間違えてしまった人が悪いっていうけどさ。ーーーDEAR EVAN HANSENから孤独を考える
DEAR EVAN HANSEN
ミュージカル『ディア・エヴァン・ハンセン』を観た。社交不安障害を抱える高校生エヴァン・ハンセンが、あるひとつのウソをきっかけに、思いがけず人とつながっていく——けれど、その"つながり"の危うさを描いた物語だ。以下は、その舞台を観たあとに書いた記録。
初めの1曲で泣いた。終演後、会場の外でも泣いた。思い出すと、今でも泣きそうになる。
「感動した」「良いお話だった」——そんな感情で泣いているのではない。自分にもあるような、ないような苦しみと、社会の暗さに、涙が出た。
SNSの恐ろしさや危うさを考えさせる舞台ではあると思う。
しかし私はそこではない部分、「孤独」について考えさせられた。
社交不安障害をもつエヴァンは、学校で馴染める存在ではなく、友達はいなかった。話しかけてくれる人はいるものの、彼とのコミュニケーションは、いわゆる"普通"ではなく、心地よいと感じられないことも多い。みんな、話していて心地よい相手と一緒に過ごすことを選ぶし、それ自体は悪いことではない。本来なら、時間をかけて彼自身のおもしろさを知ったり、彼がリラックスしてコミュニケーションをとれたりすれば、印象は変わるのだと思う。けれど"学校"という場所は何とも残酷で、他の子どももまだ未熟である。そして、友達の候補は他にもいる。自分が"すぐ"に心地よさを感じられない相手に、時間をかける必要がないのである。未熟である者が、自分よりも未熟に見える者を受け入れず、雑に扱う。この構図は、エヴァンに限らず、どの学校でも見られて当たり前になっている。
実はこれは、あまりにも悲惨な現状である。エヴァン自身も、自分が雑に扱われていることに慣れすぎている。何度も何度も人に粗末に扱われ、自分自身もそう扱っていることで、期待しなくなったのだと思う。むしろ、期待しないことが自分を守る手段なのかもしれない。物語の序盤ではあったが、私はこの説明的な描写だけでも、あまりに胸が苦しくなった。
物語が動きだすのは、エヴァンのクラスメイトであるコナーが、自ら命を絶ったところからだ。偶然の行き違いから、コナーの家族はエヴァンを「コナーの親友だった」と思い込む。エヴァンはそれを否定できないまま、二人が仲良しだったという大きなウソをついてしまう。取り返しのつかないウソだった。
はじめは、ただ目の前の人が苦しんでいることに耐えられなかったのだと思う。自分をいじめたコナーをかばったのは、優しさなのか、それとも"そうであって欲しい"という思いがそうさせたのか。そこまでは分からないけれど、後のことを考えず、目の前をすべてだと思って行動してしまう不器用さに、自分の不器用さを重ねて、また苦しくなった。
エヴァンのウソに対する、狂気的とも言えるようなコナーの家族の食いつきぶりには、どこかに"すがる"場所を探していたことが表れていた。実際、母親は、宗教ですらもコロコロと変えてしまうほどに、自分にとって"気持ちがいい"ものを信じている。
あの時のエヴァンの発言は、すべてが"気持ちよく"、中毒的な発言だった。
エヴァンは「自分を好きになってくれる」「ちゃんと見てくれる」とコナー一家のことを言っていたけれど、本当はそんなこともない。——これを言ってしまうと、よりエヴァンを苦しめるから、できれば言いたくないけれど。でも、コナー一家はエヴァンが好き? ウーン。彼らが受け入れたのは、エヴァンではなくて、エヴァンが話す"気持ちいい証言"だけなんだ。もしかしたら、後の方は、少しはそれだけじゃなかったかもしれないけれど。それでも、エヴァンがくれるものをコナー一家は求めていた。それを分かっていたから、エヴァンもウソをやめられなかった。自分を受け入れてくれたという感覚のうれしさを知った後に、それを失う方が怖いことを分かっていたから。
エヴァンはずっと孤独だった。「モノ」がなくて、もしくはあったとしても、誰にも見てもらえなかったから。正確には、見てもらえていると思えていなかったから。
母はずっと必死だった。少しでも生きやすいように、幸せになれるように、やれることはやっていた。けれど、本当に彼が求めていたのは、障害を取り除いて生きやすくなるようにサポートすることではなくて、一人の人間として見てもらうことだった。でも、そんなこと、誰も教えてくれない。
"母親だから"という責任感がある。こんな難しいこと、分からないよな。すべての人に親子という関係があるにも関わらず、みんな分からない。愛がゆえに、言えない。言えないのに、都合よく自分の期待を込めてしまう。難しい関係だと思う。
コナーは、死後にはじめて、人に見てもらえた。何を思っていたのか、どんな人だったのか、知ろうとしてもらえた。死という境界線が社会的にはあるけれど、実際には、彼の生死の境界線は、もっと前に引かれていたのだと思う。孤独で、"死"の状態のまま、彼は命を絶った。お墓に入って初めて"孤独"に気づかれ、光を当てられる。じゃあ、その"死"の状態で、社会に存在する意義を、人は感じられるのだろうか。
「何のために生きるのか、いや、自分は生きているのか?」と問い続ける人生の暗さに、耐えている人がいる。その事実を改めて直視した時、私は目がくらんだ。そして、この事実を忘れかけている自分にも、苛立った。
私は、自分ですら、自分のことを生きづらいと思っている。社会のルールに染まりきれず、考えすぎてしまうから。けれど、孤独だとは思っていない。私を見てくれる人はいると、感じることができている。
それが、誰も見てくれない。自分には光が当たらない。——そう思ってしまう人達は、どこを目指して歩けばいいのだろうか。そして、そう考えている人は、この世にどれだけいるのだろうか。
みんなが「誰かが見てくれている」「自分は孤独じゃない」と思える社会をつくりたい。これを願いにしてしまう世の中は、暗すぎる。
自分は恵まれていることを、気づかされた舞台だった。じゃあ、それで感謝をして、悲しんで、終わっていいのか。もしかしたら「お前に苦しみが分かるのか?」と言われるかもしれない。そして、その質問に対する答えはNOだ。けれど、この世に対する絶望感は、私も強く持っていると思う。私は暗いところが嫌いだ。できれば明るく、みんなが楽しい社会がいい。そんなのは難しくても、少しでも、光が当たる社会であって欲しい。
「社会ってこんなもん」と諦めることが、大人なのかもしれない。そして私は、未熟な子どもなのかもしれない。けれど、諦める役割は他の人に任せればいい。私は子どものままで、暗闇に光を差したい。
