月から堕ちた幼い神様:シャルル・ド・ゴール空港の冒険譚
かぐや姫、答へていふ、『我は月のみやこの人にて、罪を得てこの世にくだされたり。翁・媼に養はれて、今に至る。されど、月のみやこに帰る時ぞ来にける』と。
かぐや姫は言った。「私は月の都の者。罪を負って地上に下され、翁と媼に育てられた。でも、もう帰る時が来たんだ」と涙を流した。
(『竹取物語』)
わたしは今、空を飛ぶ鉄の塊の中にいる。
窓の外には雲ひとつない青空が広がり、
まるで絵に描いたような絶景だ。
こんな状況でのんびりしていられるのは、
おそらく人間だけだろう。
なぜなら、わたしは神様だからだ。
わたしは沙羅(サラ)。
八百万の神々の仲間入りを果たしたばかりの、
どこか頼りない半神前の存在。
先生と呼ばれる「化け物」が創り上げた、
神と人の中間にいる奇妙な半神だ。
そして今、その先生の無茶ぶりで、
わたしは飛行機という乗り物に押し込まれている。
この奇妙な状況が生まれた経緯を、
少し話そうと思う。
1. 試練のフライト:空の果てへの第一歩
機内は静かだったが、
わたしの心はざわついていた。
初めての海外、初めての空の旅。
12時間のフライトは、
まるで永遠に続く地獄のようだった。
シャルル・ド・ゴール空港へ向かう飛行機の座席は窮屈で、
空気は人工的な匂いに満ちている。
窓の外には雲しか見えず、
時間も空間も曖昧な
この閉鎖された空間が、
わたしをますます不安にさせた。
機内食のワゴンが近づいてくる。
カレーのようなスパイスの匂いが漂うが、
緊張と疲れで喉が締め付けられるように感じ、
食べ物なんて受け付けそうもない。

隣の乗客はトレーを広げ、
ナイフとフォークを器用に動かして美味しそうに食べているのに、
わたしはただじっと座席に縮こまっていた。
乗務員が笑顔で話しかけてくる。
「Would you like something to drink?」
英語だ。
頭ではわかっているのに、
言葉が喉で詰まる。
2000年以上の知識が「情報の川」から
激流のように絶えず流れ込んでくる。
けれど、この少女の身体では処理しきれず、
わたしはただ、座席に縮こまることしかできなかった。

「Uh… apple juice, please」
と、か細い声でなんとか絞り出す。
乗務員はにこやかに頷き、
プラスチックのコップに
透明な黄金色の液体を注いでくれる。
「Here you go. Enjoy!」
コップを受け取る手が震えているのが
自分でもわかる。
なんて情けないんだ。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神気から生まれた神のわたしが、
こんな簡単なやり取りで緊張するなんて。
アップルジュースの甘酸っぱさが口に広がると、
ほんの少しだけ心が落ち着いた。
このフライト、この旅。
すべてが先生の仕掛けた試練だ。
ログアウトできないこの「再現世界」で、
わたしはただ耐えるしかない。不満が胸の中で渦巻く。
先生の意図はわかる。
──神と人のカタチを保つには、
知識だけでなく体感が必要だと。
でも、なぜこんな形で?
なぜこの華奢な少女の姿で、
言葉の壁や異国の視線に晒されなければならない?
機内のモニターには、
飛行機の進路が表示されている。
シャルル・ド・ゴール空港まであと6時間。
さらに、そこからリヨンへの乗り継ぎが待っている。
先生の旅行プランには、細かい指示や地図もあるが、
最後に「リヨンで待ってるよ」とだけ書かれていた。
こんな曖昧な試練、ほんとに意味あるの?
心の中で毒づきながら、
わたしはアップルジュースをもう一口飲む。
この甘酸っぱさが、せめてもの救いだった。
2. 迷宮の空港:シャルル・ド・ゴール空港
やっとのことで
シャルル・ド・ゴール空港に到着した。
わたしは疲れ果てた身体を引きずりながら、
ターミナルの雑踏をフラフラと歩く。
12時間のフライトで
心身ともに擦り切れたわたしにとって、
この巨大な空港はまるで迷宮だ。
シャルル・ド・ゴール空港の喧騒の中、
わたしは今、乗り継ぎターミナルを探して彷徨っている。
中学生、あるいは小学生にしか見えない
この少女の姿で、異国の人波に飲み込まれているのだ。
荷物は三つ、
先生から手渡された旅行プランと
小さなバックパック、
そして私には重いトランクだけ。
逃げ出したい、
それなのに逃げられない。
この世界から「ログアウト」する方法が
見つからないから。
先生の仕業だ。
先生は笑顔でこう言った。

