いつも来るあのお客たちの正体
白々しい蛍光灯の光が、夜の闇を四角く切り取る。
僕の城であり、牢獄でもあるコンビニの深夜。
外の世界では、ほとんどの物語が眠りについている時間だ。
時折、自動ドアが開く無機質なチャイムの音だけが、僕が社会と細く繋がっていることを証明してくれる。
大学二年の夏。
僕は、この夜の世界でひたすらバーコードをスキャンし、床を磨き、商品を棚に並べていた。
すべては、愛する彼女との韓国旅行のため。
スマートフォンの待ち受け画面で微笑む彼女の笑顔が、僕の唯一の原動力だった。僕の世界は単純だ。
彼女と、旅行代を稼ぐためのこの単調な労働。
それ以外は、まるでガラスの向こうの風景のように、ぼんやりと霞んでいた。
このコンビニに現れる人々もまた、そんな風景の一部に過ぎなかった。
少なくとも、あの夜までは。
✅コンビニコーヒーとミニ羊羹の男
午前二時。
夜が最も深く、静かになるこの時間帯に、その男は決まって現れる。
くたびれたスーツに、少し猫背気味のシルエット。
彼は店内を一周するでもなく、まっすぐコーヒーマシンへと向かう。
そして、ホットコーヒーのLサイズを淹れ終わると、レジ横の和菓子コーナーから、小さな煉羊羹をひとつ掴んで僕の前に置くのだ。
「……」
彼は何も言わない。僕も「二百八十六円です」と、感情を消した声で告げるだけ。
そのやり取りは、まるでプログラムされた機械のようだった。
僕は彼のことを、心の中で「羊羹の男」と名付けていた。
なぜ、コーヒーに羊羹なのだろう。
普通なら、ドーナツか、せめてチョコレートではないか。
この真夜中に、スーツ姿で羊羹を欲する人生とは、一体どんなものなのだろう。
深夜まで続く過酷な仕事の合間なのだろうか。
それとも、これから夜勤に向かう前の、ささやかな儀式なのだろうか。
彼の疲れた目の奥には、どんな物語が隠されているのか。
そんなことを一瞬だけ考えるけれど、すぐに興味は失せる。
彼は僕にとって、午前二時を告げる時計の針のような存在でしかなかった。
彼の人生がどうであろうと、僕の時給が変わるわけではない。
僕の関心は、レジの金額と、彼女に送る「バイト終わったよ」のメッセージだけに向いていた。
彼は、僕のいる世界とは決して交わらない、遠い世界の住人。
僕がスキャンする無数の商品と同じ、ただの記号の一つだった。
✅トイレだけ借りるお姉さん
「羊羹の男」が去って一時間ほど経った午前三時過ぎ。
今度は、別の常連客が現れる。
少し派手な化粧に、夜の匂いをまとった、綺麗なお姉さん。
彼女は店に入ると、僕の顔をちらりと見て、申し訳なさそうに、しかしきっぱりとした口調でこう言うのだ。
「トイレ、お借りします」
以前は、彼女の目的はそれだけだった。
けれど最近、彼女の行動に小さな変化が生まれた。
トイレから出てきた後、すぐには帰らず、店内をゆっくりと、まるで何かを探すかのように歩くのだ。
ある夜、彼女は新商品のアイスが並ぶ冷凍ケースの前で足を止めた。
自分が食べるためというよりは、何かを吟味するかのような真剣な眼差し。
ピスタチオ味のアイスをじっと見つめ、次に期間限定のフルーツバーに目を移す。
しかし、結局は扉を開けることなく、ふっと溜息をついてその場を離れた。
また別の夜には、ティーン向けのファッション雑誌が並ぶ棚の前にいた。
彼女の雰囲気にはおよそ似つかわしくない、キラキラした表紙の雑誌。
その付録紹介のページを、彼女は指でそっとなぞっていた。
カラフルなメイクポーチの写真を見つめるその横顔は、僕の知る夜の顔とは違い、どこか柔らかく、慈しむような色を帯びていた。
そして、僕が近くで品出しをしていることにも気づかず、ほとんど吐息のような声で呟いたのだ。
「…あの子、こういうの、好きそうね…」
その瞬間、僕の耳はその言葉を拾ってしまった。
「あの子」とは誰だろう。娘だろうか。
彼女の年齢からすれば、ティーンエイジャーの娘がいてもおかしくはない。
しかし、だとしたらなぜ、母親である彼女がこんな時間に一人でコンビニにいるのだろう。
僕の頭の中では、勝手な物語が組み上がり始めていた。
何か複雑な家庭の事情があって、今は離れて暮らす娘のことを、こうして夜中に一人、偲んでいるのではないか。
彼女が纏う夜の匂いも、その寂しげな横顔も、僕のその悲劇的な想像を補強する材料になっていった。
結局、その夜も彼女は何も買わなかった。
