何不自由のない暮らし
子どもたちが通っていた学校の創立記念文集の編集を手伝ったことがある。子どもではなくて保護者のクラス委員が学年ごとに取りまとめをした。原稿がなかなか集まらないので保護者にいちいち確認の連絡をしたり、思ったより手間がかかった。最終的には高学年の子たちが手伝ってくれたりして期日通りに仕上がって、やり切った感があった。ただ、刊行前にすべての原稿に目を通すことはできなかった。子どもが出来上がったものをもらってきてしばらくしてから、やっとゆっくり読むことができた。
テーマは、『未来のわたし』だったかな。男の子はゲームデザイナーとかユーチューバーになりたいと書いている子が何人もいて、時代は変わったなーと思った。自分が子どものころはそんな仕事はなかった。ゲームを考える人は当時もいただろうけど、職業名として認識されてなかった。
最後は中学三年生の子たち。思春期特有の自意識が行間に滲んでいる文章が続く中で、ひとり淡々と自分の現在の日常を綴っている子がいた。学校に行って勉強して、放課後友だちと遊んだり、好きなスポーツをしたり、趣味の習い事もさせてもらって、何不自由のない暮らしをしている。それが未来も続いてゆくのだろうか。将来のことはわからない。不安もあるけど、未来の自分も楽しく暮らせてたらいいな、と。
私はこれを読んで目頭が熱くなった。なんと幸せなご両親だろう。子どもに何不自由のない暮らしをさせたい。そう望まない親がいるだろうか。ただ、どんなに経済的に恵まれていても大抵の十五歳の子どもは不自由しか感じてないだろう。大人だってそうかもしれない。何不自由のない暮らしという言葉は、そうさせてくれている周囲への感謝の気持ちがなければ出てこない。今が幸せだと感じられるこの子は、もう何があっても大丈夫ではないか。このような幸福を子どもと育んでこられたご両親が眩しいと思った。
今、あの子はどうしているだろう。今の世の中では、当時では考えられないような富や権力の集中が進んでいる。一生かけても使いきれない富を持ちながら、更にすべてを独占しようとする人たちがいる。彼らの誰もが幸せそうには見えない。どっちかっていうと怒ってることが多いように見える。彼らは何のために生きているのだろう。何不自由のない暮らしをしていると書いた十五歳の子どもの方が、そのご両親の方が、よっぽど幸せってなんなのか知ってるんじゃないかな。
