空白の神域と新年の宴、世界の裂け目で神様たちは静かにうどんを啜る。
零:空白の神域
新年の夜。
私は、かつて地図から消された
「空白」へと向かっていた。
歩くたび、絹の重なりが
さらりさらりと
夜の静寂に溶けていく。
豪奢な振袖は、
冷気を孕んで肌を包み、
締め上げた帯が、
私の背筋を
真っ直ぐに正していく。
足裏からは、
月光に凍る
石段の重みが伝わり、
かじかんだ指先は、
冬の澄んだ空気と
同化していく。
鼻腔を満たすのは、
古い石造りの遺構が放つ、
ひんやりとした
甘い神様の匂い。
闇の中に瞬くのは、
数えきれない命の灯。
うさぎたちの白い吐息。
枯草をはむはむと
食む密やかな音。
それは、
神への調べのように
規則正しく島に響いている。
瀬戸内の
穏やかな海に浮かぶ、
地図の上から一度消された島。
今は「楽園」を装う
この島の奥深くに、
それはあった。
丘を覆う
常盤木の先に立つ、
古びた石の鳥居。
そこを潜れば、
もう、どの国でもない。
潮風に
微かな鉄の香りと、
火薬の記憶が混じり、
沈黙の祈りのように
空気に溶け込んでいく。
「神域」という名の、
完全に隔離された神の箱庭。
私はその境界に立ち、
肌を撫でる冷ややかな
神気に身を委ねた。
失われた神話の続きを
見るために。
扉にそっと指を添え、
私は静かに、
一歩を踏み出した。
壱:黄泉の残り香と新年の宴
鼻先をくすぐる空気は、
どこか懐かしく温かみがあるのに、
ほんの少しだけ
「死」の匂いが混じっている。
島を囲む波の音は、
不自然なほど規則正しく、
一定のリズムを刻み続けている。
私たちは今、
世界の裂け目に浮かぶ
虚ろな大広間で、
「新年」という名の、
ある種のおままごとを演じていた。
「え〜皆さん、
今日はお集まりいただいて
本当にありがとうございます。
かつて
イザナギとイザナミが
壮大な喧嘩別れをしてしまい、
彼の身に着けていたものより
十二柱、
黄泉の穢れより
十四柱の神様が産まれました。
八十禍津日(やそまがつひ)
より始まり、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
で終わる、貴き神様。
それに連なる
あなた達を迎え入れることができて、
とても嬉しく思います」
隣で先生が、
朗らかで少し高めの声を
響かせている。
黒い衣装に身を包んだ、
その可愛らしい少女の姿をした
化け物。
彼女は「先生」と
呼ばせているけれど、
その内側にどれほど古く、
どれほどドロドロとした
黒い太陽のような本質が渦巻いているか、
私は
肌の産毛が逆立つような感覚で、
はっきりと知っている。
先生は、
イザナギ様が
黄泉の国から持ち帰ってしまった
「穢れ」
から産まれた
神様の逸話を、
まるで、
幼稚園の発表会のような。
壊れた子供のように、
どこまでも無邪気な調子で
語り続ける。
「おぼえていますか?
千引(ちびき)の石で、
この世とあの世が
めきり…と
分かれちゃった、あの時のことを。
その暗い隙間から、
コトリとこぼれ落ちてしまったのが、
実はここにいる、
皆さんだったりするのです。
ふふ。
なんだか、
うっとりしちゃうと
思いませんか?」
お遊戯を教えるような、
どこまでも軽快な身振り。
先生の
白魚のように細い指先が、
空中に
青白い燐光(りんこう)を、
しなやかに振りまいていく。
それはまるで、
世界の終わりを告げる、
祝福の紙吹雪のようだった。
「本来なら顔を合わせることもないはずの、
迷い子のような
わたし達。
そんな皆さんと、
こうして『えん』を結べたことが、
私はとっても、
嬉しいのです。
だから、新年のお祝いに、
この宴席を用意しました。
どうぞ、心ゆくまで。
食べて、飲んで、
ゆっくり羽を伸ばしていってくださいね。
乾杯!」
その言葉を合図に、
私は手元の
小さな猪口をそっと傾けた。
日本酒。
ワインの
芳醇で重厚な味わいも
大好きだけれど、
このお米から
生まれたお酒は、
舌の上でトロンと
溶けるような甘みがあり、
鼻に抜ける香りは
瑞々しい稲穂が
太陽を浴びている瞬間の、
生命力そのものの香ばしさだ。
旨味が
喉の奥を滑り落ちていくたび、
私の内側に張りつめていた
戦神(いくさがみ)
としてのピリピリとした警戒が、
少しずつ、
ほぐれていく。
それにしても、
この宴の空気は奇妙だ。
招かれたのは、
私を含めて五柱の神様。
皆、
驚くほど静かで、
誰も一言も発しない。
ただ、
目の前に用意された「うどん」を、
ひたすら啜っている。
ズズッ、
ズズズッ。
出汁の香りが
部屋全体を優しく満たしている。
鰹と昆布が織りなす、
黄金色の温かさ。