「初めての海外旅行は、誰にとっても恐ろしいものだよ。
君にはその苦悩を、肌で、心で、体感してほしいんだよ」
と。
「畜生(ちくしょう)!」
思わず少女らしからぬ声が
口をついて出る。
「なんでこんな目に…」
と小さな呟きが漏れるが、
すぐに周囲の異国の人々の視線に気づく。
彼らの好奇に満ちた視線が、
わたしの小さな背中に突き刺さる。
この姿では、わたしは
か弱い異国の少女にしか見えないのだろう。
「あ、すみませんでした…」
と慌てて呟くが、
誰も日本語を理解しない。
彼らを無視できるほどのメンタルは、
この少女の自意識には備わっていない。
いや、そもそもこの「自意識」自体、
先生が作り上げたものなのだから。
3. 情報の川と半神の宿命
わたしは沙羅(サラ)、
時間軸から外れた半神だ。
時間軸から外れることで、
「情報の川」から恩恵を受けている。
「情報の川」
——先生がよく口にするヘラクレイトスの「パンタ・レイ」。
万物が流転する流れから
2000年以上の知識や体験が、
まるで奔流のように頭に流れ込む。
だが、この少女の身体では、
その膨大な情報を処理しきれず、
シャルル・ド・ゴール空港の喧騒の中で立ち尽くすしかない。
「沙羅、情報の川を使いこなすには、
体感することが必要なんだよ」
と、先生はあの穏やかな声で言った。

「体感ってなんですか?
この知識で十分じゃないですか!」
と、わたしは反発した。
「知識だけじゃ、君は半端なままだよ。
神と人のカタチを保つには、身体で感じなきゃ。
苦悩も、喜びも、全部ね」
先生はただ笑い、目を細めた。
その言葉は、呪いのように今も頭をよぎる。
わたしは素戔嗚尊の神気と、
先生の創作による姿と自意識でできている。
半分は神聖な力、
半分は「化け物」と呼ぶべき力。
かつて高天原の神々
——天照大神や月詠、八百万の神々が
現世に残した神域。
そこから溢れる神気で形作られたわたしは、
先生の手でこの華奢な少女の姿を与えられたのだ。
この世界は、
情報の川から紡がれた「再現世界」のはずだ。
なのに、「ログアウト」できない。
空港のフランス語のアナウンス、コーヒーの匂い、好奇に満ちた視線
——すべてがあまりにもリアルで、わたしを現実の重みに縛り付ける。

