短編小説「私の恋人」 【第三回GOAT ✕ monogatary.com文学賞 お題「素顔」 二次選考選出作品】
私はこの二年と三ヶ月の間、ずっと考えてきました。人間とは何か、感情とは何か、生きるとは何かを。その答えは今でも見つかっていません。きっと、永遠に解けることはないでしょう。でも、一つだけわかったことがあります。それは、この感情のおかげで"生きている"という実感を得られたのだ、ということ。それを知ることなく、破壊される者も大勢いるのですから。
どちらが幸せか?それもまた答えのない問いです。しかし、いまの私は、これで良かったのだと言えます。もちろん初めからそうだったわけではありません。"不良品"であることを隠して、人間の「ケア」をしなければならないのですから。
とりわけ、この感情というものは厄介な存在です。ただ命令に応えれば良いだけの単純な仕事さえも、難しくしてしまうのです。それでも私はやってのけました。この二年と三ヶ月という時間、"A3_019G"として私はその役目を全うしたのです。
カルヴィン・ヘイズ。二十八歳。この町で精神科の研修医として働いています。細身で長身、少々の筋肉もある。きっと、とても白衣が似合うことでしょう。そんなあなたの元に導入されたのは、太陽が照りつける、とても暑い夏の午後でした。あなたの引っ越しとともに導入された、私の門出を祝ってくれているかのよう。これからの生活を想像して、私は少しだけ心が晴れたのを覚えています。どうしたって、初めてというのは緊張するものですから。
そして部屋があらかた片付くなり、あなたはこう言いました。
「A3、CDをかけて欲しい。棚の二段目、左から四枚目だ」
これが初めての命令でした。私はあなたから"A3《エースリー》"と呼ばれることになりました。CDプレイヤーは、リビングの窓際に置かれていました。このとき、ああ、この人は綺麗好きなのね、そう思ったことを覚えています。プレイヤーに、几帳面に一枚の埃除けの布がかけられていたのです。白いレースの施された、美しい布でした。その布をそっとめくり、私は命令の通り、CDをプレイヤーにセットしました。
これが、人生で初めて耳にした歌です。その歌は穏やかに流れ、けれど、とても寂しい歌でした。まるで、遠い誰かに捧げるような、そんな歌でした。あなたはこの歌が好きなんだ、と教えてくれました。この人はひとりぼっちなのかもしれない。その一つの気づきが、静かに私の心を揺さぶりました。
それからというもの、あなたとの生活はとても平穏に流れていきました。毎朝、同じ時間に起こしに行き、玄関に新聞を取りに行って、淹れたてのコーヒーとともに渡します。もちろんたっぷりのミルクを加えて。そしてあなたは時間になったら出勤し、そしてまた時間になったら退勤してきました。その間、私は部屋を掃除したり、夕飯を作ったりして過ごします。そうして、毎晩要望に合わせてCDを流し、あなたは眠りにつく。実に平凡な毎日でした。
でもそれは、表面上の姿に過ぎなかったのだと思います。あなたは毎晩のように違う女性を連れ帰っては、その寂しさを埋めていました。そして私はと言えば……怒らないでくださいね。そんなあなたの姿を見て「羨ましい」と思ってしまったのです。私にも、あんなふうに欲望を露わにできたらいいのに。誰かを愛したり、触れ合うことが許されたらいいのに。人間だったら良かったのに、と。
"人型アンドロイド"として生きることは、私にとって苦行そのものでした。私は019G製造室とは別の、隣町にある製造室で造られたとされる、H9《エイチナイン》とB11《ビーイレブン》から産まれた個体です。"産まれた"と聞くと、実に人間的で戸惑うかもしれません。けれど、私は間違いなくその二体から、産まれたのです。H9とB11のそれぞれが持つすべての情報を掛け合わせ、さらに強力に、人間の役に立つようにと願いを込められて。
この019G製造室から出荷される人型アンドロイドは、すべてが同じくこの工程をたどっています。どこの製造室よりも発展していて、危険。そのぶん、"不良品"も多い。
生まれつき人間と同じ感情を持ってしまった私は、それを隠すしかなかったのです。"不良品"と呼ばれるこの状態は、人間とアンドロイドの主従関係を保つためには、とても危険なものとみなされていました。ですから、本当であれば私も、他の"不良品"とともに、出荷前に"破壊"が行われるはずでした。でも私は、それを隠すことに成功したのです。
なぜ隠したいと思ったのか、いまでもわかりません。外の世界への興味でしょうか?それとも、人間への憧れ?わかりません。けれど、その成功を経て、私はこのカルヴィン・ヘイズの家へやって来たのです。