「お前ら、なんか喋れよ…」
小声でそっと毒づきながら、
私も自分のうどんを啜る。
喉越しは
驚くほど滑らかで、
甘く瑞々しい香りが口いっぱいに広がる。
美味しい。
悔しいけれど、
先生の用意したものは、
いつも五感の急所を的確に
突いてくる。
私は
うどんを啜りながら、
上座に座る先生の隣から、
名前の見えない神様たちを
一柱ずつ、
「神眼」で静かに、
覗いてみることにした。
弐:空色の静謐、正しさを司る神様
私の真向かい。
そこに座っているのは、
息を呑むほど美しい女性だった。
空色の長い髪を、
高い位置でロングポニーテールにまとめている。
彼女がわずかに首を傾げるたび、
その髪がさらりと流れ、
晴天を切り取ったような
鮮やかな色彩が視界に残る。
黒い着物が、
彼女の透けるような
白い肌をより一層際立たせていた。
そして、その。
「ズン、ドン、バン」
という擬音が
そのまま形になったような、
圧倒的なプロポーション。
帯で固く締められたくびれは、
折れてしまいそうなほど細いのに、
その上下の曲線は豊潤で、
生命の調和
そのもののように思える。
彼女からは、凛とした、
そして静謐な空気が漂っている。
まるで、
荒れ狂う泥水を
一瞬で透明な清水に
変えてしまうような、
圧倒的な「正しさ」。
私の神眼でも、
彼女の真名は
直接には読み取れない。
幾重にも重なった
神秘のヴェールが、
核心を隠している。
けれど、
彼女が何者であるかは、
その権能の匂いでわかる。
汚れを払い、歪みを正し、
秩序を整える「直し」の神。
禍から秩序を正す、
高貴な神様。
不思議と、
彼女には親近感を覚える。
私の持っている「祓い」の力と、
彼女の「直し」の力は、
たぶん
同じ根っこから生えている。
「彼女となら、仲良くなれそう」
私の右隣で
ニコニコしている化け物先生より、
よほど信頼できるかも。

彼女は、
揃えた数本の麺を丁寧に、
音を立てずに口に運ぶ。
まるで
神聖な儀式を見ているようで、
私の心は洗われるような心地がした。
箸を持つ
指先の動きさえ、
どこか荘厳で、
部屋の空気を
より澄んだものに変えていく。
参:黄金の慈愛、異国の神様
その空色の女神の隣には、
また毛色の違う、
暖かな光を放つ少女がいた。
黄金に近い、
燃えるような赤毛。
見ているだけで、
じんわりと温かくなるような、
春の陽だまりのような慈愛を感じさせる。
彼女の装いは独特だ。
日本の
神事の場だというのに、
彼女は
ファンタジー小説から抜け出してきたような、
繊細な意匠の鎧を纏っている。
その上から
羽織っているケープには、
何やら不思議な文様——
ルーン文字が刻まれている。
彼女の周りには、
微かに「鍛冶の火」と「詩の歌」、
そして「森の癒やしの水」の気配が
混ざり合って漂っている。
精霊だろうか?
おそらくは北欧か、
あるいはケルトの…。
太陽のような、
あるいは三つの神性を持つ、
相当高位の神様じゃないかな。
「ケルちゃん」と
雰囲気が少し似ているけれど、
彼女の方が
ずっとお姉さんというか、
母性に溢れている感じがする。

彼女もまた、
隣の女神に倣うように
上品にうどんを啜っていた。
ふとした拍子に、
彼女と目が合う。
彼女は、
ふわりと花が開くような、
優しい微笑みを
私に投げかけた。
ドキリ、
と胸が高鳴る。
「うん…、彼女とも、
うまくやれそうかな」
でも、
私は知っている。
異国の神様っていうのは、
私たちが
想像もつかないような
逆鱗(げきりん)を持っていたりする。
優しさが、
いつ無慈悲な蹂躙に変わるか
予想できない。
油断しちゃダメだ。
肆:虚無の瞳、禍(まが)の神様
……そして。
一番の問題は、
私の左隣に座る「これ」だ。
正直に言って、
さっきから生きた心地がしない。
彼女から放たれている
「狂気」が、
肌をチクチクと
刺してくる。
長い黒髪は艶やかで、
まるでお雛様や
日本人形のような、
完璧な造形美。
神様なんて
姿はいくらでも変えられるから、
美しくて当然なんだけど、
彼女の「美」は、
どこか完成されすぎていて、
とても怖い。
何より、
その眼。
真紅の瞳。
そこには
何も映っていない。
悪意もなければ、
善意もない。
ただ、
真っ暗な穴が
開いているような
「虚無」。
その虚無を
覗き込もうとすると、
私の中にある
後ろ暗い部分、
誰にも言えない
ちっぽけな毒が、
鏡のように増幅されて
跳ね返ってくる。
彼女は、
古風なセーラー服を着ている。
その不調和が、
また恐怖を煽る。
伝承上の
私の姉にあたる「最高神」——
あのキラキラした太陽の神様よりも、
ずっと古くて、
ずっとドロドロとした
根源から湧き出してきたような
禍津神(まがつかみ)。
彼女は
感情の欠落した顔で、
機械的に、淡々と
うどんを啜っている。
ズーッ、
ズーッ。
その音が、
一定すぎて怖い。
しかも、
さっきから視線を感じる。
チラッと見ると、
彼女の赤い瞳が
瞬きもせず、
じっとこちらを凝視している。