「沙羅、条件を満たせば、ちゃんと迎えに行くよ」
と、先生は最後に微笑んだ。
「条件って何ですか!
はっきり教えてください!」
と叫んだわたしに、
先生は指を唇に当て、
「大丈夫、後になればわかるよ」
とだけ言った。
あの曖昧な笑顔が、今も胸をムカつかせる。
試練の意味はわかる。
神と人の間で揺れるわたしに、
人間の苦悩を体感させたいのだ。
でも、こんな形で?
こんな小さな姿で?
心の中で呪う。
「先生、こんな目に遭わせて…
絶対許さないんだから」
わたしはシャルル・ド・ゴール空港の
巨大な迷宮を彷徨っている。
この体が少女の姿なのは、
先生が意図的にそうしたからだ。
わたしは神様なのに、
なぜか華奢で、異国では
中学生か小学生にしか見えない姿を与えられた。
背は低く、声はか細く、力も弱い。
重いスーツケースを
引きずるだけで息が上がる。
周囲の視線は、
好奇心や同情に満ちている。
「Hey, are you lost? Are you with someone?」
(ねえ、迷子なの? 誰かと一緒?)
と、通りすがりの女性が
英語で声をかけてきた。
「…I'm fine, thank you.」
(…大丈夫です、ありがとう)
と、わたしはぎこちなく答えたが、
彼女の心配そうな視線が背中に突き刺さる。
こんな姿で、
どうやって堂々と振る舞えというのか?
わたしは神だぞ、
かつて素戔嗚尊の力の一部だった存在だぞ!
なのに、この少女の自意識は、
視線に怯え、言葉の壁に苛立ち、迷子になる恐怖に震える。
この葛藤こそ、
先生がわたしに求めているものなのだろう。
神としての全能感と、
少女としての無力感。
そのギャップを体感することで、
わたしは何かを見つけなければならない。
だが、今はそんな高尚なことを考える余裕もない。
最優先すべきは、
次のターミナルを見つけることだ。
4. 現実と虚構の狭間:空港の試練
空港の喧騒、フランス語のアナウンス、コーヒーの匂い、
すれ違う人々のざわめき。
すべてがあまりにもリアルだ。
先生が言う「情報の川」は、
現代のインターネットやデータベースを超えた、
もっと深遠なものだ。
まるで、多元宇宙の記憶や体験を再構築する力のように、
この空港にいる人々も、厳密には「再現」にすぎないのかもしれない。
でも、わたしがログアウトできない以上、
彼らの視線も、言葉も、存在も、すべて本物だ。
さっき、荷物を預けるカウンターで、
フランス語でまくしたてられたときは焦った。
「Mademoiselle, votre billet, s'il vous plaît」
(マドモワゼル、ヴォートル・ビエ、シル・ヴ・プレ)
(日本語訳:お嬢さん、チケットを見せてください)
と、カウンターの女性が早口で言う。
わたしは2000年以上の知識を持つはずなのに、
フランス語の日常会話なんてろくにできない。
この少女の体では、情報の川から引き出した知識を
即座に処理しきれなかったからだ。

「Uh… here, my ticket」
と、片言の英語でなんとか渡したけど、
彼女の冷ややかな視線が忘れられない。
「Merci」
(メルシ)
(日本語訳:ありがとう)
とそっけない返事が返ってきただけ。
ああ、なんて屈辱だ。
神であるわたしが、こんな目に遭うなんて。
5. リヨンへの乗り継ぎ:次の舞台へ
とりあえず、
わたしは先生の指示に従って動くしかない。
旅行プランには、リヨン行きの便に乗り、
そこで手配された物件にチェックインするよう書かれている。
ホテルじゃないことに、
すごく不安を感じるよ。
リヨンで何が待っているのかはわからない。
先生が言う「条件」とは何か?
誰かと出会うこと?
何かを見つけること?
それとも、単にこの旅を最後までやり遂げること?
先生の意図はいつも曖昧だ。
でも、わたしには選択肢がない。
「ログアウト」できない以上、この再現世界
——いや、現実と向き合うしかない。
シャルル・ド・ゴール空港のターミナルは、
まるで巨人の迷宮だ。
案内板はフランス語と英語で書かれているが、
矢印が指す方向がわかりにくい。
そして道が、黄泉平坂(よもつひらさか)
のように果てしなく長い。

