毒親|“評価で育った人間”は、自分の人生を選べなくなる
私は長い間、
「自分が何をしたいのか」が分かりませんでした。
好き嫌いはあるはずなのに、
いざ選ぼうとすると、どこかで止まる。
やりたいかどうかではなく、
「それは正しいか」
「評価されるか」で判断してしまう。
その感覚の根っこを辿っていくと、
いつも同じ場所に行き着きます。
私の育った家庭です。
世間的に見れば、
いわゆる「教育熱心な家庭」でした。
習い事も多く、環境も整っていた。
将来のために、
きちんと準備されているように見える家庭。
実際、周囲からもそう思われていたと思います。
でもそこは、
“育てる場所”というより、
“親の理想を投影するための器として扱われる場所”だったのだと思います。
何をやるかは決まっていて、
どうなるべきかも、すでに用意されていた。
その中で、
「私はどうしたいのか」
自分の感覚を問われることは、
ほとんどありませんでした。
その輪郭をつくったのが、
いくつかの習い事での経験でした。
■ バレエ教室 ― 恥と恐怖が刻まれた場所
地元でもスパルタで有名なバレエ教室に通わされていました。
先生はとても厳しく、
間違えると竹刀で叩かれることもありました。
ある日、レッスン中にトイレに行きたくなりました。
我慢できなくなり、勇気を出して先生に伝えました。
次の瞬間、ビンタが飛んできました。
「我慢しなさい!!!」
その衝撃で、
私はスタジオでお漏らしをしてしまいました。
見学していた保護者たちの視線が、
一斉にこちらに向く。
驚きと、困惑と、少しの軽蔑。
あの空気は、今でも忘れられません。
母もその場にいました。
でも、私を庇うことはありませんでした。
むしろ、「情けない子を見る目」で、
私を見ていました。
先生は怒鳴り続けている。
周囲は見ている。
母は味方ではない。
私はただ、「消えてしまいたい」と思いました。
その出来事を境に、
私はひとつのことを覚えました。
「助けを求めると、叩かれる」
「つらくても、言ってはいけない」
「限界でも、我慢しなければいけない」
そうしないと、
叩かれる
恥をかく
見捨てられる
大人とは、そういうものなのだと、
身体で理解してしまったのだと思います。
それはバレエのレッスンの話ではなく、
「どうやって生きるか」のルールとして、
静かに刷り込まれていきました。
■ バイオリン ― 壊したのは楽器ではなく、限界だった
5歳から16歳まで、バイオリンを習っていました。
恐らくこれも、
母が“アクセサリーとしての私”を使って、
周囲に自慢できるから始まったものだと思います。
バレエと違って、
バイオリンの先生は優しい人でした。
でも、私はまったく興味がありませんでした。
それでも毎日、家で練習をさせられました。
間違えると、
罵声
ビンタ
が飛んできます。
ある日、私は限界を迎えました。
バイオリンを床に叩きつけました。
人生で初めての、明確な反抗でした。
そのとき母が言った言葉は、今でも忘れられません。
「何してるの!高いバイオリンなのに!」
――え。
心配していたのは、私ではなく、物でした。
壊れたのは楽器ではなく、私の方だったのに。
父は騒ぎを聞いて部屋から出てきましたが、
何も関与しませんでした。
誰も、何が起きていたのかを見ようとはしなかった。
あの日、私は理解しました。
この家では、
「私」よりも、
「壊れてはいけないもの」の方が大事なのだと。
だから私は、
自分を壊さないようにするのではなく、
壊れてもいいから、
怒られないように生きるようになりました。
■ 唯一のシェルター ― 理科実験教室と、突然の切断
そんな中で、
唯一「ここにいていい」と思えた場所がありました。
確か、小学校3年生くらいから通い始めた、
理科実験教室です。
そこには、
怒鳴る人もいない
間違いを責める人もいない
点数で評価する空気もない
ただ、目の前の現象に対して、
「どう思う?」
「なんでそうなるんだろうね」
と、問いかけてくれる先生がいました。
私が考えたことを口にしても、
たとえそれが的外れだったとしても、
否定されることはありませんでした。
ただ一言、
「面白いね」
そう言ってもらえる。
