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海馬で踊るわたしたち。

わたしたちの脳みその中には、小さなダンスホールがあるらしい。
その名を「海馬」。焼きたてのパンの匂いに遠い日の朝食が立ち上がり、不意に流れたメロディが忘れたはずの涙を連れてくる。
意識なんていうお行儀のいい客とは別に、記憶たちはこの舞台で、実に気まぐれに、そして情熱的に踊っている。

喜びも、悲しみも、どうしようもない気まずさも。すべては等しく、このダンスホールの主役だ。
このエッセイは、そんなあなたの、そしてわたしの脳裏で、今この瞬間も繰り広げられているであろう、愛おしくも厄介な記憶のダンスを、そっと覗き見るためのお誘いである。


✅忘れたくない、消せない記憶の舞台裏

忘れられない光景というものがある。
わたしのそれは、妻が彼女の父親と、まるで友達のように冗談を言い合っている姿だった。
わたしの育った家では、父親は常にアルコールの匂いをさせ、母やわたしたち兄弟に手を上げるのが日常だったから、「父親」と「冗談」が同じ空間に存在すること自体が、天変地異のような衝撃だった。

あの瞬間、わたしの海馬はフル回転したに違いない。
驚きと、少しの羨望と、そして「自分の当たり前は、当たり前ではなかった」という残酷な安堵。
これらの感情が、雷のような光と音を伴って、記憶のフィルムに焼き付けられたのだ。
専門家はこれを「エピソード記憶」と呼び、感情を司る「扁桃体」との連携プレーなのだと解説するだろう。
だが、わたしたちの感覚からすれば、もっと単純な話だ。
心臓を鷲掴みにされるような出来事は、忘れようにも忘れられない。
海馬が「これは重要!」と、特大のハンコを押してしまったのだから仕方がない。

一方で、海馬のやつは実に厄介なことに、消し去りたい記憶ほど、鮮やかな4K映像で保存しやがる。
アルコールの匂い、母の怯えた背中、響き渡る怒声。
これらの記憶は、忘れたいと願うほど、ダンスホールのVIP席にふんぞり返って、時折ニヤリとこちらを見るのだ。
どうやらわたしの海馬は、感情のタグ付けは得意らしいが、その整理整頓はからきし苦手のようだ。

✅心と記憶の綱引き──ストレスという名の不協和音

順風満帆に見えたダンスホールにも、招かれざる客が土足で上がり込んでくることがある。
わたしの場合は、それが「うつ病」と「パニック障害」という、とびきりたちの悪い連中だった。

ストレスという名のDJが流し始めた不協和音に、わたしの海馬はみるみるうちに荒れていった。
集中力は霧散し、昨日食べた夕飯すら思い出せない。
あれほど鮮明だった記憶のフィルムは色褪せ、大切なはずの思い出さえ、どこか他人事のように感じられた。
ストレスホルモンであるコルチゾールが、海馬の繊細な神経細胞を傷つけるのだという。
まるで、ダンスフロアに降り注ぐ酸性雨のように、記憶の舞台をじわじわと蝕んでいく。

特にパニック障害の渦中にいた頃は、記憶と身体が完全に分離してしまったかのようだった。
「大丈夫だ」と頭で言い聞かせても、心臓は勝手に暴れ出し、呼吸は浅くなる。
海馬のブレーキ機能が壊れ、感情のアクセルが踏みっぱなしになっているような状態。
あの「二度となりたくない」という強烈な身体感覚こそ、ストレスが記憶の舞台をいかに暴力的に支配するかを物語っている。

だが、人間とはしなやかなものだ。
不協和音の中で、わたしたちは必死に足元を探り、新しいステップを覚えようともがく。
わたしの場合は、それがカウンセリングであり、膨大な読書であり、そして何より、妻の夢を支えるために始まった「兼業主夫」という未知のダンスだった。

✅まとめ

過去は変えられない。
アルコール依存の父も、病に苦しんだ日々も、フィルムを編集するように消し去ることはできない。
だが、面白いことに、わたしたちの海馬は「記憶の再構築」という、ささやかな魔法を使うことができるらしい。
つまり、過去の出来事への「ナレーション」を、今から吹き替えることは可能なのだ。

ワンオペで子育てに奔走し、要介護の義母に寄り添い、三匹の猫のしもべとして暮らす日々。
そんな慌ただしい毎日が、古い記憶のフィルムに新しい音声を重ねてくれた。
父から受けた傷は、「だからこそ、わたしは違う形の家族を作りたかったのだ」という物語に。
病の苦しみは、「だからこそ、人の痛みに寄り添える強さを手に入れたのだ」という誇りに。

あなたのダンスホールでは、今、どんな曲が流れているだろうか。
もしもそれが不協和音なら、焦らなくてもいい。
ステップを間違えたって、転んだって構わない。
良い睡眠、美味い飯、気の置けない友人との無駄話、時にはスマホを置いて空を見上げること。
そんな些細なことで、ダンスホールの空気は少しずつ変わっていく。

わたしたちは皆、それぞれの人生という名のダンスを、海馬という舞台で踊り続けるダンサーだ。
不格好でも、不器用でも、踊り続けるその姿は、案外、美しくしなやかなものなのだと、わたしは思うのである。


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