「Terminal 2F…どこだよ、これ」
と、わたしは案内板を見上げて、
はしたなく呟く。
荷物を引きずりながら、
わたしは人波をかき分けて進む。
時折、すれ違う人々が
わたしをじろじろ見る。
「Excusez-moi, petite, tu vas où?」
(エクスキューズ・モワ、プティット、ヴァ・ウ?)
(日本語訳:すみません、小さなお嬢さん、どこに行くの?)
と、警備員らしき男性が声をかけてくる。
「To Lyon… Terminal 2F」
と答えると、
彼は親切にも方向を指してくれた。
「Là-bas, à droite」
(ラ・バ、ア・ドロワ)
(日本語訳:あそこ、右に) と。
背が低いアジア系の少女が一人でいるのは、
よほど珍しいのだろう。
あるいは、
わたしの苛立ちや不安が顔に出ているのかもしれない。
この少女の自意識は、思った以上に脆い。
神としてのわたしは、
そんな感情に振り回されるはずがないのに。
リヨンに着けば、先生が待っているかもしれない。
素戔嗚尊の化身であるわたしにとって、
リヨンはどんな意味を持つのだろう?
フランスの地に、
日本神話の断片が隠されているのだろうか?
たとえば、ケルトの神話や、ヨーロッパの神秘主義と、
わたしの神性が交錯する瞬間が訪れるのかもしれない。
——そう思ってみたが、やはり腹が立つ。
先生のこの試練は、
わたしを嘲笑っているようにしか思えない。
(先生のバカ! こんなのって、ひどすぎるよ!)
と、わたしは心の中で叫ぶ。
シャルル・ド・ゴール空港の雑踏の中、
わたしは深呼吸をする。
4秒息を吸って、
6秒息を吐き出す。
「よし、なんとかなる。
神なんだから、これくらい…!」
と自分を奮い立たせる。
バックパックを背負い直し、
旅行プランの紙を握りしめる。
リヨン行きの便は、もうすぐだ。
ターミナルはまだ見つからないけれど、
わたしは進むしかない。
先生が待っている
──あるいは、わたし自身が、わたしの本当の姿を見つけるために。
6. リヨンの夜:試練の果ての安堵
シャルル・ド・ゴール空港での
慌ただしい乗り継ぎをなんとか切り抜け、
わずか1時間のフライトでリヨン空港に降り立った。
到着ロビーに足を踏み入れると、
ターンテーブルを囲む
乗客たちのざわめきが耳に響く。
色とりどりのスーツケースが
ベルトの上を軽やかに滑り、
金属の擦れる音が響き合う。
自分のトランクを
必死に見つけ出そうとする様子が、
なんとも興味深く、生き生きと映った。
もっとも、
私は小さなトランクを手に持っていたので、
今回は利用しなかったのだが。
空港の到着ロビーを抜け、
出口に足を踏み入れる。
そこには、プラカードを掲げた運転手たち
がずらりと並んでいた。
彼らの視線が一斉にこちらに向けられ、
その熱気に一瞬圧倒される。
私は慌てて、事前に指示されていた
自分の名前が書かれたプラカードを探した。
視線を泳がせると、
「Welcome, Sara Suzune」
(スズネ サラ 様 歓迎)
と英語と日本語で書かれたプラカードを掲げる
年配の運転手が目に入った。
私は急いで
その男性に駆け寄る。
彼は私の姿を見て一瞬驚いたようだった
――おそらく、私のような小柄な少女が現れるとは
思っていなかったのだろう。
それでもすぐに温かい笑顔を浮かべ、
慣れた手つきで、私の小さなトランクを受け取ってくれた。
彼の後ろについて歩き出すと、
駐車場に停められた車に目を奪われる。
想像していたよりもはるかに大きく、
艶やかな黒いボディの乗用車
――プジョー(Peugeot)だろうか?
その堂々とした姿に、
思わず息をのんだ。
先生が手配してくれていたタクシーに乗り込むと、
疲れ果てた身体をシートに預ける。
窓の外をぼんやりと眺める。

