二度と行けないあのお店
味覚というものは、不思議な記憶装置だ。
舌の上でほどける甘みや、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いは、時として写真や言葉よりも鮮明に、過去の情景を呼び覚ます。
それは単なる思い出の再生ではない。
忘れていたはずの感情、その時の空気、光の色までをも伴って、まるでタイムスリップしたかのような感覚に襲われるのだ。
僕にとって、その引き金となるのは、決まってオムライスだ。
ケチャップの酸味とバターのコクが溶け合った、あの黄金色の料理。
それは僕の人生を決定づけた、ある夜の出来事へと繋がる、運命の味なのである。
✅偶然出会った
あれは大学四年の秋だったと思う。
いわゆる貧乏学生だった僕は、学費と生活費を稼ぐため、深夜まで続く建設現場のアルバイトに明け暮れていた。
その日も、へとへとに疲れた体を引きずり、最終電車に揺られて最寄駅に着いたのは、とうに日付が変わった頃だった。
ポケットを探っても、出てくるのは小銭ばかり。
次のバイト代が入るまで、あと一週間。
冷蔵庫にあるのは、特売で買った卵ともやしだけ。
今夜も卵かけご飯か、もゆしを塩コショウで炒めるだけか。
そう思った瞬間、猛烈な空腹と、自分の境遇に対する惨めさがないまぜになった感情がこみ上げてきた。
ふらふらと、まるで何かに導かれるように、僕は駅前の喧騒から逃れて一本の細い路地裏へと足を踏み入れた。
古びたスナックや居酒屋の看板が、ぼんやりと暗闇に浮かんでいる。
こんな場所に、学生が安く腹を満たせるような店があるはずもない。
引き返そうとした、その時だった。
路地の突き当たりに、ランプの灯りが一つ、ぽつんと灯っているのが見えた。近づいてみると、それは小さな洋食屋だった。
木製のドアには、手書きで「オムレツ」とだけ書かれた小さなプレートが掛かっている。ショーウィンドウもなければ、メニューが張り出されているわけでもない。
しかし、その控えめなたたずまいから、不思議と温かいオーラが滲み出ていた。
空腹は限界だった。
そして何より、その灯りに吸い寄せられてしまったのだ。
僕は無意識のうちに、その重い木のドアに手をかけていた。
「いらっしゃい」
カラン、というドアベルの音とともに、低いが優しい声が僕を迎えた。
カウンターだけの狭い店内。
使い込まれて飴色になったカウンターの向こうで、恰幅のいい初老の男性が一人、静かにフライパンを磨いていた。客は僕だけだった。
「あの……オムレツ、一つ」
メニューもないのに、僕はプレートに書かれていたその単語を口にした。
オヤジさんは僕の顔をじっと見ると、何も言わずに頷き、慣れた手つきで卵を割り始めた。
ジュウ、という心地よい音と、バターの香ばしい匂いが店内に広がる。僕はその光景を、ただぼんやりと眺めていた。
やがて、僕の目の前に、完璧なラグビーボール型をした、黄金色のオムレツが置かれた。
表面はつややかに輝き、どこにも焼きむらがない。
スプーンでそっと切れ目を入れると、中から湯気とともに、とろりとした半熟の卵が溢れ出した。
夢中で口に運ぶ。
その瞬間、全身の細胞が歓喜の声を上げるような感覚に襲われた。
絶妙な塩加減。
バターの豊かな風味。
そして、卵そのものの、優しくて深いコク。
それは、僕が今まで食べたどんなご馳走よりも美味しかった。
単に空腹だったからではない。
その一皿には、疲弊しきった僕の心と体を、根本から癒してくれるような、不思議な力が宿っていた。
あっという間に平らげてしまった僕に、オヤジさんは水の入ったグラスを差し出しながら、にこりともせずに言った。
「腹、減ってたんだな」
僕はそこで、はっと我に返った。
財布の中身を思い出し、顔が青ざめる。
「すみません……僕、今、お金が……」
情けなくて、声が震えた。
こんなに素晴らしい料理をいただいておきながら、無銭飲食をするところだったのだ。
しかし、オヤジさんの反応は、僕の予想とは全く違うものだった。
「いいよ、タダで」
「えっ……」
「また来いよ。金がある時でいいから」
そう言って、オヤジさんはまたフライパンを磨き始めた。
その横顔は、僕には仏様のように見えた。
僕は何度も頭を下げ、ほとんど転がるようにして店を後にした。
あの夜、僕はただ空腹を満たしただけではなかった。
見ず知らずの他人から、理由のない、しかし海のように深い優しさを受け取ったのだ。
✅二度と行けなかった
あの夜の出来事は、僕の心に深く刻まれた。
オムレツの衝撃的な美味しさと、オヤジさんの無償の親切。
僕は、バイト代が入ったら真っ先にあの店へ行き、代金を払って、もう一度あのオムレツを注文するのだと心に誓った。
一週間後、給料袋を握りしめて、僕はあの路地裏へと向かった。
しかし、何度探しても、あの店は見つからなかった。
確かにこの角を曲がった突き当たりだったはずだ。
だが、そこにあるのは、古びたアパートの、苔むしたコンクリートの壁だけだった。
狐につままれたような気分だった。
記憶違いだろうか?
