あたしと彼のものがたり
世界の輪郭は、いつだって曖昧だ。
少なくとも、あたしにとっては。
くっきりと色づいている部分と、まるで滲んだ絵の具のようにぼやけている部分が混在していて、その境界線はひどく頼りない。
みんながあたりまえだと思っている現実のすぐ隣に、あたしだけの真実が息を潜めている。
そこに彼がいた。
ただ、静かに。
あたし以外の誰も、その存在に気づかないまま。
これは、そんなあたしと、あたしの隣にだけいた、彼のものがたり。
✅彼はそこにいる
彼は、いつも窓際の席に座っていた。
春の柔らかな日差しが、彼の色素の薄い髪を透かして、きらきらと光の粒子を散らす。
彼はあまり喋らない。
俯きがちで、その長いまつ毛が作る影が、いつも少しだけ寂しそうに見えた。
みんなは彼の存在に気づかない。
まるで彼が、その場所の風景の一部であるかのように、彼の隣を通り過ぎ、彼の上を言葉が飛び交っていく。
でも、あたしには見えていた。
彼がノートの隅に、誰にも見せない小さな絵を描いていることも、教科書の文字を目で追いながら、時折ふっと遠くを見つめていることも。
たまに、二人の視線がかち合う時がある。
そんな時、彼は少しだけ困ったように眉を下げて、小さな声で呟くのだ。
「大丈夫……?」
何が大丈夫なのか、彼は決して言わない。
あたしが大丈夫なのか、それとも彼自身が大丈夫なのか。
その問いは、答えのないまま教室のざわめきの中に溶けていく。
またある時は、消え入りそうな声でこう尋ねることもあった。
「僕、嫌われてる?」
その声は、ひどくか細くて、自信がなさそうで、あたしはいつも胸が締め付けられるような気持ちになった。
だからあたしは、誰にも聞こえないように、彼にだけ届くように、そっと頷いてあげるのだ。
「そんなことないよ」と。
彼はそれを聞くと、ほんの少しだけ口元を綻ばせて、安心したようにまた窓の外に視線を戻す。
そのやり取りは、あたしと彼だけの秘密。
彼がそこに「いる」という、何よりも確かな現実だった。
✅周りの人々には見えない
「ねえ、さっきから誰と話してるの?」
親友の言葉は、いつも鋭くあたしの世界に突き刺さる。
あたしが彼と視線を交わすたび、彼女は怪訝な顔をした。
家に帰れば、母親が心配そうに言う。
「最近、少しぼーっとしていることが多いわよ」。
父親はもっと直接的だった。
「空想もいいが、現実を見なさい」。
みんなは、あたしがおかしいという。
そんなヤツはいない、と口を揃える。
あたしのすぐ隣で、あたしの言葉を待っている彼の存在を、頭ごなしに否定する。
そのたびに、あたしの心は固く閉じていった。
どうして見えないのだろう。
どうして信じてくれないのだろう。
「彼は、とても大人しい人だから。きっと、みんなには見えていないだけだよ」
あたしは必死に説明した。
彼は臆病で、気弱で、大勢の前に姿を現すのが苦手なのだと。
あたしの言葉は、周りの人々にとっては奇妙な戯言にしか聞こえなかったらしい。
同情するような、あるいは少しばかり軽蔑するような視線が、あたしを包み込む。
次第にあたしは、彼のことを話すのをやめた。
あたしと彼だけの世界を守るために、外側からの言葉をすべて遮断した。
大丈夫。
あたしが、あたしだけが、彼の存在を分かっていればそれでいい。
そう、自分に言い聞かせ続けた。
✅彼はあたしだった
ある朝、教室に行くと、彼の席は空っぽだった。
がらんとした空間に、ただ朝日が差し込んでいるだけ。
その日を境に、彼がぱったりと姿を見せることはなくなった。
不思議と、寂しいとか、悲しいという気持ちは湧いてこなかった。
まるで、最初からそれが決まっていたかのように、あたしは自然にその事実を受け入れていた。
彼はどこかへ消えてしまったわけじゃない。
きっと、あたしの中に来たのだと、なぜか確信していた。
それから少しして、周りのあたしへの評価が、ほんの少しだけ変わった。
「最近、少しだけハキハキ喋るようになったね」
「前より、自分の意見を言うようになったんじゃない?」
友達の言葉に、あたしは内心で頷いた。
そう、彼があたしの中に入ったからだ。
俯きがちだったあたしの視線は、少しだけ上がり、人の目を見て話せるようになった。
答えに詰まると、心の奥からか細い声が聞こえる気がした。
「大丈夫……?」と。
それは、かつて彼がくれた言葉。
でも今は、あたしが自分自身に問いかけている言葉だった。
彼とは、一体誰だったのだろう。
みんなが言うように、あたしが見ていたただの幻だったのか。
それとも、臆病で、自信がなくて、世界を怖がっていた、もう一人のあたし自身の姿だったのか。
今となっては、どちらでもいいような気がする。
ただ一つ確かなのは、かつて窓際に座っていた彼の眼差しで、あたしは今、世界を見ているということだ。
鏡に映るあたしの瞳の奥に、時折、あの寂しそうな彼の影がよぎる。
あたしだった彼、それとも彼になったあたし。
その境界線は、今日もやっぱり曖昧なまま、世界に溶けている。
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