その一言が、私にとってはとても大きかった。
正解でも不正解でもない場所。
評価されるためではなく、
ただ「興味を持っていい」と許される場所。
そこだけが、私にとっての「安全な場所」でした。
でも、小学5年生のとき、それは突然終わります。
母に連れられて教室へ行き、
玄関に着いた瞬間、こう言われました。
「いまから辞めます。お世話になりましたって言いなさい。」
何が起きているのか分かりませんでした。
でも、考える余地はありませんでした。
私は、半泣きになりながら、
言われた通りに先生に伝えました。
「お世話になりました..…」
声はほとんど出ていなかったと思います。
先生は、少し間を置いてから、
とてもいたたまれないような表情で、
私を見ていました。
何も言わなかったけれど、
あの場にいた大人の中で、
唯一、「この子は本当は辞めたくないのだ」と
分かっていたのだと思います。
帰りの電車で、私は静かに泣いていました。
声を出すわけでもなく、ただ涙だけが落ちていく。
母は隣で、少し気まずそうにしていました。
でもそれは、私を心配している様子ではなく、
「公共の場で泣いている子どもがいる」
その状況をどう処理するか、という空気でした。
私の悲しさよりも、
周囲からどう見られるかの方が優先されていた。
あとから知った理由は、
「受験に集中させるために辞めさせた」でした。
理屈としては、理解できます。
でもあのとき切り捨てられたのは、
単なる習い事ではありませんでした。
私にとっての、
唯一の逃げ場であり、
唯一の安全な場所でした。
あの出来事で、私はもうひとつ学びました。
「好き」や「安心」は、優先されるものではない。
必要とされないものは、簡単に切り捨てられる。
たとえそれが、
自分にとってどれだけ大切なものでも。
だから私は、何かを好きになることや、
そこに居場所を見つけることに対して、
どこかでブレーキをかけるようになりました。
どうせまた、取り上げられるかもしれない。
そう思ってしまうからです。
■ 進学塾 ― 点数で価値が決まる世界
私は幼稚園の頃から塾に通っていました。
自由な時間は、ほとんどありませんでした。
学校でテストで95点を取っても怒られます。
「あと5点はどうした!」
ビンタが飛んできます。
満点でなければ意味がない。
そういう世界でした。
小学校高学年では、進学塾にぶち込まれました。
自習室にも監視カメラがあり、
集中していないと、先生の罵声が飛んでくる。
この頃にはもう、
「勉強=怒られるもの」
という感覚が、完全に出来上がっていました。
自分なりに点数を取れても、
先生も、親も、
それを褒めることはありませんでした。
できていない部分だけが指摘される。
足りないところだけが、価値の基準になる。
歴史や地理、天体や地学は得意でした。
でも、算数と理科(特に物理・化学)は壊滅的でした。
親の願いは、私を薬剤師にすること。
でもそのために必要な能力は、
私の中にはほとんどありませんでした。
だから私は、
「できないことが多い自分=価値がない」
という前提を、少しずつ受け入れていきました。
本当は、
得意なものもあったのに。
興味を持てる分野もあったのに。
それらはすべて、
“役に立たないもの”として扱われていたからです。
あの頃の私は、
「学ぶこと」ではなく、
「間違えないこと」に必死でした。
極限まで追い詰められたときは、
もう、宿題さえしなくなりました。
分からないからではありません。
間違った回答を提出することの方が、
耐えられなかったからです。
白紙の方が、まだましだった。
当然、宿題をやってこなかったことで、
先生には強く怒られました。
でもそれでも、
「間違える自分」を見せるよりは、
何も出さない方が安全だと感じていたのだと思います。
だから私は、勉強が嫌いになったのではなく、
「勉強している自分」を否定され続けた結果、
そこから距離を取るようになったのだと思います。
■ 英会話 ― トラウマの上塗り
「これからはグローバルの時代だ。次は英語だ。」
そう言われて、
進学塾と並行して英会話教室に入れられました。
そこは、日本語禁止。
間違えると減点。
先生はオーストラリア人で、当然すべて英語。
