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自分が欲する時に無い

玄関の扉に手をかけ、さて出かけようとした瞬間に気づく鍵の不在。
大事な契約書を前に、いざ署名をしようとしたボールペンから掠れるインク。
天気予報が見事に的中した土砂降りの空の下、鞄の中を探っても見当たらない折り畳み傘。

私たちの日常は、このような些細な「ない」という事実に満ちている。
そして不思議なことに、それらは決まって「肝心なとき」に訪れるのだ。
普段はそこにあるのが当たり前で、意識すらしない物たちが、まるで示し合わせたかのように姿を消す。
それは単なる偶然だろうか。
記憶力の低下や、整理整頓ができていないだけのことだろうか。
もちろん、その側面は大きいだろう。
しかし、この現象があまりにも的確なタイミングで起こることに、私は時折、何か見えざる力の介在すら感じてしまうのだ。
私たちは本当に、ただ物を失くしているだけなのだろうか。


✅メンタルの影響

「ない」という事態に直面したとき、私たちの心は焦燥感に駆られる。
時間に追われていればいるほど、その焦りは増幅し、視野を著しく狭めていく。
鍵がない、と血眼になって探している時、私たちは鍵以外のすべてを風景としてしか認識できなくなる。
そして往々にして、鍵は普段置かないような場所、あるいはあまりにも当たり前の場所――例えば、コートのポケットや、昨日使った鞄の中、テーブルに置かれた郵便物の下――から、まるで嘲笑うかのように発見される。

これは、私たちの精神状態が、物理的な現実の認識を歪めている証左と言えるのかもしれない。
心に余裕がないとき、私たちは「見る」ことはできても、「見つける」ことができなくなるのだ。
意識が「ない」という一点に集中しすぎた結果、すぐそこにあるはずの「ある」という存在を弾き飛ばしてしまう。

さらに深く考えれば、私たちが抱く不安や恐れが、その状況を能動的に引き寄せているのではないか、という疑念も湧いてくる。
「この大事な会議に遅れてはいけない」という強迫観念が、鍵を隠し、「この契約を失敗するわけにはいかない」というプレッシャーが、ボールペンのインクを枯渇させる。
まるで、心が生み出したネガティブなエネルギーが、世界に作用し、最も恐れていたシナリオを現実のものとして立ち上がらせるかのようだ。
それは、物が私たちを裏切っているのではなく、私たち自身の心が、物を通して自らを裏切っているのかもしれない。
物が「ない」のではない。
心がそれを「なくしている」のだ。

✅物の意思

一方で、まったく逆の視点からこの現象を捉えることもできる。
つまり、物に「意思」がある、と考えてみるのだ。
古来より、あらゆる物に魂が宿るという考え方が世界中に存在した。
もし、私たちの周りにある物たちが、寡黙な同居人のように、独自の意思を持って存在しているとしたらどうだろう。

彼らは、持ち主である私たちを試しているのかもしれない。
「あなたは本当に、私を必要としていますか」「日頃から、私のことを大切に扱ってくれていますか」と。
日々のぞんざいな扱いに腹を立て、肝心なときにストライキを起こして姿を隠す。
そう考えると、急に愛用の万年筆や、古びた腕時計が、人間味を帯びた存在に思えてくる。

あるいは、彼らは私たちに何かを伝えようとしているのかもしれない。
鍵が見つからないのは、「今日は出かけない方がいい」という、守護霊のような警告なのかもしれない。
ボールペンのインクが切れたのは、「その契約、本当にそれでいいのか。もう一度冷静に考え直せ」という、無言の忠告だったとしたら。
私たちは、物の不在によって強制的に足を止めさせられ、思考する時間を与えられる。
その空白の時間にこそ、見過ごしていた大切な何かに気づくきっかけが隠されているのではないだろうか。
物に振り回されているように見えて、実は物との静かな対話を通じて、私たちは自分自身の内なる声を聞いている。
物が「ない」という事実は、彼らが発する最もシンプルで、最も雄弁なメッセージなのかもしれない。

✅巡り合わせ

メンタルの影響か、あるいは物の意思か。
どちらの解釈も、一理あるように思える。
しかし、突き詰めていくと、これらはすべて「巡り合わせ」という、より大きな概念に収斂していくのではないだろうか。

物と人との関係は、人と人との関係によく似ている。
出会いがあり、共に過ごす時間があり、そしていつか別れが訪れる。
私たちが何かを「所有する」という感覚は、実のところ幻想に近い。
私たちはただ、人生のある一定期間、特定の物と時間を共有することを許されているに過ぎないのだ。

そう考えたとき、「肝心なときにない」という現象は、また違った様相を呈してくる。
それは、その物との巡り合わせが、その瞬間において「なかった」というだけの事実を示しているのかもしれない。
その時は不運に思えたとしても、長い目で見れば、それが最善の結果をもたらすことがある。
鍵がなくて乗り遅れた電車が、事故に遭っていたかもしれない。
インクが切れて交わせなかった契約が、後に大きな損失を生むものだったかもしれない。
物の不在が作った偶然の歪みは、時として私たちを本来進むべきではなかった道から、そっと引き戻してくれることがある。

「ない」ことによって生まれる時間と空間。
私たちはその空白を、焦りや苛立ちで埋め尽くすこともできるし、立ち止まって自分や周囲を見つめ直すための、貴重な猶予として受け取ることもできる。
物がスムーズに見つかり、すべてが計画通りに進む人生は、確かに効率的だろう。
しかし、そのような人生には、予期せぬ回り道や、不意の発見といった、味わい深い偶然が入り込む余地は少ないのかもしれない。

次にまた、何かを探し求める時が来たら、少しだけ考えてみたい。
私は今、本当にその「物」だけを探しているのだろうか、と。
あるいは、その物を探すという行為を通して、何か別の、もっと大切なものを見つけようとしているのではないだろうか。
一つの物が欠けることで、世界の均衡は僅かに崩れる。
だが、その崩れた先に見える景色こそが、私たちに本当に必要な何かを示唆してくれるのかもしれない。
物がそこに「ない」という完璧な不在の状態こそが、実は最も豊かな「ある」の状態を、私たちに教えてくれているのではないだろうか。


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