『い』のゆくえ|ショートストーリー
僕は、後悔していることがある。だけどそれはおそらく戻れない。謝って済む類のものではないし、今さらどうしようとも思わない。ただ、ほんの少し悲しいだけ。
僕が出かけようと玄関を開けると、そこに何かが落ちていた。近寄ってみると、それはぴょこんと跳ね起きて、僕の玄関の中に入っていく。
僕があわてて追いかけると、それは『い』だった。
『い』?
『い』って、いったいなんだ???
よくわからないけど、とにかく『い』の形をしたものが歩いている。いや跳ねている。リビングに上がってこたつに入り、リモコンでテレビのスイッチを付けた。目も鼻も見当たらないけど、どこで見てるのかなぁ…
僕が珈琲を淹れると、『い』がくるりとこちらを向く。僕はどきっとした。なんとなく視線を感じて、もう一杯珈琲を淹れる。
『い』の前に置くと、左右の先っぽを器用に曲げてカップを持って飲んでいる。湯気が『い』をやわらかく包み込む。ふぅ、とため息。どうやらおいしいらしい。よくわからないが、とりあえずそういうものだと思うことにした。
こうして『い』との奇妙な生活が始まった。それは僕が寝ると一緒に寝るし、朝目を覚ますと同時に目を覚ます。何も邪魔をしない。何もしゃべらない。でも、そこにいる。たまに茶碗洗いをしてくれる。案外悪くない。いや、なんだかちょっと楽しい。
そうして2ヶ月ほど経った。
街路樹の桜が散り始め、桜吹雪となる頃、『い』はすくと立ち上がり玄関に向かっていく。僕が追いかけると、『い』はくるりと僕の方を向いて、ぺこりとお辞儀をした。
「行っちゃうの?」
『い』は僕をじっと見つめた。くるりと玄関の方を向くと、すたすたと歩いてドアを開く。慌てて僕も外に出ると、『い』の姿はどこにも見当たらない。桜吹雪の向こう側にきらりと光るものがある。きっと『い』に違いない。
僕は、大きく手を振った。きっと、見えないだろうけど。僕の目が滲んで温かなものが零れ落ちる。
僕は『い』のコーヒーカップを丁寧に拭いて食器棚に仕舞った。やさしい香りにふと見渡すと、テーブルの上に伊予柑が置いてある。
僕は口角を上げて皮を剥き、一房口に頬張る。濃厚な甘さと酸味。窓の外で虫が鳴いている。今年も夏が来るのか。