クラスは、
地元の悪そうなグループで構成されていました。
すでに出来上がっている空気の中に、
ひとりだけ、何も話せない状態で放り込まれる。
そんな環境でした。
すでに私は、
「間違えると怒られる」
という感覚が染みついていました。
当然、何も話せませんでした。
ある日の授業中、携帯が鳴りました。
母からでした。
教室に着いたら必ず電話をするルール。
その日だけ、うっかり忘れていました。
私は慌てて電話に出て、謝りました。
その瞬間、
「ジャパニーズ!!」
クラス全員に言われ、減点。
授業後、リーダー格の女子に言われました。
「授業中って分かってて電話してくる親ヤバくない?」
私は何も言えませんでした。
でも心の中では思っていました。
(あなた正しいよ。それ、母に言ってくれ)
あのときの私は、
外でも、内でも、逃げ場がありませんでした。
家では間違えれば怒られる。
外では間違えれば笑われる。
どちらにいても、
「そのままの自分」でいることが許されない。
だから私は、英語が苦手だったのではなく、
「話すこと」そのものが怖くなりました。
何かを発することは、
間違いの可能性を含んでいる。
そしてその間違いは、
責められるか、笑われるかのどちらかになる。
あの教室で起きていたのは、
語学の習得ではなく、
「沈黙することを覚える訓練」
だったのだと思います。
■ 習い事の正体 ― 育成ではなく“投影”
振り返ると、私の習い事は、
才能を伸ばすためのものではありませんでした。
親の理想を、
私に当てはめるためのものだったのだと思います。
私は、一人の人間ではなく、
「こうあるべき子ども」という作品でした。
だから、
好きかどうかではなく
望まれているかどうかで、すべてが決まっていた。
最初は、
「やりたいかどうか」を考えていたはずなのに、
気づけば、それを考えること自体をやめていました。
これをやったら怒られないか
これを選べば褒められるか
その基準だけで動くようになっていく。
何かを選ぶときも、
自分の中に答えを探すのではなく、
「正解」を外側に探しにいく。
そうやって少しずつ、
自分の感覚よりも、
他人の期待や評価の方が優先されていきました。
その結果、
「自分が何を望んでいるのか分からない」
状態になりました。
分からないというより、
感じても、それを採用していいのか分からない。
選ぼうとすると、どこかでブレーキがかかる。
それが長く続いたことで、いつの間にか、
「自分の望み」というもの自体が、
はっきりと形を持たなくなっていたのだと思います。
■ 今
大人になった今でも、
「竜胆はどうしたい?」と聞かれると、
頭が真っ白になっていました。
間違ったらどうしよう。
否定されたらどうしよう。
その不安が先に立って、
自分の答えに触れる前に、思考が止まってしまう。
でも最近、少しずつ変わってきました。
カウンセリングの中で、
「私はどうしたいのか」
それを、自分の内側に探しにいく感覚を、
少しずつ取り戻し始めています。
会社でも、まだ辿々しさは残るものの、
自分の意見を、言葉にできる場面が増えてきました。
以前は、何かを考えようとすると、
すぐに頭の中に親の声が入り込んできていました。
それは違う
それじゃダメだ
そんなことしてどうするの
でも今は、その声に気づいて、
「これは自分の声ではない」と
少し距離を取れるようになってきた。
間違ってもいいと思える瞬間も、
ほんの少しずつですが、増えてきました。
そうやって、
長い間押し込めてきた感覚を、
一つずつ拾い上げている状態です。
まだはっきりとした形にはなっていません。
でも、「分からないままでもいいから、自分の中に答えを探していい」
そう思えるようになってきたことが、
今の私にとっては、
大きな変化なのだと思います。
■ 最後に
幼少期に満たされなかったものは、
大人になってから取り戻すしかありません。
それには時間もお金もかかります。
でも、それでもいいと思っています。
これは遅れではなく、
やっと自分の人生を始めているだけだから。
もし、
「自分が何をしたいのか分からない」
そう感じている人がいたら、
それは欠陥ではなく、
“スタート地点”かもしれません。