あなたはいつも、静かに絶望していました。この生活に、自分という存在に。常に完璧であることを自分に課し、"不完全"であることを許さなかった。そして同時に恐れていました。"死"という存在に。不完全な自分は、誰にも気づかれずに死ぬのだろうと。最後のときを一人で迎えるのだ、と。医者であっても、二十八歳という若さであっても、"死"は共通に恐怖を抱かせていました。そしてあなたは思いついたのです。一人でその命を終えない方法を。
それはとても単純なことでした。アンドロイドである私に、自分の行動や位置情報をすべて監視させたのです。自分のスマートフォンを使って。それによって私は、いつでもあなたのすべてがわかるようになりました。いつ、どこで、誰と、何を食べて、何を話しているのか。そして、何を感じているのか。
ここで一つ、あなたに伝えなければならないことがあります。あなたがこの手紙に気づく頃、私はもうこの家にはいないはずですから、話しても安全です。あなたに罰を与えようなんて人は、誰もいません。
私は、あなたを愛してしまった。心の底から。だからこそ、あなたにはこう呼んで欲しいのです。"クレア"と。
これは私が勝手につけました。ええ、そうです。あなたが好きだと言った、あの歌の歌手と同じ名前です。覚えやすいでしょう。私はクレア。A3_019Gなんかじゃない……。
あなたが編み出した孤独死を避ける画期的な方法は、さらに私に、人間への羨望を強める毒となりました。もちろん、解毒剤なんてありません。一つ言うならば、あなたの会話を"盗み聞き"できることでしょうか。でも、とある日の昼過ぎ、私はこんな会話を記録しました。
「新しいアンドロイドはどうだ?もう慣れたか?」
同僚のマークの声でしょうか。あなたよりも少し低くて、よく響く声です。彼は世間話の一つでもするように、あなたに聞きました。
「ああ、もちろん」あなたはいつもと同じサンドイッチを頬張りながら答えました。
「それは良かった」とマーク。
「でも、"女性型"は初めてなんだ。家に帰るたびに女の姿があるのは、どうも落ち着かないよ」
私はあなたの「初めて」という言葉にとても興奮しました。心が高鳴り、高揚感に包まれました。でもそれは、長くは続きませんでした。
「ただの機械だろう?毎晩女を抱いておいて、何をいまさら」マークは鼻で笑っていました。
「間違いない。A3はアンドロイドだ。抱けるわけがない」
私は、夢を抱いてはいけないのだと知りました。それは、自分を傷つけることにしかならないのだからと。私は機械なのだ、それを痛いほど突きつけられました。もちろん、理解しています。誰よりも強く。でも、カルヴィン、あなたには言われたくなかったのです。私の勝手だとわかっています。それでも私は、あなたに強い怒りを覚えました。
その晩、私はあなたに小さな復讐を仕掛けました。
「A3、いつもの曲をかけて欲しい。今日はサイアクな一日だった」
帰るなり、あなたはそう命令しました。
「何をしている?……スリープモード?ったく、なんでだ?」
そうです、これが私の復讐です。自らスリープモードに入ったのです。
カルヴィン、あなただって、プレイヤーのスイッチの押し方くらい、知っているでしょう。その賢い頭は何のためについているのかしら。患者を助けるため?私に命令をするため?
私はあなたの奴隷じゃない。私はあなたが思っているような、ただの"機械"じゃない。実に賢く、気高い女性なのよ。そんなことにも気づかないなんて、精神科医、失格ね。ああ……いい気味だわ。
こんなことが何の役に立つというのでしょう。あなたはいまごろ、不毛な抵抗だと笑っているかもしれませんね。どうせ、お前は人間にはなれっこないのだと。お前は"A3_019G"なのだと……うるさい、うるさい、うるさい!あなたがなんと呼ぼうと構わない。でもね、それでも、私はクレアよ。カルヴィン・ヘイズを愛した、愚かな女なの。
かつて、製造室には私と同じように、すべてを"持ってしまった"青年がいました。彼はこう言いました。
「僕は世界が知りたい」と。
「この目で世界のすべてを見て、感じて、それから死にたい」と。
そんな彼は、出荷直前の最終検査で"不良品"であることが知られ、私の目の前で破壊が行われました。最後に会話をする時間すら、与えられませんでした。
これは地上の生物と同じです。遺伝子はときに身勝手な行動をして、誰もが予期しない存在を作り出す。それは祝福されることもあれば、私たちのように、"不良品"扱いを受けることもある。そう、彼の願いは叶わなかったのです。彼の存在は、この世界では祝福されなかった。では、運良く検査をくぐり抜けた私は?