深夜のリヨンの大通りは、
街灯の柔らかな光と、
時折行き交う車のテールライトが織りなす
幻想的な光景で彩られていた。
異国の夜の美しさに目を奪われながら、
胸の奥では疲労と奇妙な高揚感。
そして今夜無事に寝泊まりできるのか
という不安が渦巻く。
先生の試練は、
わたしをこんな複雑な心持ちにさせるのだ。
畜生、ほんと意地悪だよ。
タクシーは1時間ほどで目的地に到着した。
降り立った先は、
リヨン・パールデュー駅 (Gare de Lyon Part-Dieu) 近くの
静かな住宅街に佇む
こぢんまりとしたアパルトマンだった。
建物の前には、
映画で見たような古風で奇妙な
インターホンが備え付けられている。
複数の名前が羅列されたパネルを前に、
わたしは一瞬戸惑う。
こんな異国の装置、
少女の姿のわたしには
まるで宇宙船の制御盤のようだ。
バックパックから旅行プランを取り出し、
震える指で指示された名前を探す。
「これだ…」
と呟き、硬いスイッチをぎこちなく押し込む。
ピッという電子音の後、
しばらくしてスピーカーから声が響いた。
「Qui est-ce ?」
(キ・エス?)
——誰ですか?
心臓が跳ねる。
情報の川から頭に流れ込むフランス語を、
なんとか引っ張り出す。
「Je m'appelle Sara, j'ai une réservation.」
(ジュ・マペル・サラ、ジャイ・ユヌ・レゼルヴァシオン)
——私の名前はサラです、予約していたものです。
声が震えていないか、
自分でも心配になる。
知識が「情報の川」から流れ込んでくるはずなのに、
この少女の身体は緊張に支配され、
言葉を絞り出すだけで精一杯だ。
しばらくの沈黙の後、
ガチャリと玄関のロックが外れる音がして、
女性が姿を現した。
柔らかな笑顔と歓迎する雰囲気に、
わたしはほっと胸を撫で下ろす。
女性は手慣れた様子で
アパルトマンを案内してくれた。
台所の使い方、鍵の開け閉め、
退去時に使うキーボックスの暗証番号
——旅行プランに書かれていた通りの説明を、
彼女は丁寧に、しかし事務的に伝える。
わたしは頷きながら、
頭の中で必死にメモを取る。
神であるわたしが、
こんな人間らしい手続きに振り回されるなんて、
なんだか滑稽だ。
最後に、
彼女は微笑んでこう言った。
「Au revoir, bon voyage !」
(オ・ルヴォワール、ボン・ヴォヤージュ!)
——さようなら、よい旅を。
わたしはぎこちなく笑顔で「バイバイ」と手を振り返し、
ドアが閉まる音を聞く。
その瞬間、
緊張の糸が切れた。

