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ぼくの留守番日記

ぼくの城は、リビングのソファの、ちょうど真ん中だ。
学校から帰ってきて、「ただいま」と誰もいない玄関に声をかける。
それはもう、おまじないみたいなものだ。
ランドセルを床に放り投げ、冷蔵庫から麦茶を取り出して、勢いよくソファにダイブする。
ここが、ぼくの定位置。
ぼくだけの、特別な場所。
お母さんがパートから帰ってくるまでの数時間、この家はまるごとぼくの城になる。
いわゆる「鍵っ子」というやつだけど、ぼくはこの静かな時間が結構好きだった。
テレビの音も、ゲームの音も、ページをめくる本の音も、全部ぼくが主人公の物語のBGMになるからだ。


✅一人ぼっちでも平気

お母さんは、ぼくに学童へ行ってほしそうだった。
「みんなと遊んだ方が楽しいでしょ?」と、少し寂しそうな顔で言う。
でも、ぼくは首を横に振る。
学童には、人の作ったおもちゃをすぐに取ったり、ちょっとしたことですぐに仲間外れにしたりする、嫌なやつがいる。
そんな窮屈な場所で無理して笑うくらいなら、一人でいる方がずっと自由で、ずっと楽しい。

「大丈夫だよ。一人で留守番できるから」

そう言うと、お母さんはいつも「ごめんね」とぼくの頭を撫でる。
ぼくは、お母さんにそんな顔をさせたいわけじゃない。本当に、平気なのだ。
一人でいることは、寂しいことじゃない。
自分だけの時間を、誰にも邪魔されずに満喫できる、贅沢な時間だ。

宿題は、いつも30分で終わらせる。
その後は、お母さんが戸棚の奥に隠している、とっておきのおやつを探す宝探しの時間だ。
ポテトチップスの袋をそっと開けて、ソファの上で足をぶらぶらさせながら食べる。
窓の外では、同じくらいの年の子たちが、キーキーと甲高い声をあげて走り回っている。
それをぼんやり眺めながら、ぼくはぼくの世界に浸る。
分厚い図鑑を広げて古代の恐竜に思いを馳せたり、まだクリアできていないゲームのステージに挑戦したり。
世界は、このリビングの窓の内側に、無限に広がっていた。

ピンポーン。

突然のチャイムの音に、心臓がどきりと跳ねる。
お母さんとの約束が、頭の中で再生される。
「のぞき窓をみて、郵便屋さんか宅配便の人じゃなかったら、絶対に開けちゃダメ。居ないフリをしててね」。
ぼくは足音を忍ばせて玄関に向かい、つま先立ちでのぞき窓に目をやった。そこに映っていたのは、いつもの配達員さんの青い制服ではなかった。

✅ぼくは一人じゃなかった

のぞき窓の向こう、歪んだレンズの先に見えたのは、小さな、小さな女の子だった。
肩まで伸びた髪が、不安そうに揺れている。
両手で自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめて、大きな瞳には涙の膜が張っていた。
今にも、その透明な粒がこぼれ落ちてしまいそうだ。
五歳くらいだろうか。
こんな小さな子が、どうして一人でここにいるんだろう。

ぼくの頭の中では、お母さんとの約束と、目の前の小さな存在が、激しく戦っていた。
無視をすれば、この子はずっとここで泣いているのかもしれない。
もし、悪い人に連れて行かれたら?ぐるぐると悪い想像が渦を巻く。
ぼくは、ごくりと唾を飲み込んだ。
大丈夫。ぼくはもう小学三年生だ。