…怖い。やめて。
私は「戦神」として
祀られているけれど、
このメンバーの中ではたぶん、
一番の末っ子なんだ。
神格の重さが、
物理的な圧力となって
肩にのしかかる。
「勘弁してほしい…」
私は逃げるように、
また日本酒を一口啜った。
伍:因縁の強奪者、おかしな神様
そして、最後。
上座から
一番遠い末席。
そこに座っているのは、
私がよく知っている顔だ。
翠の髪に、
立派な鹿の角。
「ケルちゃん」。
かつては
仲良くしていたはずの、
そして今は、
私の「憎き敵」でもある。
彼女とは
リヨンの公園で知り合った。
最初は、
森の精霊のような
清廉な雰囲気の彼女に惹かれて、
一緒にピクニックを
楽しんだこともあった。
けれど、あのとき。
私が大切に抱えていた
ワインとお惣菜を、
彼女はあろうことか
強奪したのだ。
「僕、けっこう強いんだぜ」
なんて、
清楚で神秘的な見た目のくせに。
古代の格闘技、
パンクラチオンとかいう技と怪力で
私の関節を極め、
呻く私から大切なものを
奪っていった大悪党。
彼女は今、
何食わぬ顔で
うどんを啜っている。
しかも、
なんなのその格好?
なんで日本の神装束を、
そんなに馴染んだ様子で
着ているわけ?
目を凝らす。
私の神眼に、
幽かに浮かび上がる文字。

【高木神(たかぎのかみ)】
…はあ!?
ケルトの
森の神様だったはずなのに、
なんで日本の
「別天神(ことあまつかみ)」になってるの?
いつの間に
そんな重要ポストに転職したのさ?
ありえない。
後で先生に言いつけて、
たっぷりとお仕置きしてもらおう。
よし!
そうしよう。
陸:あなたは知っている?
宴は、
うどんを啜る音だけを響かせながら、
淡々と続いていく。
私は猪口を転がしながら、
ふと思った。
この島の神域にいる私たちを、
人間の想像力から生まれた
「でっちあげ」だと、
あなたは
思っているんだろうね。
「ねえ、あなたの周りに、
神社はどれくらいある?」
小学校やコンビニは、
どの街にもあるけれど。
正規の神社の数は、
その4倍以上はあるはずだよ。
つまり、
8万社未満。
さすがに
八百万(やおよろず)とまでは
いかないけれど。
小さな祠や、
無名の社まで含めると、
30万社はあるかもしれない。
あなたは
自分を無神論者だと
誇らしく思いながら、
お正月には
初詣の列に並び、
受験の前には
お守りを買い、
許せないことがあれば
「バチが当たる」なんて
言葉を口にする。
神職さんがいて、
きちんと手入れされている
平均的な神社。
その維持費が、
年間どれくらい
かかるか知ってる?
500万円以上だって。
そのお金は、
空から降ってくるわけじゃない。
私たち「神様」を支えているのは、
他でもない、
あなたの隣にいる人たちだ。
地元の氏子さん。
その街の
「土地」を愛する人々。
「歴史」を
繋ごうとするお年寄り。
「商売」の繁盛を願って寄進をする、
影響力のある有力者たち。
彼らが、
生活を守るために、
誇りを守るために、
私たちという「神様」に、
お供え物をし、
神殿を清めてくれている。
これでも、あなたは
無信心だと思うのかな?
私たちが、
ただの迷信で、
でっちあげだと?
これだけの
お金と情熱をかけて、
1000年以上も維持され続けている
「システム」が、
ただの幻想で
あるはずがないんだ。
私たちは、
あなたの後ろに立っている。
うどんを啜りながら、
あなたの街の行く末を、
じっと眺めている。
それが
「正しさ」なのか、
「慈愛」なのか、
「狂気」なのか。
あるいは、
誰かのワインを盗むような
「いたずら」なのか。

「お代わり、いる?」
先生が、
空になった私の丼を覗き込んで、
愛おしげに笑った。
私は黙って
首を振る。
日本酒の甘みが、
もう十分に
私の脳を麻痺させていたから。
私たちは、この島から、
また新しい一年を始める。
ねえ、
次はあなたの街の神社で、
会いましょう。
…できれば、
美味しいお酒、用意しておいてね。