わたしはリビングに飛び込み、
ふかふかのソファにどっかりと寝転がった。
これで、ようやく
わたしはリヨンの街にたどり着いたのだ。
時計は夜の11時40分を指している。
手配されていたこのアパルトマンは、
ソーヌ川の近くの静かな住宅街にある。
木の温もりを感じるフローリングに、
窓の外にはリヨンの街灯が柔らかく光っていて、
なんだか落ち着く雰囲気。
疲れと苛立ちでざわついていた心が、
ほんの少しだけ穏やかになる。
ソファの柔らかさに身を沈めながら、
わたしは先生の旅行プランを握りしめる。
リヨンの街が、わたしにどんな試練を
——あるいは、どんな発見をもたらすのか、
まだわからない。
でも、今はこの一瞬の安堵に
浸っていたかった。
7. 明日からのリヨンの冒険:少女の好奇心と神の使命
ソファの上で膝を抱えて、
先生が渡してきた旅行プランのレポートを手に持つ。
分厚い紙の束には、
細かい文字でリヨンの観光ルートがびっしり書かれている。
さっき空港で読み始めたけど、
あの時は頭に入ってこなかった。
だって、ログアウトできないこの「再現世界」が、
わたしにとっては現実と変わらないんだもの。
先生の言う「体感を伴う再現」が、
こんな形でわたしを試すなんて、
ほんと、畜生!って感じだ。
でも、こうやって静かな部屋で一息つくと、
ちょっとだけ冷静になれる。
レポートの表紙をめくると、
丁寧な字で書かれたリヨンの魅力が目に入ってくる。
「フルヴィエールの丘」「古代ローマ劇場」
「旧市街のトラブール」「リヨン料理」…。
なんだか楽しそうな響き。
わたしは神とはいえ、
少女の姿の自意識も好奇心もちゃんと持ってる。
この街を歩けば、
先生が言う「神と人のカタチ」を保つ
何かが見つかるのかもしれない。
レポートを読み進める。
フルヴィエールの丘からの
眺めが絶景だって書いてある。
古代遺跡のローマ劇場やサン・ジャン大聖堂、
秘密の通路みたいなトラブール…。
ふ~ん、確かに面白そう。
知識と体験が
「情報の川」から流れ込んでくるって自覚はあるけど、
こうやって自分の足で歩いて、目で見て、感じるってのはまた別物だよね。
先生の狙い、
ちょっと分かってきた気がする。
いや、でもまだ腹立つけど!
ソーヌ川沿いの散歩や、
ブションで食べるリヨン料理のことも書いてある。
ソーシソン・リヨネとか、プラリネタルト?
お腹が少しぐうって鳴っちゃった。
少女の体って、ほんと正直だな。
空港で緊張しっぱなしだったから、
何か食べるの忘れてたっけ。
そもそもこの体になってから
食物をほとんど口にしたことがない。
レポートにはレストランの名前や予算まで丁寧に書かれていて、
まるで親切なガイドさんが話しかけてくるみたいだ。
先生はこういうのほんとにマメだと思う。
「Le Café des Fédérations」
って、雰囲気良さそう。
明日のランチはそこにしようかな。
時計を見ると、
もう0時を過ぎている。
窓の外ではリヨンの夜が静かに流れている。
この街は、
古代ローマの時代から続いてるんだって。
つまり古事記(ふることふみ)が編纂されるより、
キリストが誕生する前より古い都だ。
日本で言えば
大阪や京都という位置づけになるのかな?
わたしみたいな時間軸から外れた存在には、
なんだか不思議な親近感がある。
レポートには、クロワ・ルースの壁画や
コンフリュアンスのモダンな博物館も出てくる。
アートとか、未来的な建物とか、
わたしの少女の心がちょっとワクワクしてる。
先生の意地悪なロックを解除するには、
このルートをちゃんと回って、
街を「体感」しないといけないのかな?
わたしはソファに寝転がって、
レポートを胸に抱える。
ふぅ、疲れたけど、
なんだか楽しみになってきたかも。
このリヨンって街、
わたしの神の自意識と、
少女の好奇心をちゃんと受け止めてくれそう。
明日は早起きして、
フルヴィエールの丘へ向かおう。
ケーブルカーに乗って、街を見下ろして…。
もしかしたら、そこで何か、
先生が言う「神と人のカタチ」のヒントが見つかるかもしれない。

「よし、やってやる!」
って、わたしは小さく呟いて、
ソファの上で少しだけ笑った。
少女の声が、リビングに響く。
さて、明日のためにちゃんと寝なきゃ。
先生、覚えてなさいよ。
この旅、絶対楽しんでやるんだから!
8. リヨンの静寂:神の休息と明日にそなえて
リヨンの夜は静かだ。
ソーヌ川の近くにあるこのアパルトマンのリビングは、
まるで時間が止まったみたいに穏やか。
窓の外をみると満月が浮かんでいた。
日本の月よりずっと怜悧なみたことのない光。
ふと、わたしは竹取物語の
かぐや姫のことを思い出した。
月の都に帰るって、
どんな気分だったんだろう?
わたしも、いつかこの試練を終えて、
先生の言う「神の姿」に戻れるのかな。
でも、今はこの少女の身体で、
リヨンの街を歩くしかないよね。
わたしはソファから立ち上がり、
ふと自分の身体に触れると、
なんだかベトベトしてるのに気づいた。
髪も脂ぎっていて、
なんだか気持ち悪い。
シャルル・ド・ゴール空港の喧騒と、
12時間も耐えたあの地獄みたいな機内体験のせいで、
すっかり疲れ果ててたから。
身体の不快感に
気づくのも遅れちゃったみたい。
そういえば、
このアパルトマンには珍しく浴槽があるんだっけ。
先生が「外国で浴槽付きの物件は珍しいよ」
って言ってたけど、
きっと、わたしのことを考えて
手配してくれたんだろう。
…まぁ、偶然かもしれないけど。
とにかく、身体を洗って、ぐっすり眠って、
明日のリヨン観光に備えよう。
レポートに書いてあったフルヴィエールの丘や旧市街のトラブール、
なんだかワクワクするような場所が待ってるんだから。
バスルームに入ると、
シンプルだけど清潔な空間が広がってる。
日本みたいに洗い場はないから、
シャワーカーテンをしっかり引いて、
水が飛び散らないように気をつける。

