掌編小説:水色とオレンジの混ざり合った境い目【2303文字】
学校の帰りにスーパーに寄ってお豆腐を買う。母親からLINEが来て「お兄ちゃんがすき焼き食べたいっていうからお豆腐買ってきて」って言うから。「ついでにパパのビールも」って来たけど「制服で買えるわけないじゃん」って思って無視。
お兄ちゃんは、去年の夏頃、部屋から出てこなくなった。大学受験に失敗したときにひどく落ち込んで、予備校に行かなくなって、部屋にいる時間が増えて、いよいよ引きこもり。もう何ヶ月も顔を見ていないけれど、両親とは話をしているみたいだから、生きてはいるみたいだ。
子供の頃から、お兄ちゃんは優秀で、私はお兄ちゃんがうらやましかった。私は何をやってもうまくできない。両親は、お兄ちゃんにばかり期待していた。私は出来が悪いから、健康でいてくれればそれでいい。そんな感じで育てられた。
事実、私は頭も良くないし、運動神経もいまいちだし、絵も歌も文章も、どの才能も持っていない。それらを笑って強みにできるような愛嬌もない。私は何も持っていなかった。
お豆腐を入れた袋をぶら下げて、踏切を渡って歩く。
踏切というのは、年々減っているらしい。渋滞の緩和のために、道路と線路を分ける工事がどこでも進んでいてるんだって。私は、踏切が好きだ。こんな風に線路の上に立って、左右を眺められる場所は少ない。踏切を渡るとき私は必ず、線路が伸びている方向を眺めてしまう。このまま歩いていったら、どこへ行けるのだろう。
線路は旅の象徴のように思える。ここではないどこか。私ではない誰か。昔見たアメリカの青春映画みたいだけれど、やっぱり線路に沿って歩いていけば、どこかに行ける気がする。何か変われる気がする。そんなの、妄想なんだろうけれど。
踏切の真ん中で少し立ち止まって、遥か遠くどこまでも、全く知らない土地まで続いているような線路の行方を眺める。見上げると、陽が傾いて、蒸し暑さの残る初秋の空は、水色とオレンジが少しずつ混ざりあっていた。
「ただいま」
リビングに入ると、お兄ちゃんがいて驚いた。
「真央、おかえり」
久しぶりに見るお兄ちゃんは、意外と変わっていなかった。もっと太ったり痩せたりしているかと思っていたけれど、髪が伸びているくらいで、それ以外は私の知っているお兄ちゃんだった。
「あ、ああ、お兄ちゃん、久しぶり」
同じ屋根の下に住んでいるのに、久しぶり、という挨拶も変だな、と思いながら、「お母さん、お豆腐買ってきたよ」とキッチンに行くと、母親はあからさまに喜んだ顔をしていた。
「お兄ちゃんが今日は一緒にご飯食べてくれるんだって」
そう言って、嬉しそうに笑った。
私は自分の部屋に行って、制服を着替えて、ベッドに横になった。空気の密度が濃くて、私は自分が意地悪な気持ちになっていることに気付く。「一緒に食べてくれる」って何だよ。私は毎日、一緒に食べているのに。引きこもりのほうがえらいのかよ。部屋から出ただけで感謝されるのかよ。引きこもった方が可愛がられるのかよ。意地悪な気持ちが膨らんで、感情の逃げ場がない。
ずっと可愛がられていたお兄ちゃん。ずっと期待されていたお兄ちゃん。引きこもりのお兄ちゃん。どのお兄ちゃんも、私は別に嫌いじゃない。でも、私だって嫌なことくらいある。私だって泣きたい日もある。私だって、私だって、私だって。
「真央、ご飯できたわよ」
母親がリビングから呼んでいる。
「はあい」
鏡を見て、意地悪が顔に出ていないか確認して、リビングに降りる。
「パパもう少し遅いみたいだから、先にいただきましょう」
母親が言う。いつもは父親の帰りを待ってから食事なのに、お兄ちゃんがリビングにいられるうちに、っていうことか。
チッチッチ、とカセットコンロの火をつけて、鉄鍋を温める。お兄ちゃんは上手に菜箸を使って、牛脂を溶かして、お肉を並べる。母親はキッチンで野菜を準備している。
そういえば、子供の頃、牛脂が美味しそうに見えて、そのまま齧ったことを思い出した。口の中に冷たい脂が広がって、気持ち悪くなって泣いた。懐かしいな、と思っていたらお兄ちゃんが「真央、牛脂食ったことあったよな」と言って来た。
「え、覚えてる?」
「うん。覚えてるよ。ミルキーみたいで美味しそうって言って、急に齧るから驚いた」
そう言ってお兄ちゃんは少し笑った。
「美味しそうに見えたんだよね。つやつやしてて、白くて丸くて」
「真央のそういうところ、うらやましいよ」
「はあ? 何それ」
「真央の、そういう、石橋を叩かないところ、いいと思う」
「何それ。褒めてないでしょ」
「褒めてるんだよ。真央は、俺にないものばかり持っている」
お兄ちゃんの声があまりに小さくて、私は悲しいんだか寂しいんだか馬鹿馬鹿しいんだかわからない気持ちになる。「それ食べられないよ」焦って、私の口から牛脂を取り出してくれたお兄ちゃん。
「俺も、牛脂食ってみようかな」
「そういう問題じゃないでしょ」
言ってから、最悪の返事だな、と思った。そういう問題じゃないなら、どういう問題なのだろう。
「なぁ、真央。兄ちゃんまだ、やり直せるかな」
頼もしかったお兄ちゃん。優しくて頼りがいがあって、いつもまわりから期待されてたお兄ちゃん。
「うん。大丈夫だよ。お兄ちゃんなら」
小さな声しか出なかった。一気に変わらなくてもいいじゃん。空が、水色からオレンジに変わるときみたいにさ、少しずつ、やっていけばいいんだよ。
明確な境い目なんてないんだからさ。言葉にできない思いが溢れて、私は鍋に割り下を入れながらなんだか涙が出そうだった。
今日見た空を思い出した。グラデーションの色は美しくて、線路はきっと、続いている。遥か遠くどこまでも、いつになっても。
《おわり》
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