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饒舌な静寂

わたしは独り言を言わない。
少なくとも、声帯を震わせ、空気の振動として鼓膜に届くような「言葉」を発することは、他者が目の前に存在するとき以外、ほとんどない。
これが生来の性格によるものなのか、あるいは幼少期の生育歴が関係しているのか、今となっては判然としない。
ただ、事実として、わたしは静かな人間だ。

もちろん、世の中にはそうでない人々も多く存在する。
カフェで隣り合わせた人が、まるで誰かと会話しているかのように「あ、そうだ、あれ買わなきゃ」と明瞭に呟いたり、道を歩く人が「まったく、もう最悪だ」と空(くう)に向かって悪態をついたりする。
その声の大きさは時として、それが本当に「一人」ごと、つまり自分自身にのみ向けられた内省の発露なのかと、疑いたくなるほどだ。

彼らを否定するつもりは毛頭ない。
むしろ、思考と発声がそれほどまでに直結していることに、ある種の素直さや、思考の純度のようなものすら感じる。
ただ、わたしは違う。
人がいなければ、わたしは徹底して無言だ。
部屋に一人きりでいる時、わたしが発する音は、ページをめくる音か、キーボードを打つ音、あるいは珈琲をすする液体音くらいのものだ。
わたしの空間は、物理的な「音」においては、限りなく無風に近い。

しかし、その静寂が、わたしの内面をも表しているかと言えば、それはまったくの誤解である。


✅沈黙の膜、その内側で

わたしの沈黙は、一枚の薄い膜のようなものだ。
外の世界と、わたしの内なる世界を隔てる、透明だが強靭な膜。
この膜は、他者の視線や存在を感じ取ると自動的に張られる。
そして、他者がいなくなると、その膜はそのままに、ただ音を通さない防音壁として機能し続ける。

なぜ声に出さないのか。
一つには、言葉を「他者へ向けて発するもの」として強く意識しすぎているのかもしれない。
言葉はコミュニケーションの道具であり、受け手がいて初めて意味をなす。
だから、受け手のいない空間で言葉を発することに、強い違和感と、どこか無意味さすら感じてしまうのだ。
それはまるで、宛先のない手紙を延々と書き続けるような、宙吊りの行為に思える。

あるいは、幼い頃、「一人でぶつぶつ言うのは変だよ」と誰かに指摘された記憶が、無意識の奥底に錆びた錨(いかり)のようにこびりついているのかもしれない。
だとしたら、わたしの沈黙は、他者の視線を内面化した結果としての、自己防衛的な鎧なのだろう。
声に出さないことは、誰にもジャッジされない安全地帯を確保する行為なのだ。

だが、重要なのはそこではない。
重要なのは、その沈黙の膜の内側で、一体何が起きているかだ。

物理的な音が消えた部屋で、わたしは決して「空っぽ」にはならない。
むしろ、その逆だ。
外の世界からのノイズが遮断された瞬間、わたしの内側では、堰(せき)を切ったように別の「音」が溢れ出す。
それは、声にはならない、無数の言葉たちの奔流だ。

わたしの静けさは、真空なのではない。
それは、あまりにも多くの言葉が飽和し、高密度に圧縮された結果、かえって音が失われたかのように見える状態――プレナム(充満)なのだ。
わたしの沈黙は、内面の饒舌さを守るための、一種の結界なのかもしれない。

✅頭の中の円卓会議

外でのわたしが「静か」であるほどに、頭の中のわたしは「激しく」トークしている。
これは比喩ではない。
文字通り、そこには複数の「わたし」が存在し、時に議論し、時に罵り合い、時に慰め合い、時にどうでもいい冗談を言い合っている。
さながら、終わることのない円卓会議だ。

例えば、一日の終わり。
湯船に浸かるその静寂の中で、会議は始まる。
「今日のあの場面、なぜあんな言い方しかできなかったんだ」と糾弾する『検事のわたし』。
「いや、あれは相手の振り方が悪かったし、瞬時に返すにはあれが最善だった」と弁護する『弁護士のわたし』。
「そもそも、どっちでも良くない?もう寝たいんだけど」と欠伸(あくび)をする『怠惰なわたし』。
そして、それらすべてを冷ややかに見つめ、「さて、この議論の落とし所はどこだ。明日の行動指針にどう反映させる?」と分析する『議長のわたし』。

この会議は、反省会だけにとどまらない。
未来のシミュレーション、過去の記憶の再編集、読んだ本の一節を巡る哲学的問答、あるいは「もしも猫だったら、今何をするか」といった突拍子もない空想まで、議題は多岐にわたる。
この会議室こそが、わたしの思考の工場であり、感情の処理場なのだ。

外の世界で大きな声で独り言を言う人は、この会議の音声が少し外部に漏れ出してしまっている状態なのだろうか。
それとも、彼ら/彼女らにとっては、声に出す独り言と、頭の中の対話は、また別次元のものとして存在しているのだろうか。

この内なる対話は、時にわたしを疲弊させる。
音がないはずなのに、あまりの騒々しさに耳を塞ぎたくなることすらある。
だが同時に、この激しいトークこそが、わたしという存在の核を形成しているという確信もある。
他者に提示する、外向きの「わたし」が、編集され、整えられた「完成稿」なのだとすれば、頭の中の会議は、推敲(すいこう)前の、矛盾と混沌に満ちた「初稿」だ。
そして、作品の本質は、しばしばその初稿にこそ宿る。

✅わたしは、どこまで「わたし」か

外では静かに頷き、頭の中では激しく反論する。
わたしたちは皆、程度の差こそあれ、こうした二重性を抱えて生きている。
声に出す言葉、タイプする文字、それら他者から観測可能なアウトプットだけが「その人」なのだろうか。

もし、ある日突然、この頭の中の対話がすべて可視化され、あるいは音声化されてしまったら、世界はどうなるだろう。
人々は、他者の内面の騒々しさに耐えきれず、互いに距離を取るようになるだろうか。
それとも、意外にも「なんだ、君も同じことを考えていたのか」と、これまでになく深く共感し合えるのだろうか。

わたしの内側で渦巻く、声にならなかった無数の言葉たち。
それらは、誰にも知られることなく、わたしと共に生まれ、わたしと共に消えていく運命にある。
それらを「存在しない」ものとして切り捨ててしまっていいのだろうか。

他者から見えている、あの静かな「わたし」と。
わたしの内側で、今この瞬間も絶え間なくしゃべり続けている無数の「わたし」。

本当の「わたし」とは、一体、この境界線のどこに立っているのだろう。
いや、そもそも、その境界線自体、わたしの内側だけが知る、極めて曖昧な幻想に過ぎないのかもしれない。

あなたの静寂の内側では、今、どんな声が響いているだろうか。


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