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毒親|機嫌で支配される家庭に、境界線はなかった

私の両親は薬剤師です。
親戚には軍医や獣医もいました。

世間的に見れば、ごく普通の、
むしろ安定した家庭だったと思います。

習い事もたくさんさせてもらいましたし、
塾にも通わせてもらいました。

いわゆる「教育熱心な家庭」と言えば、
そう見えると思います。

だから長い間、私は自分の家庭を
「問題のある家庭」だとは思っていませんでした。

むしろ、

自分がダメな子どもだから、親を怒らせてしまうのだ

そう思っていました。

でも、大人になって振り返ると、
あの家庭にははっきりとした特徴がありました。

それは、

常に誰かの機嫌を気にして生きる空気です。


■父のコントロール― 機嫌で相手を支配する


父はよく、人前で私をからかいました。

外食の席や学校の参観日など、人がいる場所で、

「お前はホンマにブスやな」

「アホな子ですんません」

と、笑いながら言うのです。

父にとっては冗談だったのだと思います。
周りの大人たちも一緒に笑っていました。

でも私は、その笑い声や目線が怖かった。

知らない大人たちが、自分を見て笑っている。
その空気に、強い恐怖を感じていました。

でも、怒ることも泣くこともできませんでした。

父の機嫌を損ねたくなかったからです。

父は、人前で反発されると
「面子を潰された」と感じて騒ぐタイプでした。

だから私は、笑うしかなかった。

母も父を止めませんでした。
「冗談だから」という空気で、一緒に笑っていました。

子どもながらに私は感じていました。

この場には、自分を守る人はいない。

こうして私は、少しずつ自己肯定感を削られていきました。


また、塾の近くに、
父がよく連れて行く寿司屋がありました。

父は日本酒を飲むと、だんだん声が大きくなります。

そして突然、私の成績の話になります。

「お前は本当にアホやな」

「なんでそんなことも分からないんや!」

板前さんや他のお客さんがいる前で、
平気で声を荒げます。

しばらく怒鳴ったあと、父は言いました。

「何か食え」

私は半ベソをかきながら、板前さんに注文しました。

「た、、たまごください」
「あと、エビ、、かっぱ巻きも、、」

なるべく値段の安いものを選んでいました。

今振り返ると、あのとき私は
「食べたいもの」を選んでいたわけではありません。

怒られた直後の私は、
これ以上父の機嫌を悪くしないこと
それだけを考えていました。

高いものを頼んだら、
また何か言われるかもしれない。

そんなことを、
無意識に計算していたのだと思います。

そのとき、若い板前さんが、
とても暗く、不憫そうな顔で私を見ていました。

その目が、今でも忘れられません。

私はただ恥ずかしくて、
俯くことしかできませんでした。


そして私の注文を見て、父は言いました。

「もっとええもん食えよ!」

そう言って、イクラやトロを勝手に注文し、
私の前に置きました。

断れば、さらに機嫌を悪くする。

同時に、それを「父なりの優しさ」と受け取らなければいけない気もして、私は何も言えずに食べました。

すると父は、こう言いました。

「お前は、ようそんな成績でそれ食べれるな」


自分で選んだわけではない。

気を遣って安いものを頼んだのに、それを否定され、さらに父の意向で高いものを与えられたうえで、また責められる。

子どもながらに、
まったく意味が分かりませんでした。

  • 与えておいて、奪う

  • 許しておいて、罰する

その場の機嫌でルールが変わる世界でした。
これは、「一貫性のないルールによる支配」でした。

今振り返ると、あれはもう理屈のある叱責ではなく、相手をコントロールするための振る舞いだったのだと思います。

今振り返ると、
父は理屈で怒っていたわけではありません。

そのときの機嫌で、
相手をコントロールし、支配する構造
でした。

怒鳴ることで空気を支配し、相手を萎縮させる。
そういう関係の作り方だったのだと思います。


■ 母のコントロール ― 境界線が無い関係

母は、私を強く管理する人でした。

母自身、姑や親戚との関係がうまくいっておらず、
常にどこかでストレスや不満を抱えていたのだと思います。

慣れない土地での生活。逃げ場のない人間関係。

その中で、母にとって唯一コントロールできる存在が、私だったのかもしれません。

結果として、母の世界と私の世界の境界線は、
ほとんどありませんでした。


母は、私の人間関係にも深く入り込んできました。

祖母の悪口を繰り返し聞かされる。
私の友達や、その家庭について否定的なことを言われる。

子どもの私は、
それをただ受け取ることしかできませんでした。

やがて私は、母が嫌う相手とは、
自分も距離を取るようになります。

そうしないと、母はそれを「裏切り」と受け取り、
強く怒るからです。


誰と仲良くするか。誰と距離を取るか。

それは本来、自分で選ぶもののはずなのに、
いつの間にか私は、「母の感情」を基準に人との関係を決めるようになっていました。

これは、
「他人の感情を基準に自己を形成する状態」でした。


そして当然のように、
その歪みは外の世界で影響を出します。

理由も分からず距離を置かれた友達は、
やがて私を避けるようになる。

