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【ピリカ文庫】冬支度

テーブルの上に、白い紙を一枚。

それだけを置いて、私は外へ出た。


家の中には誰もいなくて。
物音ひとつしない静けさが、耳に痛くて。
だからどんどん、余計なことを考えてしまう。

子供たちは独立し、
愛猫のミアは先日亡くなった。

あの温もりは、もうどこにもない。

子供たちの騒がしい声も、
ミアの鳴き声も。

すべてが詰まった大切な家。

だけど、もうここにはいられなかった。



冷たい風に隣の家のトネリコの木が揺れている。白い小さな花を激しく揺らしては、元の位置へ戻る。別名、ユグドラシル。世界樹の木。世界はどんなに揺れても、いつか元へと戻っていくのに。澄み切った空に誘われるように、私は駅へ向かった。

ぎゅうぎゅうに詰め込まれた旅行バッグ、一つ。

置いてきたのは、
整理整頓された部屋と、一枚の紙切れ。
そして溢れる思い出たち。

子供たちの温もりをギュッと抱きしめることも、
艶やかな黒い毛並みを撫でることも、

もうないのだ。



あの人はどう思うだろうか。

目深に帽子を被り、道すがらずっと考えていた。

残された私との生活に、胸躍らせていただろうか。2人ならきっとどこへでも行けるし、何でもできる、そう言っていた。有り余る時間と少し余裕のあるお金がそれを物語る。

でも、それもすべて終わりだ。

真っ黒い帽子、黒のジャケット、ブラックのジーンズ。苦しくて、吐き出せない何かを体の中に押し込むように、黒に身を包んだ私は新幹線の切符を購入した。


それから、4時間後。

1年ぶりの故郷は相変わらず懐かしい匂いがして、足取りが軽くなる。

去年、両親が亡くなった。

父と、それを追うようにして母が。コロナの渦中で葬式しか来れず、荷物も整理しきれなくてそのままにしてある。電気やガスもそのままだ。

玄関を開けると、私は目に付くところから掃除を始めた。くたびれた、大きな炬燵こたつ。古びた威圧感のある食器棚。父母の服が詰め込まれたカビ臭いタンス。あちらこちらから思い出が溢れて止まらない。持ち主をなくして物いわぬ彼らの埃を丁寧に払った。


いつのまにか、柔らかい西日が部屋に差し込む。

カーテンを閉めると、部屋に夜が訪れた。子供の頃は、静まり返るこの家が薄暗くて怖かったっけ。夜になるとあっという間に部屋が冷え込む。ヒーターや炬燵をつけ、かじかんだ手足を温めた。芯から冷える雪国の寒さを、とっくに忘れていた。


ポトン。コトン。

とたん屋根に雨音がよく響く。雨の音に耳を傾けながらウトウトしていると、玄関チャイムが鳴り響いた。

ーえっ、こんな時間に?

同時に炬燵の上のスマホが鳴り出す。何度も鳴らされるチャイムに後押しされるように電話に出ると、

「おい、いるのか?開けてくれ」

ドアを開けると、全身びしょ濡れの主人が立っていた。中に入れてすぐ風呂に入るよう促し、タオルと父の着替えを出す。さらに暖かくすべく、昔ながらのストーブに火をつけた。じんわりと空気を温めていく、鮮やかなオレンジの火。揺れる火を見ていると、妙に気持ちが落ち着いてくる。


カチ、コチ。

カチ、コチ。

今まで気にならなかった時計の音が、やたら大きな音を立て始める。このまま時が止まって、永遠に夜が続くのはないだろうか、とさえ。


「あのさ。見ちゃったんだよね、これ」

主人は風呂上がりの髪を拭きながらそういうと、白い紙を出してきた。この前私が行った、病院の薬の袋だ。

「これ、抗ガン剤の薬じゃない?」

私はうつむいて唇を噛んだ。

私の体は、気づいた時にはすでに末期を迎えていた。最近やたら疲れやすく、体のあちこちが痛くなり、食べ物が喉を通らなくなった。両親や猫のミアが亡くなったせいかと思ったが、一応病院に行ってみた。

まさか、がんに冒されているなんて。

すべてが通り過ぎたあの家で、私はあっという間に衰えていくのだろう。

家事をすることもままならず、主人に介護されながら、必死で自分の体と戦わなければならない。そのうちにスマホも持てなくなる。話すことも、起き上がることもできず、天井を見上げて、ひとり。


いっそ、消えてしまいたい。

だから私はここにきた。
この古びた家と運命をともにするために。

「なんで何も言わないんだよ!」

彼は握り拳をドンッと炬燵に叩きつけた。それは夜の静謐せいひつな空気に亀裂を入れるように響き、さながらドラマのようだ、と思った。

「だって、だって」

涙が溢れる。うまく言葉が出ない。

ーだって、だって。あなたはいつも話を聞いてくれないじゃない。私が話を聞いてないといいつつ、あなたも同じだ。私たちはいつも平行線で。その度に何かが歪んでいった。

「なんで、いつも一人で抱え込むんだ。君はいつだってそうだった。息子が学校に行けなくなったときも、何も教えてくれなかった。どうして一緒に背負わせてくれないんだ」

嗚咽が止められない。
違う。違う。私は首を横に振る。
そうじゃないんだ。

ーあなたはいつだってそういうの。でも、学校に行けなくなった時、やめてっていったのに、あの子を厳しく問い正した。唯一の心の支えであるゲームを一切禁止しようとした。そうやっていつも頭から無理やり押さえつけて、あなたの物差しでしか測らないから。だから、だから、私は。

