型も私服のテイストも何一つ変わらない。
殿下だ。──間違いない。
けれども、声をかけなかった。
わたしは殿下に恋をしたことがない。
でも、大人になって、あのころを振り返ると、殿下が自分に好意を持っていたのだろうと気がついている。
だからこそ。
夫をちらりと振り返る。
勘の鋭いこのひとの心を波立たせたくない。そんなふうに思うこのきもちは、恋なのだろうか。愛なのだろうか。
夫に名前を呼ばれたわたしは、振り返らずに空港を後にした。
『殿下は、わたしの名前を呼ばない』(1,500字)
※ほんとうにあった出来事を書いているエッセイです。
ただし、書かれた人を傷けないために、人物を特定できないフェイクを入れるなど留意しています。

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