ただ、僕と目が合うと、少しはにかむように会釈をして、夜の闇へと消えていく。
僕の心には、以前とは違う種類の謎が刻み込まれていた。
彼女は単なる「トイレのお姉さん」ではなくなった。
ティーン雑誌を眺め、会えない娘を想う、訳ありの女性。
彼女の存在は、僕の中でより一層ミステリアスな、そして少しだけ物悲しい重みを持つようになっていた。
✅世間というのは狭いものだ
夏休みが始まり、僕たちの旅行計画もいよいよ大詰めを迎えていた。
彼女が「一度、うちでお父さんとお母さんに会ってほしい」と言い出したのは、そんな時だった。
彼女のことは何でも知っているつもりだったが、ご両親となると話は別だ。僕は、生まれて初めて経験するほどの緊張を胸に、手土産の菓子折りを握りしめて、彼女の実家のインターホンを鳴らした。
「はじめまして、〇〇です。いつも、娘がお世話になっております」
リビングに通され、硬いソファに腰を下ろした僕の前に、厳格そうな面持ちで現れたお父さん。
僕はその顔を見て、息が止まるかと思った。
見間違えるはずがない。
毎日、午前二時に僕のレジを通り過ぎていく、あの男。
家着であるポロシャツを着ていても、その疲れた目の面影は隠せない。
「コンビニコーヒーとミニ羊羹の男」が、そこにいた。
僕の頭は真っ白になった。なんと声をかければいいのか。
僕があなたの深夜の儀式を知っていることを、あなたは知っているのか。
混乱する僕を追い詰めるように、キッチンからお盆を持ったお母さんが現れた。
「まあ、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
その穏やかな微笑み。
僕は二度目の衝撃に襲われた。
派手な化粧を落とし、上品なエプロンをつけたその人は、紛れもなく、あの女性だった。
僕が「トイレだけ借りるお姉さん」と呼び、悲劇のヒロインだと勝手に想像していた、あの人だった。
その瞬間、僕の中でバラバラだったピースが、音を立てて組み上がっていく。
僕の推測は、半分だけ当たっていて、そして、決定的に間違っていた。
彼女は、僕がぼんやりと想像していた通り、夜に仕事をしていたのだ。
あの派手な化粧も、僕が感じ取った「夜の匂い」も、その証だったのだ。
しかし、僕が憐れみや好奇の目で見ていたその仕事は、何かから逃げるためのものでも、孤独を紛らわすためのものでもなかった。
目の前の、温かい家庭。
深夜まで働く夫。
大学に通い、夏には海外旅行に行こうとしている娘。
その日常を守るため、支えるために、彼女はもう一つの顔を持っていたのだ。
僕が見ていたのは、彼女の「夜の顔」などという生易しいものではなく、「母親」という名の戦士の戦闘服だったのだ。
コンビニのトイレは、彼女にとって戦場から我が家へと帰還するための、束の間の休息地だったのかもしれない。
そこで鏡を見つめ、戦闘服である濃い化粧を少しだけ直し、戦士の顔から母親の顔へと戻るための、神聖な儀式の場所だったのだ。
そして、娘が好きそうな雑誌やアイスを眺めるのは、何のために戦っているのかを、その理由そのものである愛しい我が子の存在を、再確認する行為だったのだ。
僕が勝手に「訳あり」のレッテルを貼った彼女の姿は、僕の知らない場所で、誰よりも深く、切実な家族への愛情に満ちた行動だった。
自分の想像力の、なんと浅はかで、傲慢だったことか。
彼らは、僕のことを覚えているだろうか。
あの深夜のコンビニで、無感動にバーコードをスキャンしていた、眠そうな顔の店員として。
もしそうだとしたら、この食卓は、なんと奇妙で、なんと滑稽なのだろう。
僕たちは互いの秘密の顔を知りながら、何も知らないふりをして、これから家族になろうとしている。
「学費もかかるのに、旅行なんて、無理しなくていいのよ」
目の前でそう言って僕に微笑む彼女の顔に、僕はあの夜、ティーン雑誌の頁をそっとなぞっていた、孤独で、気高い戦士の横顔を重ねて見ていた。
人は誰しも、誰かの物語の脇役だ。
そして、自分が脇役だと思っていた物語が、ある日突然、自分の人生の根幹を揺るがす本編になることがある。
僕が立っていたコンビニのレジカウンターは、世界と僕を隔てる境界線などではなかった。
それは、無数の人生が交差し、互いの物語がかすかに触れ合う、巨大な舞台の最前列だったのだ。
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