「今まで子供のことも、猫のことも、ほんとに良くやってくれたよ。これからは二人で頑張っていこう。その体でどうするつもりなんだよ。頼むから、俺を頼りにしてくれ」


彼はきっとこれが本心なのだろう。
しかし私には薄っぺらい言葉にしか聞こえなかった。

誰かの妻でもなく、誰かのママでもなく。「私」として見て欲しかった。私はちゃんとここにいるのに、誰もそんなふうには見てくれない。私のことを私として愛してくれたのは、この家だけだ。父と、母と、弟と暮らしていたこの家の思い出が私をすっぽり包んでくれる。

私はずっと、ここに帰りたかったんだ。



私が黙っていると、夫はため息をついて部屋の中を見渡した。

「俺も、ここに住むよ」

私は思わず彼の顔を見た。

「お父さんたちが亡くなってから、掃除もしてないんだよな」

「え、だって、仕事は?」

「そんなの、今時ノートPCさえあればなんとかなるよ」



つくづく私は、自分のことしか考えてない。

何十年とともに過ごした夫を置いて、私は逃げたんだ。現実からも、彼からも。もう私が愛するものはどこにもいない、と。

孤独は、人を絶望に追いやる。

「死に至る病」という哲学書に、そう書いてあった気がする。人は孤独だと思い込むと、絶望の淵に立たされるという。今まさに私はそこにいて。ふと気づいたら、彼に手を引っ張られてこちら側に戻ってきたのだ。

「家のことも、あんまりできなくなるかもしれない。しゃべることも、できなくなるかもしれない。それでも、いいの?」

私はやっとの思いで言葉を吐き出した。

「当たり前だろ。今までやってこなかったけど、家のこともやってくよ。その代わり、完璧にはできないと思うけど」

彼はきっと、精一杯寄り添ってくれていた。息子の時も、時間をかけて少しずつ理解してくれた。私はそれが当然だと思ってしまった。彼もまた葛藤し、頑張って寄り添ってくれようとしてたはずなのに。


「一度田舎に住んでみたかったんだよね。お父さん、庭の畑でいろいろ作ってたよな。俺も、春になったら畑仕事してみようかな」

「畑仕事なんて、まったくやったこともないのに?」

というと、彼はイタズラそうな顔で微笑んだ。その楽観的な所にイライラするときもあるが、救いにもなってくれる。私もつられてクスッと笑った。

ここからまた始まる。
そんなこともあるんだ。

私の体は、この家のように少しずつ綻びていく。だけど、彼との生活はまたここから始められる。春にはどんな野菜を植えようか。どんな花を咲かせようか。なんでもいい。それが私たちの生きる証になるのなら。

「その前に、冬を越さないとね」

「そうなんだよな、そこが問題。雪かきとかさ、楽しそうけど毎日やるのはしんどいよなぁ」

降り積もる雪はどんどん重なり固まっていく。そうなる前にき出さなければならない。

「そういえば、これ。もういらないよな」

彼はカバンからくしゃくしゃの紙を出した。あれは、私がテーブルに置いてきた白い紙切れりこんとどけ。彼はそれをビリビリと破って、ぽいっと投げ散らかした。

「ちょっと!」

「こんなものはこうやって散らしたほうがいいんだよ。大丈夫、明日は大掃除だ」

ヒラヒラと舞う紙切れはどこまでも軽い。私の中に積もった小さなカケラも、消化されないままどんどん積もって固まっていった。ドス黒く渦巻いたそれに突き動かされるかのように、私はここにやってきた。それを掻いてくれたのは主人なのかもしれない。

「それと、雪かき係、よろしくね」

私はもうすっかりいつもの調子に戻っていた。苦笑いをした主人は腰を上げると、「うわっ」「なんだここ」と騒ぎながら家のあちこちを見て歩いていた。

ーそういえば、トトロにもこんな場面があったっけ。

あそこまで古くはないけど、雰囲気は似てるかも。まっくろくろすけ、いないかなぁ。

そう彼にいうと、

「そうだな、いそうだな。でも俺があちこち大声出して開けちゃったから、逃げたかもな」

「なんだ、つまんない」

明日は裏の山にも行ってみよう。もうだいぶ年取っちゃったけど、もしかしたらトトロに会えるかもしれない。なんだか楽しくなってきた。

「あれ、俺の布団は?えっ、こんなカビくさいのに寝るの?いいじゃん同じ布団で。って、なんでそこで嫌な顔するんだよ」

こんなアホみたいな会話にも、もう笑える。生きてなきゃできないことだ。もう少しだけ、生きていたい。そんな欲が出た。最後まで、私らしく。引きずり込まれそうだった夜の暗闇に、久しぶりに抑えきれない笑い声が響き渡った。






冬支度。

文字通り、冬を迎える準備。

そして、もうひとつ。

冬を人生に例えて、人生の終わりをイメージさせることから、あの世に旅立つ準備のことを表現することもあるそうです。


軽快でオシャレ✨ピリカ文庫さまに
こんな重苦しい話でいいのかな〜と思いつつ、、、

ピリカ文庫に参加できることができて、
心より嬉しく思います(* ᴗ͈ˬᴗ͈)”

ピリカさん、
ありがとうございました❤️



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