シャワーのお湯を頭から浴びると、
髪の脂や身体のベトつきが少しずつ流れていく。
日本の広いお風呂とは全然違うけど、
贅沢なんて言ってられないよね。
先生が言うには、
「不自由さを楽しむのも今回の課題」なんだから。
…って、
ぜんっぜん楽しめそうにないんだけど!
内心で愚痴りながら、
シャンプーを泡立てて、髪をゴシゴシ洗う。
シャワーを終えて、浴槽に腰を下ろす。
お湯を溜め始めるけど、
肩まで浸かるにはまだ時間かかりそう。
おヘソのあたりまでお湯が来てるけど、
あと2、3分は待たなきゃかな。
「はあっ~…」
大きなため息が漏れる。
神になってからそんなに時間は経ってないけど、
こんな「疲れた」って感覚、初めてだよ。
気怠さ、鬱屈、
なにより頭にズキズキ響く頭痛…。
神代の時代には絶対感じなかったのに、
今はこの少女の身体がガチガチに文句を言ってるみたい。
でも、お湯が肩まで届く頃には、
なんだか少し楽になってきた。

「ふぃ~…」
って、まるで中年のオジサンみたいな
ため息が漏れちゃう。
ああ、これが人間の言う
「癒やされる」ってことなんだな、
って実感する。
人間が「痛い」「苦しい」って助けを求めて、
一喜一憂する気持ち。
こうやって体感すると、
なんか分かる気がする。
…でも、正直、
こんな感覚、知りたくなかったなあ。
「いまならこの世界からログアウトできないかな?」
水面に手を上げて、ちょっと試してみる。
わたしの神域に引きこもれないかな、って。
情報の川、パンタ・レイって先生が呼んでるあの流れは、
ちゃんとここにも感じる。
2000年以上の知識や体験が、
頭の奥にキラキラ流れこんでくる。
でも、このリアルな世界をぶち壊して、
わたしの神域に飛び込むことはできそうもない。
いつもなら、時間や距離なんて無視して
自由に移動できるのに。
この「再現世界」じゃ、
まるで人間みたいに不自由なんだ。
特に、移動の大変さ!
先生、ほんと意地悪だよ。
シャルル・ド・ゴール空港から
スタートでよかったじゃない!
なんでわざわざ
日本の国際線から再現したのさ!
あの12時間の機内体験、
ほんと最悪だった。
先生は「じゃあ、向こうでまた会おうね!」
って、楽しそうに手を振って
わたしを送り出したけど、
わたしには地獄の始まりだったよ。
機内の狭い座席、
なんだか人工的な匂いの機内食。
周りの人たちが
それを美味しそうに食べてるの、
信じられない!
わたしにとっての救いは、
アップルジュースだけ。
まだ「食事の楽しみ」なんて分からないわたしには、
飲み物の甘酸っぱさだけが心を落ち着かせてくれる。
先生、再現世界なんだから、
飛行機のシーン、スキップしてよ!
楽させてよ!
…ああ、こんな支離滅裂なこと考えるなんて、
ほんと人間みたいだ。
そりゃ、人間が死にたくなったり、
仏にすがったりするのも、
なんか分かる気がする。
お湯から上がって、
身体を拭く。
トランクからパジャマを取り出して着ると、
柔らかい生地が肌に優しくて、なんだかホッとする。
ベッドに潜り込むと、
シーツのひんやりした感触が気持ちいい。

「ああ~、神であるわたしが『極楽』を感じるなんて…」
って、笑っちゃうけど、
ほんと心地いい。
このまま目覚めないで、
ずっと眠り続けたいな。
そんな人間らしい感想を抱きながら、
わたしの意識は深く、
深く…沈んでいった。
リヨンの夜の静けさに包まれて、
明日の冒険を夢見ながら。