そーっと、本当に小さな音で鍵を開け、チェーンをかけたまま、ほんの少しだけドアを開けた。
冷たい空気が、足元から忍び込んでくる。

「……どうしたの?」

ぼくの声は、自分でも驚くほど震えていた。
女の子は、ぱっと顔を上げた。
そして、その潤んだ瞳がぼくをまっすぐに捉えた瞬間、信じられない言葉が飛び出してきた。

「おにいちゃん!!!」

え。 頭が真っ白になった。お兄ちゃん?ぼくに兄弟はいない。
いるはずがない。
混乱するぼくをよそに、女の子は堰を切ったようにわっと泣き出した。
ぼくはもう、どうしていいかわからなくて、慌ててお母さんに電話をかけた。

「もしもし、お母さん!?家の前に、小さな女の子がいて…」 事情を説明すると、電話の向こうのお母さんの声が、明らかに強張った。
「その子、どんな子?どんな服着てる?」 特徴を伝えると、お母さんは息を飲んだ。
ぼくが今まで聞いたことがないくらい、驚いて、動揺している声だった。
「すぐ帰るから!絶対にその子から目を離さないで!」。

それからお母さんが息を切らして帰ってくるまでの三十分は、まるで永遠のように感じられた。
ぼくは結局、女の子を家の中に入れて、麦茶を飲ませてあげた。
女の子は、ぼくの後ろを、ひよこのようについて歩いた。

そして、判明した事実は、ぼくが今まで積み上げてきた「ぼくだけの世界」を、ガラガラと音を立てて壊していくような、衝撃的なものだった。

その子は、ぼくが生まれてすぐに離婚したお父さんが、新しい人と作った家族の、ぼくの「妹」だった。
お父さんはずっと、ぼくたちの家のすぐ近くに住んでいたらしい。
そのお父さんが、重い病気で入院したこと。
そして、それを看病していたお父さんの奥さんも、心労で倒れてしまったこと。
頼れる人が誰もいなくて、最後の手段として、お母さんに連絡が来たのだという。
お母さんは、ぼくには言わずに、一人で悩んでいたのだ。

✅家族って不思議だ

その日から、ぼくの留守番日記は、新しいページを迎えた。
一人ぼっちだったぼくの城に、小さな住人が増えたのだ。
最初は、どう接していいかわからなかった。
妹の「あーちゃん」は、いつもぼくの服の裾を掴んで離れない。
ぼくがソファに座れば、隣にちょこんと座ってくる。
ぼくが図鑑を読めば、隣からのぞき込んでくる。
静かだったぼくの時間は、あーちゃんの「ねぇ、これなあに?」という質問と、きゃっきゃっと笑う声で、すっかり賑やかになった。

一人で食べるポテトチップスより、二人で「どっちが大きいかな?」と言いながら食べる方が、なんだかずっと美味しく感じた。
一人でクリアするゲームより、「お兄ちゃん、すごい!」と隣で応援されながらプレイする方が、何倍もドキドキした。
一人ぼっちでも平気だと思っていた。
ううん、平気じゃなかったのかもしれない。
ただ、知らなかっただけなんだ。
誰かと一緒にいる時間の、この温かさを。

お母さんは、時々遠い目をしてあーちゃんを見ている。
きっと、色々なことを考えているのだろう。
ぼくの知らない、お父さんのこと。
これからどうなっていくのか、未来のこと。

家族って、不思議だ。
会ったこともないお父さん。
突然現れた妹。
そして、その二人を静かに受け入れたお母さん。
ぼくたちが一緒にいるこのリビングは、なんだか不格好で、ちぐはぐなパズルのピースを無理やりはめ込んだみたいだ。
でも、不思議と、そこには温かい何かが流れている。

あーちゃんとの生活が、いつまで続くのかはわからない。
お父さんの病気が治ったら、あーちゃんは帰っていくのかもしれない。
その時、ぼくの城はまた、元の静かな場所に戻るのだろうか。

ぼくの留守番日記は、あの日から、ぼくと妹の交換日記になった。
今日のページには、二人で描いた、へんてこな顔のライオンの絵が描いてある。
この日記の最後のページは、一体誰が、どんな言葉で埋めるのだろう。
ぼくはまだ、その答えを知らない。


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