子どもの世界の関係は、
とても繊細で、そして簡単に崩れます。

気づけば私は、少しずつ孤立していきました。


今思い出しても、不思議で、
そして象徴的な出来事があります。

祖母と、ただ普通に会話をしただけで、
母からビンタが飛んできたことがありました。

何がいけなかったのか、
当時の私は理解できませんでした。

説明もありませんでした。理由も与えられなかった。

ただひとつ、身体に残ったのは、

「母が嫌がることは、してはいけない」

という感覚だけでした。

それは理屈ではなく、
条件反射のように刻まれていきました。

誰かと話すときも、何かを選ぶときも、
まず先に浮かぶのは「母はどう感じるか」。

自分の気持ちではなく、
相手(母)の反応を起点に行動する。

そうやって私は、少しずつ“自分の輪郭”を見失っていったのだと思います。


■ 私は親の「アクセサリー」だった

親は、自分の理想を私に当てはめようとしていました。

習字
バレエ
ピアノ
バイオリン
進学塾
英会話
理科実験教室

いくつもの習い事を与えられました。

世間的に見れば、
「恵まれた環境」だったと思います。

実際、
当時の私はそれを疑うことすらできませんでした。

でも、
それらは私が望んだものではありませんでした。

「こうあるべき子ども」

「人に見せて誇れる子ども」

その型に、
私を当てはめるためのものだったのだと思います。

出来上がるのは、一人の人間ではなく、
親の理想を体現する“作品”のような存在。

周囲に見せるための、評価されるための、

いわば“外向きの完成品”。

今振り返ると、私はどこかで、
「育てられている」というより、
仕上げられている」という感覚を持っていた気がします。

もちろん当時は、そんな言語化はできませんでした。

ただ、好きかどうかではなく、
望まれているかどうかで選ぶ

やりたいかどうかではなく、
期待に応えているかどうかで判断する

そういう感覚だけが、
静かに身体に染み込んでいきました。

子どもの私は、それに逆らう術を知りませんでした。

従うことが正解で、
疑うことは“間違い”だと思っていたからです。

そしてその積み重ねが、

「自分が何を望んでいるのか分からない」状態を、
少しずつ作っていったのだと思います。


■ 家の中に「安全」がなかった

私の家には、もう一つ、はっきりとした特徴がありました。

安全な場所がないことです。

部屋で一人で過ごしていても、親は突然入ってくる。
勉強していないと怒鳴られる。
寝ていても、父が驚かせるためにドアを開けてくる。

扉はあっても、境界はありませんでした。

本来、子どもにとって自室は、外界から切り離された「安心できる場所」のはずです。

でも私にとってそれは、

  • いつ侵入されるか分からない場所

  • 常に気配を感じ取り続ける場所

  • 気を抜いた瞬間に、何かが起きるかもしれない場所

でした。

だから私は、無意識のうちに“待機状態”で生きるようになります。

  • 音に敏感になる

  • 足音に反応する

  • ドアの気配で身体が強張る

完全に気を抜く、という感覚を、
ほとんど知らないまま大きくなりました。

当時はそれが普通でした。
他の家庭を知らなかったからです。

でも今振り返ると、
あれは「落ち着かない家」ではなく、
明確に「安心が欠けている環境」だったのだと思います。

最近、ホーム心臓ドックを受けました。

そこで言われたのは、
睡眠中も交感神経が優位で、
副交感神経がほとんど働いていない
という状態でした。

つまり、
寝ている間も、身体が休息モードに入れていない
ということです。

医師はこう表現していました。

「常に臨戦態勢に近い状態ですね」

その言葉を聞いたとき、妙に腑に落ちました。

幼少期から続いている歯ぎしりも含めて、身体に起きていることの意味が、一本の線で繋がった気がしました。

いつ何が起きるか分からない環境で育った結果、
身体が“休む”という感覚を学習できなかった。

安心して力を抜く、という選択肢自体が、
そもそもインストールされていなかったのだと思います。

だからこれは、単なる性格の問題ではなく、
環境によって形成された、身体レベルの反応です。

そして今もなお残っている、
ひとつの後遺症なのだと思います。


■ 最後に

もし、「自分も同じかもしれない」と感じた方がいたら、

まずは、

「自分は何を我慢してきたのか」

それを、一つだけでいいので、
言葉にしてみるといいかもしれません。

大きなものでなくていい。

正しい言葉でなくてもいい。

ただ、
自分の中にあった“違和感”や“抑えてきたもの”に、
名前を与えてあげること。

それが、最初の一歩になるのだと思います。

このnoteでは、

・どんな環境で育ち
・どんな影響を受け
・どんな人間関係を繰り返し
・どうやって人生を作り直しているのか

その過程を、少しずつ書いていきます。

特別な話ではありません。
むしろ、どこにでもあるような構造の話です。

でも、

「自分だけじゃない」

そう思えた瞬間、人は少しだけ呼吸が楽になります。

そのための材料になれば、嬉しいです。

これからも『毒親エピソード』は、
少しずつ書いていきます。

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