いや、そんなはずはない。
あの灯りも、木のドアも、カウンターの傷も、はっきりと覚えている。
その後も、僕は何度もその界隈を歩き回った。
近くの店で聞き込みをしても、「そんな洋食屋は知らない」と誰もが首を傾げるばかり。
いつしか僕は、あの店は幻だったのではないか、と考えるようになっていた。
あまりに空腹で、疲れ果てていた僕が見た、一夜限りの夢。
そうでも思わなければ、説明がつかなかった。
やがて僕は大学を卒業し、小さな出版社に就職した。
仕事は忙しく、貧乏学生時代とは違う種類の疲労に追われる日々。
それでも、心のどこかには、常にあの黄金色のオムレツと、寡黙なオヤジさんの姿があった。
それは、僕にとっての原風景のようなものになっていた。
どんなに辛いことがあっても、あの夜のことを思い出せば、もう少しだけ頑張れる気がした。
あの優しさは、確かに本物だったのだから。
✅あの味……
社会人になって数年が経ち、僕は一人の女性と恋に落ちた。
彼女は僕と同じ職場で働くデザイナーで、太陽のように明るい笑顔が魅力的な人だった。
僕たちは自然に惹かれ合い、やがて結婚した。
ささやかだが、温かい家庭。
僕は、人生で初めて、満たされているという感覚を知った。
結婚して初めての僕の誕生日。
妻は「今日は腕によりをかけてご馳走を作るね」と、朝からキッチンで楽しそうに腕を振るっていた。
そして、夜。
テーブルに並んだ料理の中に、それがあった。
見事なラグビーボール型をした、オムライス。
「わあ、美味しそうだな」
そう言って、僕はスプーンを手に取った。
何気なく一口、口に運んだ、その瞬間。
時間が、止まった。
舌の上に広がる、懐かしい味。
バターの香り、卵の火の通り具合、ケチャップライスの絶妙な味付け。
すべてが、寸分違わず、あの夜の味だった。
「あ……あの味だ……」
僕は呆然と呟いた。
妻はきょとんとして僕を見ている。
「どうして……。なんで、この味を知ってるんだ?」
僕のあまりの剣幕に、妻は少し驚いたように言った。
「え? だって、これは母から教わった、うちの味だから……。昔、父がよく作ってくれたんだって」
父? 彼女の父親は、物心つく前に両親が離婚してから、一度も会ったことがないと聞いていた。
「君のお父さんって……」
「私も顔は覚えてないんだけどね。なんでも、小さな洋食屋をやってたらしいよ。母とはそれで喧嘩が絶えなくて……。でも、このオムライスだけは絶品で、母も作り方だけはしっかり覚えてたんだって」
僕は言葉を失った。
点と点が、線になっていく。
あの路地裏。寡黙なオヤジさん。
そして、目の前で微笑む妻。
あの店は、幻ではなかった。
そして、あのオヤジさんの親切も、単なる気まぐれではなかったのかもしれない。
僕があの夜、あの路地裏に迷い込んだのは、本当に偶然だったのだろうか。
それとも、遠い未来で結ばれる運命の糸が、僕をあの場所へと手繰り寄せたのだろうか。
オヤジさんは、疲れ果てた若者の中に、未来の娘の伴侶となる男の姿を、予感していたのだろうか。
だから、あのオムレツを、「未来への投資」として、僕に託したのではないか。
今、僕の目の前には、父から娘へ、そして僕へと受け継がれたオムライスがある。
それはもはや単なる料理ではない。
時間と空間を超えて人を繋ぐ、愛と運命のバトンそのものだ。
二度と行けない、あのお店。
だが、その味は、その魂は、確かにここに在る。
僕はもう一度、スプーンでオムライスを口に運びながら、答えの出ない問いを、温かい湯気の中に探していた。
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