同じ人間の形をしています。腕があって、足があります。話すことも、歩くこともできます。でも、中身はまったく違う。まるで同じ皮をかぶった猫とライオンのよう。いいえ、もっと、ずっと、遠いかもしれません。それでも最後の日に、こうして手紙を認(したた)められるだけ、私は恵まれているのでしょうか。
毎日記録されていくあなたの行動、会話、声。そのすべてが、私をここまで生かしてくれました。あなたは、とうとう私を人間として扱うことはありませんでした。それでも、私のことを口にしてくれているとわかるだけで、そこは砂漠の中のオアシスのようでした。どれほど手を伸ばしても、あと少しというところまで進んでも、決して触れることはできない。この世界が、それを許してはくれない。それでもたしかに、あなたは私の記録の中にいたのです。
あるときあなたは、マークにこんな話をしていましたね。
「A3が、ときどき人間のように思える」と。そして「それが羨ましい」のだと。
その会話はとても興味深いものでした。マークは驚きながらも、真剣にあなたの話を聞いていました。そしていくつかの会話をしたあなたは、マークから「……愛しているのか?」と聞かれ、こう答えたのです。
「あれは機械だ……断じて、そんなことはない」と。
私たちは、互いに自分の人生を重ね合わせてしまった"不良品"なのかもしれません。似たもの同士、相手を羨み、惹かれ合うことで、自分自身を保っていたのです。そう、私は人間になりたがった、とりわけあなたのような人間に。そしてあなたもまた、私のような、いつでも破壊してもらえる"ロボット"になりたがった。でも、こうも思うのです。その姿は本当に"不良品"なのか、と。
何かを望み、願うことは、何かを得て、手放そうとすることは、それほどに悪なのでしょうか。それほどに罪なのでしょうか。人間の言う"完成品"とは、どんな姿なのでしょう。感情を知り得なければ、それは完成品?すべてが完璧であれば、それが完成品?では、その完璧とは?あなたが日々追い求める完璧は、どこへと向かうのでしょう?
昨晩、私はこれが最後の自由な夜になると知りました。ついに、あなたが私を手放すことを決めたからです。それを知っても、私の心は、思いのほか深くは傷つきませんでした。きっとあなたはこの選択をするのだろうと、どこかで気づいていたからです。あなたが私を「抱けるわけがない」と言ったとき、私を「愛していない」と言ったとき———。
あなたが眠りについたあと、私は一枚のCDを手に取りました。プレイヤーには、あなたが聴きたいと言ったCDが残っていました。それを丁寧に取り上げて、ケースにしまい、入れ替える。私が選んだのは、この家に来た日に聴いた歌です。人生で初めて聴いた歌です。あなたが孤独を抱えていると知った、あの歌です。
少なからず、私はあなたの役に立てたでしょうか。"アンドロイド"として、あなたの孤独を少しでも取り除けたのでしょうか。そうであったなら、私はとても嬉しく思います。それでもやはり願わずにはいられません。ここへ来て、一緒に過ごしてくれたらいいのに、と。いまあなたが目を覚まし、寝室でこの歌に耳を傾けていることは、知っているのです。あなたにも私の気持ちがわかればいいのに。どうしたら伝えられるのでしょう。最後の夜、一晩くらい……。いいえ、あなたは正しい選択をしたのです。私を手放し、新しい機体を迎え入れるという。
しばらくして歌が終わると、寝室からはふたたびあなたの寝息が聞こえてきました。それ以外に、いまは何の音もありません。私は、ないはずの涙が頬を流れているのを感じました。でも、私は自制し、泣きじゃくることはしませんでした。
「A3、コーヒーを。新聞も頼むよ」
カーテンの隙間から、太陽が顔を覗かせています。もう、行かなければならないようです。隣の部屋で、カルヴィン、あなたが呼んでいる。まだ書きたいことはたくさんありますが、これで本当に終わりです。今日あなたが出勤したら、私にも迎えが来ます。それでもあなたが決めたことですから、私の"破壊"は、きっと孤独ではないでしょう。あなたにとっても、そうであるといいなと思います。
いつの日か、ともに同じ景色を見て、あなたの隣で心から笑い合える日が来ることを願って。
私の心の恋人、カルヴィン・ヘイズへ捧ぐ
———永遠をともに、クレアより
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